原作前、春の公園にて
春を迎えたばかりの公園には豊かな香りが満ちていた。草花は爪先に接吻し、木々はそよそよと葉を揺らしていた。穏やかな、春の昼下がりだった。
そんな中、名前はふと足を止め、花の一房に触れた。
「……きれいね、」
それは枝の先から幕のように垂れ下がる花だった。目に眩しいほど鮮やかな黄色。ひとつひとつは小さな花だが、房となり頭上より降り注ぐ様はさながら陽光。アーチの中を、名前は目を細めた。ひどく愛おしげな眼差しだった。
「なんて花なの?」
だから気になってナランチャは訊ねた。
名前が気に止めなきゃ疑問にも思わなかった。たぶんこれまでも、この先も。ナランチャにとって草花なんてのは空気みたいなもので、それぞれに名前をつけようとは思いもしなかった。
しかしそんなナランチャを名前は笑わなかった。柔らかな目のまま、ナランチャに向けて口を開いた。
「これはLaburnum anagyroides……ええっと、キングサリっていうのよ」
「へー……」
「こんなにきれいなのにこの花の種子には毒があるんですって」
それから名前はなんてことないように続けた。……ものだから、最初はナランチャも聞き流しそうになった。
毒。
……毒、だって?
「あっ、あっぶないじゃんッ!」
慌てて名前の手を引き、黄色の雨から遠ざける。さっきまでは澄んだ日差しのように見えたそれ。だがしかし、今となっては危険物。毒物と聞いて一番に思い浮かぶのはフーゴのパープル・ヘイズで、だからナランチャは顔を青くした。
「なにやってんだよもォォォ〜……、溶けてない?ねぇ?無事?」
三メートルは距離を取って、ナランチャは名前に向き直る。それからその掌、腕、頬に触れ、彼女の膚が変わらず瑞々しいこと、爛れや引き攣れなんかがないことを確認した。それはもう真剣に。
その間名前はされるがまま。必死の形相のナランチャなんてお構いなしにくすくす笑う。
「大丈夫よ、ナランチャ。それに言ったでしょう?強い毒性があるのは種だって」
「そーだけどさァ〜……」
ナランチャは溜め息を吐いて、腰に手をやった。
「心配だよ、なんか名前ってさ……どっか抜けてるっていうかさ……」
危機感がない、というのとはまた違う。無鉄砲だとか向こう見ずだとも、また。名前は真面目だったし、他人のことになると慎重すぎるきらいがあった。……そう、他人のことなら。
でも自分のこととなると途端にこれだ。まだ二月ほどの付き合いだが、ナランチャにはだいぶわかってきていた。名前がどういう人間か。どれだけ自分のことを置き去りにしているかが。
そうぼやくと、名前は「失礼ねぇ」と笑った。
「これでも私、ちゃんと一人暮らしできてるんですからね」
確かに彼女の言う通り。退院してすぐ、名前はブチャラティの紹介のもとリストランテで働き始めた。家も借りたし、ひとりで自炊だってしてる。不慣れな土地で、けれど確かに名前は自立したひとりの人間だった。
けれどナランチャは心配だった。名前の身を案じていた。無茶してるんじゃないかと思った。
それはきっとパッショーネに入りたいと言った時の彼女があまりに必死な目をしていたからだろう。瞳を支配するのは焦燥感。断ったらそのまま息絶えてしまうんじゃないかとさえ思った。それくらいに必死で、生き急いでいた。少なくとも、ナランチャにはそう見えた。
だからこうしてたびたび名前を街に連れ出した。時間のある日もない日も。どんな些細なことだって名前と共有した。美味しいもの、美しい音、楽しかったこと。そうしたものが彼女を繋ぎ止めるものだとナランチャは直感していた。
「でもありがとう。あなたが誘ってくれなきゃ私、こんな風にゆっくり花を見ることもなかったでしょうね」
名前は微笑んだ。薄い幕だとか霜だとか、そうしたもの越しの笑みだった。どこか他人事で、寂しげな声音だった。
ナランチャは言葉に詰まった。「そ、っか……」それは、よかった。……よかったのだろうか、本当に?自分にはまだ何かできることがあるんじゃないか、そんな気がした。そんな気がしてならなかった。
ナランチャは辺りを見回した。なんでもよかった。ただ、名前の注意を逸らせるならなんだって。どこか遠くに馳せられた目。ここではないどこか、向こう岸を見ているみたいな目が、少しだけ怖かった。
「あッ!」
ナランチャは名前の手を引いた。ひどく冷たい手だった。彼女の元に青空は不在。濡れたイラクサみたいだと思った。それか夜明けの無感動な大地のようだった。
その感覚を振り払い、ナランチャは木々の先を指差す。
そこに羽を休めるのは黒々とした鳥。オレンジの嘴と円らな瞳が特徴的な鳥だった。そしてそれはナランチャにとって馴染み深いものだった。
「ほらッ!クロウタドリだよ!アイツの声ってさ、すっごくイイ感じなんだ!」
だから嬉しくなって──自分の好きなものを教えてやりたくなって──ナランチャは声を弾ませた。
……しかしそう言ってから、ハッと我に返る。
──もしかすると名前はもう知っているかもしれない。
そう、思い至った。
名前はナランチャより色々なことを知っていた。なんといっても入院中、フーゴから本を借りていたのは他でもない彼女だ。ナランチャの知っていることなんて、もうとっくに彼女の中では消化しきっているのかもと思った。
思って、……頬を赤らめた。
「えーっと、」
「……あれが、そうなのね」
けれどそんなナランチャには気づかず、名前はぽつりと呟いた。
彼女の目。藤色のそれはナランチャの指す方角をじいっと見ていた。真剣な眼差しだった。どこか遠くへ、ではない。ナランチャの導いた通りの場所、今そこに確かに存在するクロウタドリを静かに見つめていた。
「クロウタドリ……ってあれよね?きぃきぃって鳴く、」
「うん、えーっと、……何て言うんだろう?枝が擦れるような……でもそれより透き通ってるような……そんな音だよ」
「そうなの……」
名前の目がぱちりと瞬く。
次に開いた時、彼女が見ているのはナランチャだった。ほとんど変わらない目線。真っ直ぐに見返して、名前は眼差しを緩めた。
「詳しいのね、ナランチャ」
そこに宿るのは素直な称賛。声は優しい小川で、甘い音楽だった。
「そ、んなこと、ないよ……」
褒められるのは慣れてない。
ナランチャは目を逸らした。狼狽え、惑う視線。落ち着き場を失い、言葉を見失い。
「オレよりフーゴとかブチャラティの方がずっと色んなこと知ってるよ。オレのは全部、みんなから教えてもらったことだけだ」
そうしてようやっと出てくるのは否定の語ばかり。
だがそれは卑屈になっているのではない。ナランチャにとってはそれが真実で、心底から疑っていなかった。
けれど名前は首を振る。「そうかもしれないけど、」とナランチャの言葉を肯定しながら、しかし、と続ける。
「でもあなたが教えてくれなきゃ、私はずっと知らないままだったわ」
ありがとう、と名前は言った。言って、独り言のように囁いた。
「……あなたはいつも、私の知らないことを教えてくれるのね、ナランチャ」
──と。
目を細めて、まるで眩しいものでも見るみたいにして。感嘆のように、賛美のように、──壊れ物でも扱うみたいに、ナランチャの名を紡いだ。
その時ナランチャは自分の名前が何か神聖なものにでもなったような気がした。名前の瞳はステンドグラスで、声は純白の衣だった。吹き抜けるのは清らかな風で、灯るのは歓喜の焔だった。
「……こんなこと、いくらでも教えるよ」
「あら、本当?……じゃああのホーホーって鳴いてるのは?」
名前は目を輝かせて首を巡らした。そして見つけたのはどこかから響く囀ずり。その姿は生憎と視界には入ってこない。けれど特徴的な声だったから、すぐにピンときた。
「うーん、キジバトかな?珍しいね、こんな時間に鳴くなんて」
「じゃああの茶色の……お腹がピンクがかった白色のは?」
「ノドジロムシクイじゃないかな、結構よくいるやつだよ」
「へー……」
矢継ぎ早に問い。やがて満足したのか名前は長い息を吐く。
そしてナランチャを見上げ、にっこりと笑った。
「やっぱり詳しいじゃない」
今度は『そんなことないよ』とは言えなかった。「そうかな」と遠慮がちに答えて、ナランチャは頬を掻いた。胸中にはもどかしさに似た疼きがあった。けれど嫌な気はしなかった。むしろ心地いいとさえ思った。
「じゃあ今度は私の番ね」
「えっ」
「あれがイチゴノキ、秋になったら白い花が咲くの。それからウラジロハコヤナギ……これはよく街路樹で植わってるやつね。それからヨーロッパグリ……これも有名ね。あとは……」
「ちょ、ちょっと待って。そんなに覚えらんないってッ!!」
あちらこちらを指差されても何が何やらわからない。
急いで制止をかける。と、途端、声を上げて笑う名前。
そこでやっと彼女の目に灯る悪戯っぽい光に気づいた。名前は子供のように笑っていた。それはあまりに無邪気で、ナランチャもすぐに相好を崩した。
おかしかった。こんななんでもないはずのことがこんなにも愉快に思えるのが。おかしくて、でも嬉しかった。名前といると見ている景色が全然違った。
──そしてそれはきっと名前にとっても同じで。
だからこそこんなにも嬉しいんだとナランチャは思った。
「──ねぇ名前、やっぱり一緒に住もうよ」
気づけばそんな提案をしていた。
目を丸くする名前に畳み掛けるようにして、「ねぇ、そうしようよ」と続けた。
「オレ、もっと色んなこと教えてほしい。名前に、名前だから……オレも知ってること全部、教えてやりたい」
「ダメかな?」と窺い見る。
勢いばかりの台詞。選んだ言葉はほとんど無意識。だというのに──いや、だからこそ──言ってから、心臓の音がうるさかった。やかましいほどドクドク鳴っていて、鳥の囀ずりも今は耳に入ってこなかった。知りたいのは名前の答えで、聴きたいのは彼女の声だった。それ以外はずっと遠く、世界の外側にあった。
「……いいの?」
ナランチャには何もかもが明瞭に聴こえた。控えめに、戸惑いがちに。いいの、と問う声には求める色があった。ナランチャとおんなじに。おんなじ目で、名前はナランチャを見ていた。
ナランチャにはすべてがゆっくり見えた。ナランチャの頷きに名前の目が色づくのも、その顎がちいさく引かれ、ナランチャの手を握り返すのも。あらゆるものがナランチャには手に取るようだった。それさえわかれば十分だった。
「よかった。……だってさ、名前一人だと不安だもの。ほっといたら悪いヤツに騙されてそうだし」
「そ、そこまで抜けてない、……と思うけど」
「でもこの前ニセ警官に騙されそうになったらしいじゃん。……アバッキオに聞いたよ」
「…………」
名前は押し黙り、目を泳がせた。……返す言葉もない。そう項垂れるのを見て、ナランチャは思う。
──やっぱりほっとけないな。
ヒナギクは爪先に接吻し、ウラジロハコヤナギはそよそよと葉を揺らしていた。美しい、春の昼下がりだった。公園には寄り添った二人分の影が伸びていた。