ヴェネツィア√T


 最初に口を開いたのは長身痩躯の男だった。彼は一歩前へ出ると、ティッツァーノと名乗った。
 淡い金の髪に、異国を感じさせる浅黒い肌。名前は砂漠と草原の匂いを思った。もしくは月明かりの差す夜の湖畔を。美しくて、それ故に恐ろしいものを。
 彼はそこでまた口を閉ざすと、隣の男をちらりと見やった。それは意味深長で、何らかの言葉が含まれているようだった。
 けれど隣の男は何も言わなかった。ティッツァーノとは対照的に筋肉質なその男は、空色の瞳でじいっと名前を見つめていた。
 だから名前も男を見つめ返した。しかしそうしても何の感情も拾い上げられはしなかった。
 名前は困って、ティッツァーノを見た。ティッツァーノ。それが本当なのか嘘なのかすらも名前にはわからない。彼はそれ以外を口にしなかったし、名前も訊ねることをしなかった。
 ティッツァーノも名前を見た。隣の男を見て、名前を見て、それから右手を差し出した。

「よろしくお願いします」

 そう、彼は言った。彼によく似合う、深みのある声だった。その声は名前の中にするりと入り込み、心を柔らかに撫でていった。
 名前はホッとして、ようやく表情を緩めることができた。微笑を浮かべ、それから右手でティッツァーノに応えた。
 ピアチェーレ。慣れ親しんだ言葉のはずなのに、それはいつもとは違う響きを持っていた。

「私は名前よ」

 姓は告げなかった。それでもようやっと言えたのだという安堵が沸いてくる。初対面でするべき挨拶。その最低限は果たしたのだ、と。……未だ沈黙を守る青年から意図的に目を逸らして。

「……、」

 けれどティッツァーノは諦めなかった。彼は隣の男の肩を叩いた。しっかりしろ、そう言うかのように。
 すると青年はびくりと肩を震わした。叩かれたところから電気が流れたようだった。

「……ッ」

 途端、表層に溢れる感情。彼は名前にもわかるほどの動揺を露にした。狼狽え、さ迷う眼。それは迷子の子供に似ていた。
 対して、驚いた名前は目が離せない。すると今度は青年の方がバッと顔を背けた。まるで熱い炎にでも触れたみたいに。彼は視線を合わせようとはせず、代わりにもごもごと小さく口を動かした。

「……スクアーロ」

「え?」

「スクアーロ、だッ!!」

 一言目は空気に溶け、思わず聞き返した名前に、怒声じみた二言目が射られる。
 名前は目を瞬かせた。最初はその鋭さに、次は彼の表情に。
 スクアーロと名乗った彼は唇を噛み締めていた。それがなんのためであるかなんて名前にはわからない。でも悔しげに寄せられた眉だとか、泣きそうに潤んだ瞳だとか、そういうのは見ただけでわかる。だから名前はびっくりして、二の句が継げなかった。
 名前はまたティッツァーノを見た。彼は隣に立つスクアーロを気遣わしげに見ていたけれど、すぐに名前の視線に気づいた。

「……すみません、こういうの、不慣れなもので」

 彼は仄かな微笑を口許に乗せた。やれやれ。そう言いたげに肩を竦めるのは酷く人間臭い。動物的な臭いのない彼がやるのは意外な仕草。でも不思議と似合っていて、名前も表情を緩めた。

「いえ、私も緊張していて、」

「あぁ、ええ、そうですよね」

 ティッツァーノは「わかります」と頷く。相変わらず静かな目をしていたけど、彼も名前と同じ気持ちなのだろうか。……そうは見えないけれど。
 それでも彼の言葉は名前に安らぎを齎してくれた。スクアーロはまた口を噤んでしまったけれど、それでも、と名前は思う。それでも、このティッツァーノという人とならなんとかやっていくことができるだろう。
 そんな彼はスクアーロと名前を一度ずつ見た後で、「そういえば、」と切り出した。

「私たち、どこかで会ったことは?なんだか覚えがあるように思うのですが」

「……そう?」

 名前はぱちりと目を瞬かせた。
 ──意外だ。
 一番に浮かんだのはそれ。ティッツァーノの台詞は甘美な誘惑に似ていて、でも、と名前は思い直す。でも、彼の言葉は『それ』とは違う。砂糖やミルクなんかとは全くの無縁。どちらかと言えばストレート。子供にしては真面目すぎ、大人にしては真っ直ぐすぎた。
 だから名前は真剣に頭を巡らした。どこかで会ったことは?──あったかもしれないし、なかったかもしれない。名前にははっきりしたことが言えなかった。
 何せこの国を訪れたのは仕事が理由だ。ある不思議な──或いは呪われた──矢を探し出す。それが名前の仕事で、そのために『組織』に入団したし、その後もずっと気を張っていた。ボスから指令が──勿論直接ではないが──下り、新しい『親衛隊』メンバーとして先輩の下につくことになった今だって、緊張のあまり胸を掻きむしりたくなるほどだ。周りが見えていないのは自覚している。故に名前は答えに詰まり、口ごもった。

「たぶんそれは……私ではないんじゃないかしら」

 人違いだとはっきり言うのは憚られた。そう言い切ってしまうには余りに濁りのない眼差しだった。
 しかしティッツァーノが食い下がることはなかった。

「そうですか」

 彼はあっさりと頷いた。そこには一片の未練すらなく、むしろ名前の回答に納得している風だった。

 ──その記憶がいやに鮮やかなのはどうしてだろう。

「悪いヤツではないんです」

 ティッツァーノは手を動かしながらそう言った。
 彼がしゃがみこんでいるのは名前の庭だった。その生け垣、隣家との境目で彼は熱心に働いていた。その手にはピンセットがあって、その足元にはぬらぬらと蠢くナメクジがいた。

「ただほんの少し……気難しいだけで」

 彼は友人のことを口にしながら、その手では小さな命を容赦なく摘み取っていた。
 名前も同じようにしながら、ぼんやりと彼の友人のことを思った。名前の先輩であり、『仲間』でもあるはずの彼のことを。
 名前が一時的に彼らとチームを組むようになって、以来いつの間にかこうしてティッツァーノは名前の家を訪うようになった。
 切っ掛けは思い出せない。ただほんの些細なことだったと思う。まだ住み始めて間もない家であるけれど、庭の手入れが存外に大変だとか、恐らくはそういった世間話からの流れだった。
 ティッツァーノは仕事終わりに名前の家に立ち寄り、夕食を共にし、休日にはこうして庭の整備に精を出すようになった。
 そこで面白くないのはスクアーロだ。長らく彼とコンビを組んできた彼としては、名前なんて存在は異物としか認識できないのであろう。
 彼にとってはティッツァーノを家に招くこと自体が気に食わないらしい。先刻だってそうだ。せっかく仕事が終わったというのに、顰めっ面のまま一人雑踏に消えていった。
 そういったことがあるたびに、ティッツァーノは彼を庇う言葉を口にした。どうか誤解しないでほしい。その目は切実で、故に名前は彼との距離を測りかねていた。

「……私、気にしていないわ」

 だから名前に言えるのはそのくらいだった。ティッツァーノに気を遣う必要はないと言うのが精一杯。名前はぎこちない笑みを浮かべて、額に浮かぶ汗をタオルで拭った。
 春の盛りも過ぎ、直に梅雨がやって来る。それまでにはこのナメクジを排除しなくてはならない。そうしないと花という花が食い荒らされてしまうのだ。
 だから胸は痛むが……こうして一匹一匹、石やプランターの裏まで見て、その命を刈り取っているのだった。

「気にしていないわ、本当よ」

 けれど彼にしてみれば名前こそがこの害虫なのだろう。美しい花を食い荒らす不届きもの。排除されるべき存在で、叶うならその身に塩を振りかけたいとさえ思っていそうだ。
 ……でも、だからってどうすることもできない。

「……もっと仲良くなれたら、とは思うけど」

 名前は苦く笑み、ティッツァーノの肩を叩いた。「そろそろ休憩にしましょう」ティッツァーノは最後の一匹まで仕留めたそうであったけれど、名前はその手を引いた。それ以上は見たくなかった。なんでもない光景だったのに。そのはずなのに、酷く胸が痛んだ。