ヴェネツィア√\


 蔦の這ったポーチを抜け、庭園へ。小さなそれはしかしせせこましい海上都市の町並みを抜けた後だと不思議な解放感を与えてくれる。
 春の庭園は馥郁たるもの。葉蔭には白や黄色の小さな花がつき、梢はささやかな唱歌を奏でる。あとは蜜蜂の唸り声、運河のせせらぎ、それから軒先に作られた泥の巣からはつばめの囀ずり。楽しげな音色だけが絶え間なく辺りに満ちていた。
 ──と。

「──A mala……E'una gioia infinita che dura una uita……」

 それらに混じり聞こえてくるのは控え目な歌声。スクアーロにとっても馴染み深い歌詞。だがしかしスクアーロの記憶よりも柔らかな音色はマドリガルのよう。牧歌的な声。遅い午後の日差し、高々と照る陽の下──輝く彼女の髪のブロンドは金襴緞子。その背に忍び寄り、──抱き竦めた。

「……まさかそんなに気に入るとは思わなかったな」

 震える体。しかしそれは驚きゆえ。見開かれた目の仰ぎ見る先、自身を抱く者の顔を認め、彼女の目許は和らぐ。
 「スクアーロ、」ただ一言。それだけだ。彼女に名前を呼ばれただけ。それだけなのに、何もかもが征服された。身を震わすのは新鮮な歓喜だった。
 彼女──名前はスクアーロの腕の中で向き直り、「おかえりなさい」と頬に唇を寄せた。その一瞬、立ち上るのは清浄の香り。征服者たる彼女からは土や草花の懐かしい香りがした。

「なんだか耳に残っちゃって。気づいたら歌っちゃってるのよね」

 そう言う彼女が先刻まで口ずさんでいたのはとあるサッカーチームの応援歌。スクアーロが誘い出すまでは知らなかったであろうそれを、今の名前は知っている。そういう些細なことが喜びに繋がるのだと彼女はわかっているのだろうか?

「続けてくれていいんだぜ」

「え、……イヤよ」

「恥ずかしがることないだろ。……ちょっと音外してたくらいで」

「やっぱりそうだったのね!……なおさら歌わないわ、もうあなたの前ではね」

 揶揄うと、途端にむくれる顔。口を尖らせ、不満を露。でも嵐のような激しさはない。ふいと顔を背け、スクアーロの手から離れていったって。覗き見た横顔には果てのない純真さがあった。

「悪かったって。オレよか全然うまいと思うぜ」

「あーら、そう?でもそんなあなたにもわかるくらいにズレてたのよね、私?」

「まあな」

 追い縋ると、眉が弓のように引き絞られる。「そこは否定するところでしょう!」……だって。なるほど、確かに。
 スクアーロも納得の抗議。でもそうは返せなかった。春の草花のように燃え上がる瞳。煙る紫。淡いそれが色濃くなるのを見るのもスクアーロは好きだった。趣味が悪いとか性格が悪いだとか詰られたって変えられない。ともかく、名前がどんな顔をするのも楽しかった。色々な顔を見たいと思った。

 ──でももうあんなのは懲り懲りだ。

 思い出すのは数週間前、四月のある日、かつての『ボス』から最後の命令が下された時のこと。
 あの時の名前の顔ときたら哀れと言う他なかった。干上がった膚、萎んでいく花。彼女の顔は色を失い、今にも死んでしまいそうだった。優しさ以外映す必要のない瞳が暗い影を孕み、苦悩に喘いでいた。どんな表情だって愛おしいと思うが、この時のような思いを彼女にさせるのは真っ平だった。
 だからあの日もスクアーロは提案した。ブローノ・ブチャラティたち、裏切り者の始末。『ボス』はスクアーロたちに多くを語ることはしなかった。知る必要はないと言外に語っていた。詮索は許さない、そう命じられているのだと理解していた。
 だがスクアーロは受け入れなかった。受け入れることなど到底できなかった。そうした瞬間、名前がこの手から離れていってしまうのだと諒解していた。だからスクアーロは提案した。『ボス』よりも名前を選んだ。平穏よりもずっと大切なものがそこにはあった。
 ──そして、結果は上々。ブチャラティはボスの娘を守るためにボスを裏切った。それを聞かされればなるほど、手を貸すには上出来だ。悪くない理由だった。それより何より、名前から安堵の表情が引き出せた。スクアーロにとってはそれが一番の収穫で、『ボス』が変わろうがどうという問題はなかった。
 そう、計画は成功し、ボスの席には年若い少年が座ることとなったのだ。
 だがしかしスクアーロにとって幸運なことに、彼は理解ある男だった。スクアーロが望むのはかつてと変わらぬ生活で、そうしたものを新しいボスは容認した。以前よりもずっと自由で身軽な日々だった。スクアーロの側には変わらずティッツァーノと名前がいた。それで十分だった。

「手伝うよ、お詫びに。何したらいい?」

「いいわよ、ナポリから帰ってきたばかりでしょう?そんなあなたに庭仕事なんてさせられないわ」

 さっきまで怒った風だったくせ、申し出ると途端に名前はすまなそうな顔をした。彼女の手にはピンセットがあって、足許にはバケツが置かれていた。それだけで大体の見当はついたから、スクアーロは笑った。大した仕事じゃない、と。

「駆除すりゃいいんだろ?ナメクジか?アブラムシか?」

「今日はアブラムシ……シロタエギクのとこにね、見つけたから」

 それならお安いご用。半ば無理矢理手袋を借り、スクアーロは草地に膝をついた。梃子でも動かないって態度を示した。
 これには名前もお手上げ。仕方ないなぁと言いたげに溜め息を吐き、スクアーロの隣に腰を落とした。

「そんなに元気有り余ってるの?」

「ん、まぁな……。ちょいと夜会に出て、呑気してる男を一人始末しただけだから」

 答えながら辿る記憶は昨日のものではない。それよりずっと前、……教会で名前を見かけた日のことだった。あの日名前から柔らかな眼差しを向けられていた男のこと。スクアーロは自身が始末した男のことを思い出していた。
 あの時スクアーロは男を羨んだ。たぶんきっと、そういうことだったのだろう。微笑みを自分にも向けてほしいと願った。自分が死ぬ時、迎えに来るのが彼女だったらいいとさえ思った。

 ──では、今はどうだろう?

「……おつかれさま」

 そう囁く彼女も微笑んでいた。けれど教会で見たそれとは少し違っていた。あの時のような厳かな神聖さはなかった。公平さゆえの冷徹さ、隔たりはなく、透き通った風が頬を撫でた。その指先が形作るのは愛情で、神のような傲慢さはなかった。彼女はただの人で、身勝手にもスクアーロの行いを肯定していた。彼女にとって大切なのはスクアーロで、彼やティッツァーノ以外は道端の石と同じだった。

 ──そうしたものを、スクアーロは愛しいと思った。あの時よりもずっと、……好きだと思った。それが答えだった。

「な、なに、どうしたの?」

 唐突に抱き締めると、名前は怪訝に身動いだ。それすらも纏めて腕の中へ、包み込み、スクアーロは「いや、なんとなく」と笑う。なんとなく、そうしたくなったんだ。名前はわけがわからないといった顔で、でも抵抗はしなかった。諦めたように力を抜いて、やがてその背に手を回して応えた。

「おやスクアーロ、帰ってたんですね」

「おぉ、ティッツ……ちょうどついさっきな」

 声の方を見ると、エプロンをしたティッツァーノが歩み寄って来るのがわかった。
 今日の夕飯担当はティッツァーノということらしい。彼の作るメランザーネ・チャールストンは絶品だ。パネッレやアランチーニも美味い。基本的には彼か名前が料理を担当する。それを毎日のように食べられる自分はとんだ幸せ者だとスクアーロは思っていた。

「何してるんです?二人揃って……感動の再会ってわけでもないでしょうに」

「知らないわ、スクアーロが急に……いいことでもあったんじゃない?」

「なるほど、……よかったですね」

 ティッツァーノは名前に答え、それからスクアーロに視線を移した。意味ありげな眼差しだった。彼はすべてを諒解しているって風に微笑み、頷いた。スクアーロも口許だけで笑った。本当に、彼には感謝してもしきれない。

「ティッツも来いよ、二日もオレがいなくて寂しかったろ」

「……そうですね、ええ、感動の再会といきましょうか」

 手招くと、ティッツァーノは悪戯っぽく笑ってスクアーロを抱き締めた。……ちょうど間に名前を挟む格好になって。
 だからスクアーロを抱き締めるというより、二人がかりで名前を圧迫する形だった。スクアーロの手は名前の背にあって、ティッツァーノの手は名前の腹にあった。

「ちょ、っと……苦しいわ!ねぇ!」

 であるからして、名前が悲鳴じみた声を上げるのも無理からぬこと。しかしスクアーロは彼女を解放しようとはしなかった。ティッツァーノもまた同じで、彼は「悲しいこと言わないで」と一層腕の力を強くした。
 空の色はあまりに蒼く、空気はあまりに優しく、あまりに甘かった。彼女は喜ばしい征服者で、その眼差しは夜明けだった。スクアーロの手には喪いがたい友と愛しい人がいた。これこそが完璧な世界で、エデンの花園であった。