司書と秋声

 落ちていく。
 落ちていく。
 落ちていく。
 視界は黒く、空気のさざめきすらなく。
 暑さも寒さも感じない空間に名前は落ちて(あるいは浮遊して)いた。
 ともすれば自己と世界の境界すら曖昧になるなか。
 それでも名前に恐怖はなかった。
 それは左手を包む温もりがあったから――名前が知るどの男性よりも不健康そうな色をしているのに、そのくせ誰よりも頼りがいのある温かな手は目を閉じたままでも何ひとつ不自由なく思い描けた。
 その温もりに背中を押され、名前は一気に水底を目指す。
 空気を裂き、身体を滑らせ、右手を伸ばし――
 そうしてついに、名前の指先が何かに触れた。
 引きそうになる腰に力を入れ、指をさらに奥へと潜らせる。
 瞬間。

『……っ』

 暴風か、あるいは奔流か。とにかくごうごうと鳴り響くそれは空間ごと名前を引き裂こうとする。
 名前を押し戻そうとしているのか。それは下から上へ吹いているようだった。
 それでも名前は唇を噛み締め、視界を閉じたままひたすらに、一心に手を伸ばす。
 願いはひとつ。

『お願い、力を貸して……っ!』

 声にならない叫びが届いたのか。
 名前の右手を何かが掠めた。
 吹き荒れる嵐の中、確かに名前以外の何かが(そう、まるで、人の手の、ような)――いた。
 名前はひどく頼りなげな、ともすれば霞の如く立ち消えてしまいそうな何かをなんとかして繋ぎとめようとした。それは決して見失ってはならないモノだった。名前は祈りながら(お願いします、どうか、どうか)懸命にそれに追い縋る。そうすると少しずつそれはカタチを得ていくようだった。霞のようだったものがやがて水泡になり、水泡はやがて液体になり。
 やがて――――
 名前の右手に、今までなかった温もりが生まれた。


 けたたましい音を立てて、目覚まし時計が名前の頭の周りを踊り出す。時刻は午前6時。その短針がひとつ傾くと、特別製の時計はキンキンと耳障りな音をかき鳴らしながら、今度はサイドテーブルに飛び乗りタップダンスを始める。ふたつ傾くと、不快な音からシャウトに切り替わる。ロックバンドのそれをコピーしたもので、なかなかの破壊力なのだが、それを耳元で叫ばれても未だに名前は夢の中だった。いや、半分は覚醒状態に移ってはいるのだ。だが体が言うことを聞かない。自分が作った時計の目覚まし音に「うるさいなあ」とは思うものの、だからといって布団から体を出すほどのものではないのだ。「こうなったらもうベッドをひっくり返す装置でも取り付けるしかないのかしら」夢うつつに構想を練っていると――

「いい加減起きろ!!!」

 バンッと勢いよくドアが開く音、それから怒鳴り声。ふたつが聞こえたと思ったら、あっという間に名前の掛け布団は引き剥がされていた。名前にはあれほど粘着質に纏わりついていたというのに。

「しゅーせーさん……、すごい、ですね……」

「凄いのは君の方だ。いや恐ろしいと言っても過言ではないね。なんだってあの騒音の中で呑気に寝ていられるんだ。異常としか思えないよ」

 寝起きの名前には彼の言うことの半分も理解できなかった。だから「そうですかねぇ」と曖昧な返事をしてのそのそと起き上がる。鉄壁の城塞が崩れたのだ。もはや降伏するしか術はなかろう。

「おはようございます、しゅうせいさん」

「はいはい、おはよう。さぁ早くその女人とは思えないほどとっ散らかった髪と顔をなんとかしてくるんだね」

「はい……」

 よろよろと、名前は目を擦りながら歩き出す。が、

「いたい……」

 寝起きが信じられないほど悪い名前はカーペットの端に足を引っかけたかと思うと、踏ん張る努力をかけらも見せずに無残にも床に転がった。

「はぁ……なんだって朝の君はこんなにも使い物にならないんだろうね……」

 徳田秋声の溜息が名前の頭上から降ってくる。彼の疑問は名前にとっても解き明かしたい謎ではあるのだが……

「ほら、早く立ちなよ」

 そっけない言い方ながらも、秋声が手を差し伸べてくれるから――

「……、ありがとう、ございます」

 ついつい、名前は甘えてしまうのだった。


 司書として働き始めてから3日目の朝。館長から本日の業務として「新たな文豪の転生」を命じられた時、名前はあからさまに嫌な顔をしてみせたりはしなかった。が、その肩がわずかに落ちたことを秋声は見逃さない。「なんだってそんな気落ちしてるんだい」有魂書室(文豪の転生を行う部屋を館長はそう呼んでいる)へ向かう道すがら、秋声は名前に訊ねた。秋声の背は特別大きいというわけではないが、名前と並ぶとずうっと大人に映る。事実彼は大人なのだ――名前と違って、こんな小さなことで不安がったりしない。おまけに心配をかけるなんて(言葉にはしなかったが、秋声の目は確かに名前を案じていた)。名前は恥じ入った。「気落ちしている、ってわけじゃあないんですけど……」自然、答える声も尻すぼみになる。

「けど?」

「……うぅ」

 言葉に詰まる。目が泳ぐ。でも言葉と目線で促され不承不承唇を開いた。ただし「笑わないでくださいましね」と前置きしてからではあるが。

「ちょっと、怖いんです。秋声さんを喚んだときもそうでしたけど……。その、わたくしからすれば皆さまは有名な方ですけど、でも皆さまからすればわたくしは見ず知らずの人間で、おまけにそんな人間が著名人に指令を下すようになるわけで……それって気持ちのいいものではないでしょう?」

「そりゃあそうだろう。まぁ僕は別に君のこと、」

 秋声はそこで言葉を切る。どうしたのかと名前が見上げると、秋声はすこし身を引いた。それから身を正し目を彷徨わせ唇を潤し――そうしてようやく続きを口にした。「嫌いじゃないから気にしないけどね」と。いつもより早口で。
 彼の言葉に名前の胸は温かくなる。寒い冬の朝にホットチョコレートを飲んだみたいに。でもその温もりも悲観的な考えに塗り替えられるのを止められやしない。

「でもみんながみんな秋声さんみたいに寛容とは限らないじゃないですか……」

 はぁ、と溜息。そうしたって仕事は仕事。逃げるわけにはいかず、重い足取りであっても必ず目的地には到達する。
 有魂書室に入るにはまず潜書室を潜らねばならない。そしてその部屋のマホガニーの扉は不必要なほど大きく厳めしい顔つきをしていた。アナクロな造りになっている帝國図書館には似合いだが、しかし今の名前を圧倒するには十分すぎた。その扉を開けると今度は2つ、また扉が並んでいる。左が有碍書室、右が有魂書室だ。名前はごくりと唾を飲み込む。時間をかけるとその分入りづらくなるだろうことは目に見えて分かっていたので、思い切り扉を開いた。
 この部屋に入るのは二度目だ――初めては特務司書になるための最終試験を受けた時だから半年も前になる。けれど様子はなんにも変わっていない……そう考えて、いや、と思い直した。半年前は緊張で周りなんて全然見えてなかった。仮に和蝋燭が洋蝋燭であったとしても名前は気に留めもしなかったろう。

「相変わらず陰気くさい部屋だね」

 秋声は眉をひそめた。「鏡花が来た日には目も当てられない」そんな日は来なくていいけど、と続けてしまうのが彼の癖だということも半年の間に学んだ。泉鏡花。教本でしか知らない文豪に、名前は口を挟まない。代わりに、「人が集まったら掃除しましょうね」と言う。秋声はやれやれと言ったが、嫌だとは言わなかった。つまりはオーケー、了承だ。

「さ、早いとこ片づけてしまおう」

「ええ」

 と、同意したものの、光源が蝋燭のみとはなんとも心もとない。目を凝らせば、左右の壁に沿って天井まで本棚が嵌め込まれているのは分かる。それから、間に大きな机があることも。その上には蒸留器やら砂時計やら大小さまざまな壜やらが雑然と置かれている。これでは下手に動くのもまずい。前回はどうしたのだったか。確か館長に手を引いてもらって――と回顧し始めたところで横から手が差し出された。秋声の手だった。「ほら」早く、とぶっきらぼうな声。重ねると、ぎゅっと握られた。

「僕の方が夜目は効くみたいだから」

 秋声の横顔が言う。ぼんやりとしていて輪郭しか掴めないが、いつもの仏頂面をしているのだとなんとなく分かる。だから名前は安心した。秋声がいるなら大丈夫だ、と。

「それで、どうすればいいの?」

「本が必要なんです。そこの――本棚にある、」

 有魂書――それは錬金術師がその手で文豪の書物を書き写したもの。その紙も使ったインクも錬金術師特製のものだ。それと専用に調合した洋墨と呼ばれる液体が文豪の転生に必要となる。非人道的だ――そんな考えは忘れたふりをしておく。誹りを受ける覚悟はとうにできていた。

「これがいいって要望は?」

 背表紙を指でなぞりながら秋声は聞いてくる。律儀な人だ。名前はうーんと唸って、結局「特には」と返した。文学方面には明るくない。ここは秋声に任せた方がいいだろう。
 彼はそう時間を置かずに一冊の本を抜き出した。それを受け取り作者を確認し、名前は首を傾げた。この人は、秋声と関わりがあっただろうか。

「一応、付き合いにくそうなのは避けたつもりだけど」

 ……なんて、優しい人だろう。
 「……ありがとう、ございます」その言葉はちゃんと届いたろうか。震えて、形になったか自信が持てない。
 床に敷かれた陣、その上に置いた本を前に、大きく息を吸い込む。大丈夫。どんな人が来てもどんな言葉を投げられても、名前は名前の仕事をするだけだ。書を護りたい――その願いに応えてくれた、彼に報いるためにも。
 名前は手のひら大の壜を取り出すと、中身を丸々本の上に零した。洋墨、その名の通り黒々としたそれは、流れ出して本に落ちるまでは確かに存在していたのに、本に触れたと思ったそのそばから消えていた。消えた、といより吸い込まれたという方が正確か。初めて見る光景に、秋声は目を瞠った。未知なる体験。書家としての血が騒ぐ。「どうなってるの、これ」こらえきれず訊ねる。名前は困ったように笑った。「答えたいのは山々なんですけど……」この現象に名前はないし、その理由も説明できない。名前の専門は人格データの抽出とそれによる不老不死の研究だ。

「とにかく、これで準備はできました。後は私たち二人で潜るだけですわ」

「潜る?」

「実際は目を瞑り手で本に触れその世界に意識を向ける――それだけですの。でも感覚としては潜ると表現した方が正しいかと」

 本に没入する――経験としては秋声にももちろんあったが、それで文豪が喚べるのか。疑問はあったが、秋声は溜息混じりに返した。

「……つまりはやってみるしかないってことでしょ」

「そうですね」

 「お手数おかけします」名前は頭を下げた。この作業には(いや、書を護るという仕事全般においてだが)彼らの力が不可欠だ。今現在の問題に彼らを巻き込むのは申し訳ないが、他に方法もない。時間も、それから人員も。

「いいよ、もう。この半年で君に振り回されるのにも慣れたから」

 秋声は顔を引き締めた。「行こう」名前の手を握り直して。

「、はい!」

 こうして二人は本の世界に落ちていった。
 そして――