原作前、病室にて
病院には嫌な思い出もあれば良い記憶もある。長く病気で苦しんだ母のこと、それからブチャラティに叱ってもらったこと。病院では多くの出来事があった。それはナランチャにとって転機とでもいうべきことだった。
──だから、同じことを彼女にもしてやりたいと思ったんだ。
「名前ッ!」
病室の引き戸を開く。と、鼻を刺すのは薬品の強い臭い。漂白しすぎた壁は目に優しくないからあんまり好きじゃない。彼女にはもっと穏やかな色が似合うとナランチャは思う。彼女──名前には。
「いらっしゃい、ナランチャ」
名前は相変わらず入院着を着ていた。それで『ここ以外に知らない』といった顔で大人しくベッドに身を落ち着けていた。でもその膚には健康的な赤みが差し、ナランチャが最初に見た時よりもずっと生き生きとしていた。
だからナランチャはホッとして、ベッドの脇の椅子に腰を下ろした。
この病室に通った回数は既に両手では足りないほど。けれど訪れるたびに安堵する。名前がまだここにいること。彼女の笑顔が変わらず柔らかなものであることに。いつもいつも胸を撫で下ろしているのは、母親の最期があまりに印象深いからだろうか。
「どう?元気になった?」
「まずまずね、まずまず」
「なんだよそれ」
「だって昨日の今日よ、そんな変わりないわ」
名前は困ったように眉を下げた。彼女の背後からは遅い午後の光が差し込んでいた。春の初め、黄色と白色のそれ。カーテンによって濾過された日差しは、名前の控えめな笑みに似ていると思った。
「じゃあまだ退院できないの?」
「どうかしら。私はもう大丈夫だと思うんだけど」
名前はひょいと肩を竦めた。
含みを持たせた言い方。「決めるのは私じゃなくて先生だから」と言外に言われ、ナランチャは口を尖らせた。
彼女の言うことは尤もだ。でもナランチャが欲しかったのは違う言葉だった。たぶん、恐らくきっと。……自分でもよくわからないのだが。たぶんナランチャは名前にもっと『積極的に』なってほしかった。早く退院したいと、そう言ってほしかったのだ。
「けど怪我は治ったろ?そう言ってたじゃん」
「うん、でもその……お医者様って心配性なのね、きっと」
「ふーん……」
わかるような、わからないような。医者というものに関して、不思議とナランチャの中の印象は薄い。病院といえば患者と見舞い客。母と父。自分とブチャラティ。その印象が強くて、医者や看護師なんかは果たしてどうだったろう?あまりよく思い出せなかった。
そんなナランチャを宥めるように、名前はふと笑みを改めた。
「それよりあなたのお話を聞かせて。今日はどんなことがあったの?」
求められるがまま、ナランチャはいつものように話を始めた。
今日起こった出来事。午前中はフーゴと一緒に仕事に出ていた。彼はナランチャより年下であったけれど、この世界では同時に先輩でもあった。だから彼はナランチャのことを子供扱いする。少なくともナランチャにはそう感じることがあって、それが時々気に食わなかったりもする。そして今日がちょうどそんな日だった。
「フーゴのヤツ、うるさいったらありゃしないんだ。上手く犯人捕まえられたんだからいいのにさ、あーしろこーしろって後から色々言ってきて……オレの方が年上なのによォ〜……」
そしてそのたびに喧嘩になり、手が出て足が出る。最終的にはお互い傷だらけ。仕事では一個もつかなかったのに、終わった後は悲惨な状況。血を流しながらブチャラティの元に帰り、二人して彼に叱られた。
……まったく、フーゴが余計なことを言わなきゃこんなことにはならなかったのに。
そう文句を垂れると、頬に伸ばされる手がひとつ。
「……もう、痛くはない?」
名前の指先が撫でるのはガーゼで覆われた膚。それは何が原因でついた傷だったか。フーゴに引っ掛かれたのか打たれたのか、今ではもう思い出せない。それくらいナランチャにとって負傷は日常茶飯事で、細かい傷のことなんて気にしちゃいなかった。
でも名前は違っていた。彼女の眉間には細かい皺が刻まれていた。目は気遣わしげに様子を窺い、伝う指先は労りに満ちていた。
「……うん、へいき」
それはナランチャにむず痒いような擽ったいような不思議な感覚を齎した。真っ直ぐに見返すことができなくて、自然視線は落ちる。シーツの上、波間を漂う目。座りの悪さを感じた。けれど同時に沸き上がるのは温かなもので、ナランチャはもどかしげにはにかんだ。
自分が自分ではないようだった。それから名前に今の自分がどう映っているのかが気にかかった。よくわからない、羞恥に似た感情がナランチャの中にはあった。
「よかった、あなたまで入院する羽目にならなくて」
けれど名前がそれを指摘することはなかった。バカにすることもなく、名前はただ優しくナランチャを見つめていた。その口許にあるのは安堵の笑みで、ナランチャはぼんやりと思った。病室を訪れるたび、自分が浮かべているのもこういった顔なのだろうか、と。
「大丈夫だよ、オレ、結構丈夫なんだ。名前とは違うよ」
「あら、私だってそれなりよ。お医者様もびっくりしてたくらいなんだから。あなたは知らないでしょうけど」
知ってるよ、とナランチャは心のうちで呟いた。知ってるよ、名前が『特別』なことくらい。最初から気づいてた。気づいてたけど、言わないでおこうと思ったんだ。
「それならじきに退院できるね」
答えながら、ナランチャは出会った時のことを思い出していた。
名前を見つけたのは冬の終わりの海岸だった。名前は打ち寄せる波と一緒になって砂浜に倒れていた。見るも無惨な有り様だった。ボロきれ同然といった具合だった。
最初は死体だと思った。そういうのは時々見たことがあった。でも指先が微かに動いた気がして、慌てて駆け寄った。
抱き起こした顔は真っ青だった。殆ど白。唇はかさつき、能面のよう。でも水死体みたいに膨れてはいなかったし、死体独特の白さともまた違っていた。僅かではあったけれどその胸はしっかりと上下していた。まだ生きようとしていた。
だからナランチャは早く病院に連れてかなきゃと彼女を抱き上げた。両手で抱え持ち、そこでふと異変に気づいた。
彼女には幾つもの傷があった。流木だとかでできたものだろうか。ともかく浅いのから深いのまで彼女の膚には痕が残されていた。
でもそれはナランチャの見ている前で少しずつ薄れていった。まるで時間を巻き戻すみたいに。最初から存在しなかったみたいに消え失せ、しかも変化はそれだけではなかった。
彼女は少しずつ若返ってもいたのだ。最初に見た時、彼女はナランチャより幾らか年上だった。でも今はそう変わりないように見えた。ナランチャと同じくらいの子供だった。それはとても非現実的で、ナランチャは本能的にそれがスタンド能力によるものだと悟った。
けれどナランチャがそれを追及することはなかった。フーゴにもブチャラティにも打ち明けなかった。深い理由はない。ただ名前が自分から言い出すまでは胸に秘めておこうと思った。そうするのが一番良いとナランチャは考えたのだった。
──そして、その考えは今でも変わりない。
「早く元気になってよ。そしたらさ、オレ、名前を連れてきたい場所がたくさんあるんだ」
「まあ、それは楽しみね。早くお医者様を説得しなくっちゃ」
「だろ?名前だってこんなとこずっと居たんじゃ飽き飽きしてると思ってさ、まずはうまいメシ食べに行こうぜ。いいジェラートの店も知ってるんだ」
名前は『ジェラート』の単語に目を輝かせた。たぶんそれは病院食では出されないから、余計に。
ナランチャも入院していたことがあったから、彼女の気持ちはよくわかった。病院食は大概が美味しくない。煮詰めすぎたリンゴとか、味のないトーストとか。病院で考えられているのは肉体的な健康ばかりで、こんな食事をしていたら心の方が先に参ってしまうとナランチャは考えていた。
「本当に楽しみ。でも外の世界なんて久しぶりすぎて大丈夫かしら」
「そのためにも外に出る練習はしておくべきだよ。庭を散歩するくらいならいいだろ?」
ナランチャは立ち上がり、手を差し出した。
ベッドの上の名前。その傍らには栞の挟まった本が一冊。脇のテーブルにはまた何冊か積まれていて、そのどれもがナランチャには見覚えがあった。
小難しいタイトルの本。そんなものを病人に持ち込んで、喜ばれると思っているのはフーゴくらいなものだ。そしてそれを存外楽しんでいるのが名前という人だった。
──それが、何故だか面白くない。
だからナランチャは迷った風な名前の手を取った。名前は拒絶しなかった。申し訳なさそうな顔をして、しかしほんの微かな喜びを瞳の奥に浮かべた。
けれど地に足をつけた途端、よろめく体。ナランチャはそれを危なげなく抱き止め、自信たっぷりに口角を持ち上げた。
「大丈夫、安心して。オレが支えてるからさ」
そう言うと、名前はほっと表情を緩めた。「ありがとう、ナランチャ」噛み締めるように囁いて、名前はナランチャの腕に手を回した。それは信頼の証だった。多くの秘密を抱えた彼女は、それでも確かにナランチャを信頼していた。
──オレも、ブチャラティみたいにできているだろうか?
廊下を歩きながら片隅で思う。オレにとってのブチャラティ。それと同じものを名前にも分けてあげられているだろうか。
──そうだったらいいな。
中庭はオレンジの色に燃えていた。清浄の香りが漂っていた。マリアの頬にも同じ温かみが差していた。
それは穏やかな春の訪れを示していた。