ヴェネツィア√U


 最初に思ったのは、果たしてこの女性に親衛隊の仕事が務まるのかということだった。

「私はティッツァーノ。そう、気軽にお呼びください」

 言いながら、しかしティッツァーノの目は油断なく目の前に立つ女を観察していた。

 ──美しい娘だと思う。

 けれどそれは他人の美術品を見るのと同じで、例えそれが破壊されたとしても生まれる悲しみは一片だけだったろう。惜しむ心こそはあれど、故に怒りや絶望が生まれるかといえばそれは否である。

 ──けれど。

 ティッツァーノは隣に立つスクアーロを見た。仲間であり、無二の友とも呼べる彼は驚きに支配された眼で娘を見ていた。

 ──けれど、彼は違うだろう。

 彼は──スクアーロは──この娘が傷ついたらそれと同じだけの痛みを負う。ティッツァーノがこの娘を見たのは今日が初めてだったが、予想はついていた。この娘こそが近頃彼が執心しているものなのだと。
 理解し、ティッツァーノは右手を差し出した。

「よろしくお願いします」

 ティッツァーノは意識して柔らかな表現をした。聴いた者が緊張を解き、心を許してくれるよう。
 それはこの世界に入ってから身につけた処世術であり、攻撃手段の少ないティッツァーノにとっては武器にも等しかった。
 ティッツァーノの目論見通り、娘は表情を緩めた。ピアチェーレ。その言葉に応えながら、けれどだからといってティッツァーノまでもが彼女を受け入れたのではない。全ては組織のためであり、もっと言うなら唯一の友のため。警戒心が強いわりに情の深い友人のためであった。

「私は名前よ」

 そんな思考など露知らず。娘は微笑さえ浮かべて己の名を口にした。
 ──名前。
 姓は語らなかった。事前に得ていた情報にも詳細は書かれていなかった。だがその名が嘘ではないことをティッツァーノは感じ取っていた。
 ティッツァーノはスクアーロを見た。未だ腑抜けの彼。その意識を呼び戻すため、ティッツァーノは肩を叩いた。しっかりしろ、君はそういう男じゃないはずでしょう?
 だのにスクアーロときたらまるで恋を知ったばかりの少年のよう!誰にでもそれとわかるほどの動揺を露にした今の彼が、実はギャングで、しかもボスの親衛隊を務めているだなんて。言ったところで誰にも信じてもらえないだろう。
 ティッツァーノは微妙な気持ちで、名乗りを上げる友を見守った。
 ふと思い浮かぶのはPandoraという言葉。ティッツァーノはその原義をぼんやりと考えていた。“全ての賜物を与えられた女”のことを考え、それからLoreleiのことを思った。ブレンターノによって人を惑わす美しき魔女と定義された女のことを。
 そして彼女はそのどちらだろうかと考え、いや、そのどちらでも差はあるまいと内心で苦笑した。どちらにせよ、破滅には違いない。
 ともかくティッツァーノには、この名前という娘が何か不吉なものの象徴に思えてならなかった。


 ──だからティッツァーノは彼女に近づくことにしたのだ。


「本当にありがとう、助かったわ」

 庭での作業を中断したティッツァーノの前に出されたのはスフレムータ・ディ・リモーネ。冷えたグラスを机に置き、それから名前は席に着いた。
 彼女はなんの翳りもない瞳をしていた。初対面の時の強張りも今は昔。すっかり気を許したといった顔で、彼女はティッツァーノに笑みかけた。

「大したお礼じゃないけど、よかったらどうぞ」

「いえ、ありがとうございます」

 グラスと一緒に提供されたのはズッパ・イングレーゼだった。カスタードの甘やかさとベリーの爽やかさ。鼻孔を擽る匂いと毒のない笑みに負け、ティッツァーノはスプーンを手に取った。

「……美味しいです」

「そう、お口に合ったならよかった」

 ありきたりな台詞。考えなくたって滑らかに吐き出される言葉は余りに陳腐。だがティッツァーノにはそれしか言いようがなかった。向けられる無垢な眼差しが棘と化すだなんて、あの時は考えもしなかった。
 ティッツァーノは曖昧に頷き、そっと視線を外した。
 だというのに思い出すのは名前のことだった。先刻彼女が言った言葉。『もっと仲良くなれたら、とは思うけど』そう言った時、彼女がどんな顔をしていたのかティッツァーノにはわからなかった。わからない方が幸せだった。知る必要のないことだった。

 ──そう、理解しているというのに。

 ティッツァーノは口を開きかけ、……寸前で思い止まった。今自分が何を口にしようとしていたのか。またも友人の名を出して、彼女に何を伝えようと思ったのか。考え、気づき、……溜め息を吐きたくなった。
 名前に近づいたのは彼女のことを見極めるためだ。一人暮らしだと庭の手入れまでは手が回らない。世間話の流れからそう溢した彼女に、ティッツァーノは親切を装って持ちかけた。『よければ手伝いましょうか?』と。
 名前は一も二もなく飛びついた。『ご迷惑でなければとてもありがたいわ』──迷惑だなんてとんでもない!ティッツァーノは心からそう思ったが、その理由は彼女が考えているようなものではない。真実は観察であり、監視である。それはこの世界ではごく当たり前の行為で、申し出た当初は罪悪感など欠片もなかった。
 ティッツァーノは改めて彼女を見た。自分と向かい合い、穏やかにグラスを傾ける彼女を。

「……あぁ、しあわせ」

 呟いた彼女の輪郭は差し込む午後の光で仄白く縁取られていた。綻んだ口許は盛りを待ちわびる薔薇であり、煙る瞳はステンドグラスの輝きだった。そしてその光景はティッツァーノに失われたはずのいくつかの記憶を思い起こさせた。幼い時に祈りを捧げた礼拝堂や、神が宿ると教えられた豊かな自然を。
 ──だから、だろうか。

「……あなたにとって、幸せとはなんですか?」

 気づけば名前は目を瞬かせていて、それから思案げに眉根を寄せた。

「……難しいことを聞くのね」

「……すみません、」

「ううん、いいのよ、それは別に」

 名前は笑い、「そうねぇ……」と目をさ迷わせた。その唇が開かれ、答えが紡がれるのをティッツァーノは祈るような思いで見つめた。その答えで全てがわかる。根拠はないが、何故だかそう強く思った。

「私が思うに、」

 名前はゆっくりと口を開いた。

「幸福っていうのは今ここにいる『私』という存在を知覚できることじゃないかと思うの」

 何もかもがよく見えた。言葉を探す目も唇も。何もかもがティッツァーノには鮮明に、色鮮やかに見ることができた。
 「うまく言えないんだけどね」名前は恥ずかしそうに小さく笑った。

「人って細胞の集まりとか、そうしたものからできてるわけでしょう?みんなそれは同じで、なのに『私』と『あなた』は違う。ボタンひとつ掛け違えただけで『私』は『私』じゃなくなる……」

 だから、と。真っ直ぐな目がティッツァーノを射抜く。

「私はこの奇跡を幸福だと思う。今あなたとお話している私が存在する、私にとってはそれこそが奇跡であり、幸福なの」

 言い終え、また名前は羞恥を頬に滲ませた。
 本来であればそんな彼女に声をかけてやるのが自然だ。彼女の知るティッツァーノならきっとそうする。自分でもわかっている。
 けれどティッツァーノは「……そうですか」と言うことしかできなかった。完敗だった。これ以上は不可能だった。

 ──いや、もう手遅れか。

 ティッツァーノは先刻まで行っていたことを思い出していた。石やプランターの裏で蠢く影。醜いそれは美しきものを貪り尽くそうと口を開いている。食い散らかして、置き去りにしようとしている。その、哀れな花と目の前の彼女が重なった。

「素敵な考えですね。なんとも……美しい」

「あ、ありがとう……」

 手遅れだった。もう今までのようには思えなかった。彼女は他人の美術品。傷ついたとて、深い嘆きは齎されない。そう思っていたけれど、今は違う。
 ティッツァーノはトラークルを思い浮かべた。パンドーラでもローレライでもなく、錯乱し、拳銃自殺をはかろうとした衛生兵のことを。それから名前の笑顔を重ね、生じた痛みに溜め息を吐いた。
 今ならスクアーロの気持ちがよくわかる。そしてそれが存外に悪くないものなのだということも知った。不思議と心は穏やかで、ティッツァーノは初めて心からの微笑を彼女に送った。