司書と秋声と多喜二

 初めに目に入ったのは赤茶の瞳だった。意志の強さが窺える鋭い目。高い鼻梁にかかる黒髪は緩く波をうっている。けれどその端正な顔立ちには目深にかぶったフードによる影が落ちていた。そのせいでどこかとっつきにくそうな感じを受ける。
 「俺を喚んだってことはアンタは俺を必要としてるんだな」ひとつひとつ、噛み締めるように。「好きに動いていいなら協力するよ」名前に掴まれたままの右手を握り返して、男は言った。
 けれども名前は何も返せなかった。右手を目の前の青年に、左手を隣の秋声に預けたまま。ぼうっと男を見上げていた。

「……どうかしたのか?」

「名前?」

 訝しんだ青年に声をかけられ、秋声に顔を覗き込まれ、そこでやっと名前は目を瞬かせた。意識が体に帰る。目が現状を捉える。頭が理解する。
 ――かぁっと、頬に熱が集まった。

「わっ、え、あっっ」

 真っ先に口から飛び出したのは奇声。口にして、自分で驚いて、慌てて手で覆った。そうしたって出たものは戻らないというのに。
 案の定、秋声は溜息を吐いた。呆れている時にする溜息だった。「しっかりしてよ」自由になった手で名前の背を叩く。喝でも入れるかのように。
 実際、それは効果あった。頬を自分で張ったのと同じくらいに効果があった。しっかりしなきゃ。名前は失態を流す、あるいはごまかすための咳ばらいをひとつした。

「……お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません」

 初対面、そう、初対面なのだ。人間、最初の印象が大事。だからなんとしても先ほどの失態は忘れてもらわなくては。そう思って、恭しく頭を下げたというのに。

「そんなかしこまらなくていい」

 一蹴。おまけに秋声にまで「無理したってどうせ続かないって」と言われる始末。二人は名前をなんだと思っているのか。確かに精神は未熟だし、学校を卒業したのも先月のことではあるけども!社会人として最低限のことすらままならないとは。

「すみません……このような不甲斐ない司書で…………」

「あぁ、いや、そうじゃなくて」

 青年は言葉を選び選び言う。「アンタが悪いとか、そういう意味じゃないんだ」疑問符を浮かべる名前を見下ろし、彼はわずかに表情を緩めた。

「アンタは自然体の方がいい……出会ったばかりの俺が言うのもなんだけど、そう思う。だから無理して背伸びする必要はない」

 ――秋声といい、この人といい。優しすぎる。
 けれど。

「でもですね、わたくしからすれば雲の上のお方を前にしているわけでして、緊張するなという方が無理な話といいますか……!」

 いくらこの御仁がよいと言っても名前の方が駄目だ。心構えというものがまるでできていない。心、というより名前そのものが。未熟、なのだ。彼らと対等に並べるほどの経験も自信も何もまるでない。伽藍洞――その言葉が一番ぴたりとくる。
 「僕には慣れたじゃないか」――秋声さんは別でしょう!名前は異を唱えた。そもそも秋声とだってしばらくの間はうまく話せなかったのを忘れないでいただきたい。それを――どうしたのだったか。大きな切欠があったわけではない。ただ彼が根気強く名前に付き合ってくれただけで。

「あの、」

「いや、大丈夫だ……その感覚は分かる。俺も直哉サンと会った時はうまく話せなかったからな」

 青年は鷹揚に頷いた。言葉を押しとどめられた名前だったが、しかしその顔がぱっと明るくなる。

「そう、そうなんです……!そもそもあなたさまは初等教育の教本にも載ってるくらいなんですから、そりゃあもう……」

「教本?……俺が?」

「ええ、はい、もちろんです!お見せしたいところなんですが生憎今は実家に置いてあって……あぁでもここは図書館ですし探せばあるはずです!」

 「今度お見せしますわ!」蔵書検索は容易であるから、この約束はすぐに果たせるだろう。ついでにこれが青年との会話のとっかかりになればいい。悪い印象だけは持たれたくない――そこまで考えて、名前は自分が嫌になった。わたくしはなんと狡い人間なのでしょう、と。貴き御方にまで好意を強請ろうなど傲慢いいところではないか。
 ……などと自己嫌悪しているというのに、青年はふっと笑った。嗤うのではなく、確かに。穏やかな笑みを微かに乗せた。

「どうか、なさいまして?」

「いや、なんでもない」

 ゆるり、と首を振られる。彼は答えをくれなかった。名前も追わなかった。無駄だと直感したからだ。その代わり、彼は名前が今一番必要としているものを差し出す。
 それは、右手だった。名前が伸ばし、一度は掴んだ手だ。

「改めて紹介するよ。俺は小林多喜二、アンタと願いを同じくする者だ」

 それを再び彼の意思で向けてくれるということは、すなわち。
 ――許された、と思っていいのだろうか。

「わたくしは名前、名前です。こちらこそよろしくお願いいたします」

 二度目に触れた手に、どうしようもなく泣きたくなった。



 潜書室を出ると長い廊下が広がっている。等間隔で並ぶドアの先に何があるのか秋声はまだ知らない。立ち入りを禁ずる、と札が下げられているところもあるから、錬金術師の研究室であったり資料室であったりするのだろうか。
 秋声に新たな生を与えた時代は、当然ながら彼にとって目新しいもので溢れていた。廊下を滑る球形の物体についてもそうだ。名前が言うには『お掃除用ロボット』なるものらしいが、秋声には未知の生物に見える。いや、未知の道具か。これで有魂書室の掃除もしたらいいんじゃないの、という提案は、残念ながら却下された。あの部屋にはどんな薬品があるのか分かったものじゃないから――というのが名前の主張だ。大事故になるかもと言われれば、秋声には反論の余地はない。
 そんな名前はといえば、秋声の前を小林多喜二と並んで歩いていた。あっちが医務室、こっちが食堂……といった具合に図書館内を案内している。「あっ」その足がロビーに来たところで止まった。しまった、と言いたげな顔が振り向く。

「どうしたの」

「多喜二さんにお渡しする資料を忘れてきてしまって……」

 狼狽。名前の目が秋声と多喜二を行ったり来たりする。
 「取りに行ってきなよ」「ああ」二人が促して、ようやく名前は走り出した。平身低頭の勢いで謝罪してから。そこまでしなくていいのに、と秋声は呆れる。
 名前の足音も去ると、ロビーには静寂が広がった。そうすると書物のどこか懐かしい薫りが意識にのぼる。二階部分に嵌め込まれたステンドグラスから差し込む光をぼんやりと眺めていると、多喜二が口を開いた。

「変わった人だな。快活そうに見えてその実ひどく自己評価が低い」

「ああ、でも付き合えば分かるよ。それよりもっと面倒な性格をしてるって」

 切り揃えられた前髪。その下で零れんばかりに煌めく夜露の如き瞳。なめらかな頬に薄らと添えられた紅。細工物のように整った鼻梁。薔薇色の唇。それらすべてが卵形の輪郭の中に一部の狂いもなく収まっている。かすかに覗く首筋は手折れそうなほど白く細い。しかし痩せぎすというわけではなく、均整の取れた体つきをしている。そしてすらりと伸びた背と艶やかな黒髪からは華族令嬢の匂いがした。
 ――花袋の好きそうな娘だな。白魚と評されそうな指を眺めて秋声は思った。それが名前に対する最初の印象。面倒だと思ったのは仕事に対してだけで、利発そうな目の娘に対してはそんなこと思いもしなかった。
 それが、実際はどうだ。
 半年の間観察し、秋声は知った。名前名前という娘がどれほど面倒な性格をしているかということを。
 彼女の精神構造自体は極めて単純である。低い自己評価と悲観的な性格。死にたがりではないのに生への執着がひどく稀薄で、どこか投げやりにも見える生き方。にも関わらず手を抜くことを罪とする。他人からは良く見られたがるくせ、そんな自分への自己嫌悪に苛まれている。だからなのか、他人に合わせることを彼女はごく当たり前に行う。面倒なのはこの部分だ。名前の自己が曖昧であるという点。秋声に心を開いているように見えるのも、起点は名前にない。秋声がそれを望むだろうから――それだけが理由で彼女は動いている。もっとも、名前にすら自覚はないようだが。けれどいずれそれが真実に変わっていけばいいと秋声は思う。

「けど、アンタは信頼してるんだな」

 秋声の心の裡を読んだかのように、多喜二はぽつりと零した。
 秋声はどう答えるべきか逡巡した。信頼。どう、なのだろう。その観点で秋声は名前を見てこなかった。名前に人を裏切ることはできない。それは確かだ。偽るのは得意でも、騙すことには長けていない。
 説明するのは容易いことだ。ただ一言二言言えばいいだけ。でもそれでは意味がないだろう、と多喜二の静かな目を見返した。

「彼女のことは自分で見極めるといい」

 信頼できるかできないか。それも付き合っていくうちに分かる。言外に込めたものに、多喜二は微笑した。

「そうするよ」