ヴェネツィア√[


 窓の向こうからは白々とした陽が昇っていた。朝露を含んだ草花は冷え冷えとした輝きを放っていた。熱や温かみの外側で、名前は彫像のように強ばった顔をしていた。硬質な目だった。けれど同時に大きな迷いも秘めていた。
 そして名前は躊躇いがちに口を開いた。

「ボスの……娘は……無事、なのかしら…………」

 スクアーロは「娘?」と眉根を寄せた。ボスの娘。それがどうしたというのか、そう言いたげな彼は名前が何のために躊躇っているのか理解できなかった。
 けれどティッツァーノは違った。ティッツァーノは多くのことを悟っていた。たぶんきっと、名前よりもずっと。名前自身のことすら彼女以上に諒解していた。
 ティッツァーノは殊更興味なさげに「さぁ?」と答えた。

「その点に関して、ボスは何も」

「何も?」

「ええ。……だってそうでしょう?我々には関係のない話です」

 我ながら酷く素っ気ない、と内心で思う。傷ついたような名前の顔に痛む心もある。しかしティッツァーノは表情を変えなかった。ティッツァーノは冷ややかに名前を見つめ返した。
 その間に挟まれて、スクアーロは二人を交互に見やった。何事かと慌てているのがよくわかる顔だった。だがティッツァーノがそれについて触れることはなかったし、名前は名前で懊悩に目が眩んでいた。

「関係……なくはないわ」

 名前は喘ぐように呟いた。

「だってそうでしょう?もしブチャラティたちが裏切って……それでボスの娘を……。それなら私たちが助けなきゃならないわ」

「……私たちが命じられたのはブローノ・ブチャラティとジョルノ・ジョバァーナの始末。それだけですよ」

 冷徹に告げると、名前はびくりと体を震わした。見開かれた目はまるで信じられないものを見たとでも言いたげだった。そんな目で彼女はティッツァーノを見ていた。
 彼女は一晩にして朽ち果ててゆく五月の白百合のようだった。その華やかな顏は色褪せ、萎み、窶れていた。帝国興亡の一時代。最後の審判を迎える人の顔だった。

「ええ、ええ、そうね……。あなたは正しいわ……」

 名前はか細い息を吐いた。その口許に浮かぶのは痛々しい微笑。青白い頬は、死の淵から無理矢理に連れ戻されたアレスティスさながら。気の遠くなるほどの時間が一息のうちに彼女を呑み込んでいた。

 ──長い長い沈黙があった。

「……名前、」

 最初に動いたのはスクアーロだった。
 彼は気遣わしげに名前を窺い見た。躊躇いがちに、けれど確かな目的を持って。慰めを籠めて伸ばされた手はしかし、彼女の肩にまで回ることはなかった。

「…………」

 名前はそっと首を振った。長い髪が通り雨のように膚を打った。スクアーロは何も言えなかった。それは無言の拒絶だった。諦念を帯びた微笑みにスクアーロは顔を歪めた。
 その様子をティッツァーノはどこか遠くから眺めていた。美しい絵画のようだとも思っていた。互いに互いを想い合う、なんと美しいことだろうか、と。どこか他人事のように二人を眺めていた。二人を取り巻くのはほの白い明け方の光で、物悲しくも神聖なる様相を呈していた。

「……降りますか?」

 その静寂を切り裂いたのは他でもないティッツァーノ自身だった。多くのものを削ぎ落とした声に、名前もスクアーロも困惑に目を揺らした。

「降りてもいいんですよ、あなただけなら」

 ティッツァーノは名前を見た。意識的にスクアーロのことは外側に追いやった。ティッツァーノは名前だけを見ていた。彼女の頼りなく揺れる瞳だけを見つめた。
 ティッツァーノは明確な答えがほしかった。それは名前の口から、名前の意思で発せられなければならないものだった。

「おい、ティッツァーノ」

 けれどスクアーロはそれを良しとしなかった。心優しき友はつかつかと歩み寄り、ティッツァーノの肩を掴んだ。
 力強い瞳だった。彼の蒼い瞳にはしかし赤々とした焔が宿っていた。それは誠実さの象徴であり、彼女への想いの深さを何より雄弁に語っていた。

「スクアーロは黙っててください」

「いいや黙らねぇッ!」

 ──そしてそれはこの激情に駆られた声にも同様に。
 ティッツァーノによって手を振り払われたスクアーロは、彼に向かって高らかに宣言した。
 そうしてからまた名前の元へと駆け戻り、未だ座したままの彼女の足元へと膝をついた。

「名前、お前は納得したいんだよな?ブチャラティたちを始末する、そのための理由を」

「スクアーロ、」

「それなら納得させればいいじゃないか。オレのクラッシュとティッツのトーキング・ヘッド、それに名前、お前がいればできる。ブチャラティたちから話を聞き出せる」

 彼は放り出されたままの彼女の手を取った。掬い上げるその所作は壊れ物を扱うようだった。繊細で、愛おしげなそれ。その手を握り締めたまま、スクアーロは切々と言葉を紡いだ。
 その眼差しのなんと真っ直ぐなことか!ティッツァーノには揺れ動く名前の目がはっきりと見てとれた。彼女の唇は震えていた。スクアーロ、そう呼ぶ声には迷いが残るのに、なのに感情は抑えきれていなかった。スクアーロ──そこには間違いなく歓喜の色があった。

「……スクアーロ、言っている意味、理解してますか?」

 だがティッツァーノは夢物語に口を挟んだ。静かに、穏やかに。一切の色を乗せず、淡々と問いかけた。
 振り仰ぐ二人。けれど顔色を悪くしたのは名前だけだった。彼女はティッツァーノの問いかけを正しく理解していた。

「ダメ、ダメよ、スクアーロ……あなたまで巻き込むなんて、わたし、」

「名前……」

 名前は頑是なく首を振り、両手で顔を覆った。そこには先刻までの輝きはない。光は失せ、啜り泣きだけが漏れ聞こえてきた。
 それも無理のないことだとティッツァーノは思う。彼女の望みはボスを裏切ることだ。ボスの要求はブチャラティチームの抹殺。それだけであり、それ以上の情報がないということは、知る必要がないと告げられているのと同じだった。深追いは禁物。知りたいと思うことすら罪。裏切りと同義なのだ。
 だからティッツァーノは『そう』問いかけた。スクアーロの提案。それを受け入れるのなら自分たちもまた裏切り者になる。名前にその覚悟があるのか。──スクアーロまで、巻き込む覚悟が。
 彼女の天秤はあっさりと傾いた。名前は甘い。一度懐に入れたものにはどこまでも自己犠牲的。そんな彼女がスクアーロの命と自身のそれを天秤にかけたなら──結果はわかりきっていた。
 名前は『気にしないで』と言うようにスクアーロへと微笑みを向けた。それから『ありがとう』と。その瞬間、彼女の目には穏やかな諦めと死が横たわっていた。ティッツァーノにはスクアーロが唇を噛むのが見えた。悔しげに握られた拳も。

「……オレはこの組織のことが気に入ってる。今の生活だって結構楽しんでるからな。……けど、」

 ──その後に続く言葉すら。

「だからってお前を切り捨てるほどじゃあねぇ。名前、お前が納得して、ここにいてくれなきゃオレは……オレは、ここにいる意味がなくなっちまう」

 ティッツァーノにとっては予想通りの展開だった。何もかもが見えていた。「なぁティッツ、頼むよ、」と泣きそうな顔でスクアーロが懇願してくるのさえも。

「……やれやれ」

 ティッツァーノは溜め息を吐いた。やれやれ。本当に……長い長い道のりだった。ここまで来るのにどれほどかかったのか。ノアの洪水から最後の審判まで。ティッツァーノにはそれくらいに思えてならなかった。

「いつも私ばかりが悪役になるんですから、損な役回りですよね」

 強ばった顔をとき、頬を緩ませる。それから芝居がかった仕草で肩を竦めてみるが、名前もスクアーロも目を瞬かせるばかり。
 ……これは、やり過ぎただろうか?
 そんなことを思いながら、ティッツァーノもまた身を屈め、名前と視線を合わせた。そして殊更に柔らかな微笑を刷き、慎重に口を開いた。

「名前、すべてを話してください。あなたが今抱えているもの、そのすべてを」

「ティッツァーノ……」

 安心させようとその甲をそっと撫でた。干上がった膚は冷たく、追い詰めたのは自身だというのにティッツァーノの胸は痛んだ。
 それでも名前は目をさ迷わせた。乾いた唇が躊躇いを滲ませ、戦慄いた。何事か、探す素振りで口を開いては閉じを繰り返し、そうしてやがて、彼女は目を上げた。

「わかってるわ、ここであなたを肯定するのは正しくないって。あなたはまさしく『名誉ある男』よ。だからこれは……罠かもしれないって」

「そんなことは、」

「でもね、」

 一拍。置いて、名前は口許を綻ばせる。悲しげに、痛ましげに。失望や落胆や……そうしたものの果てに、ひとつ。温かな光を宿して。

「でも、それでもいいと思ってしまったの。あなたに……あなたたちに殺されるならそれもいいかなって……わたし、最低だわ」

 泣きそうに顔を歪めて、名前は「ごめんなさい」と懺悔した。
 それは神に対してのものではなかった。それだけではなく、ティッツァーノの知らない誰かに向けてのものでもあった。誰か知らない、何者かの名前を呼んで、名前は懺悔した。

「大丈夫、大丈夫さ、名前。きっと全部上手くいく。オレたちを信じてくれ」

「うん、……」

 そんな彼女の肩を今度こそ抱き締め、スクアーロは笑った。
 窓越しの花々は光を浴びて目映く燃え上がっていた。軒先からは燕の囀りが漂い、運河の清浄なる水音が混じり合っていた。
 名前はスクアーロの腕の中で泣いていた。『ごめんなさい』、『ありがとう』を繰り返して。囁く姿は儚く、天上花の静けさがあった。朝露を含んだ顏は、清め日を経た女のものだった。小さな花園であり、そこには曙の女神の祝福があった。