眠れる奴隷


 朝の冷たい空気を感じ、名前は目を開ける。
 頬に感じるシーツの爽やかさ、心地よさ。窓から差し込む黎明は、室内に穏やかな静寂を齎していた。
 その最中。遠慮がちに身を起こし、名前は窓を開けた。
 吹き込むのは微睡みに似た暖かな風。聴こえるのはかそけき葉ずれや空へと舞い上がる雲雀の羽ばたき、浮かれ調子の囀り。青ざめた地平には夜明けの光が仄かに滲んでいた。
 名前は目を細めてその景色を眺めた。緑と煉瓦色の街並みを。そのすべてを分け隔てなく照らす恵みの光を。
 名前にはそれが希望の光明であるように思えてならなかった。遥か昔に過ぎ去った幸福が、今また己の元に帰ってきたのだ、と。その予感に名前は口許を綻ばせた。

「ん、んん……」

 むずがるような声に、名前は視線を落とす。
 シーツに散らばる艶やかな黒髪。緩やかに開かれる瞳は未だ夢の残滓に揺れる。紫のそれはさながらヒヤシンス、清らかな蜜を湛えた花の香り。芳しく、名前は笑みを深めてその頬を撫でた。

「まだ早いわ、ナランチャ……もう少し寝てていいのよ」

「ううん、起きるよ……」

 のそりと身を起こし、けれどその体は頼りないもの。すぐに頽れ、名前の肩へ。寄りかかり、唸る姿は余りに無邪気。さながら白鳥の純粋無垢。そして後光の中に浮かぶのはそんな彼の微睡み混じる笑み。

「ブォンジョルノ、名前」

 頬に触れる唇の熱さ、柔らかさ。雲ひとつない瞳に、愛情溢れる笑顔。それは誇りかに咲き揃う庭の花よりも尊いもの。彼の眼差しこそが朝焼けで、その手こそが道しるべ、──希望の住み処であったのだ。

「わっ、どうしたんだよ名前……」

 堪らず抱き締める。と、ナランチャは戸惑った声を洩らした。
 「ううん……」けれど名前が答えず、むしろ腕の力を強めると、ナランチャもその手を伸ばして応えてくれた。
 その柔らかな感触、和やかな温もり、重なり合う心音に──名前は泣きたくなるほどの幸福感を覚えた。

「ねぇ、ナランチャ」

「なに、名前」

「……私、とっても幸せだわ」

 ゆっくりと囁く。その幸福感を噛み締めるように、取り零さぬように。囁くと、ナランチャも笑った。

「……オレも」



 昼時になるといつものリストランテに集まる。それは誰が決めたわけではないが、いつからかチームの習慣となっていた。
 この日もそうで、一番に到着したのはミスタとフーゴだった。

「どうよ、最近……ナランチャのヤツは」

 名前は二人の前にグラスを置いた。サンニオ製のサンジョヴェーゼ、それを使った赤ワイン──ヴィーノ・ロッソだ。それから前菜、カプレーゼとアフェッタート・ミストをそれぞれに。配り終えたところでミスタは名前を見やった。

「どうって何が?」

「ガッコーだよ、学校。アイツよゆーだって言ってたけどよォ〜……マジに勉強やってんのか?」

「ああ……」

 疑わしげに言うミスタに、名前が思い出すのは朝の出来事。「いってきます」と駆け出していった時のけざやかな笑顔。その朗らかさ、すっと通った背中の力強さだった。
 コロッセオでの戦い、その最中で宣言したことをナランチャは真剣に実行していた。──そう、学校へ通うようになったのだ。それは名前も懇意にしている教会が経営するもので、義務教育をなんらかの理由で受けることの叶わなかった者たちが集められていた。

「すっごく張り切ってるわよ。ただ先生によっては話が長くて眠くなるって」

「あのバカ……せっかく通わせてもらってるんだから、ぶん殴ってでも話を聞かせるべきですよ」

 そう呆れるフーゴに、ミスタは「言えてる」と手を叩いて笑った。それからすぐに悪戯っぽくフーゴを覗き込み、にやりと口角を持ち上げる。ひどく意味ありげに。

「でもよォ〜フーゴとしちゃあさみしーんじゃねぇの?」

 揶揄いに、しかしフーゴは動じない。「まさか」と鼻で笑い、けれどすぐに名前を見て──「いや、別に教えるのが嫌ってわけじゃあないんですよ」と慌てた風に言い募る。

「かなり手がかかるのは確かですが……まぁ、その……それなりにいい経験にはなったというか、教師の難しさを学んだと言いますか……」

「……それじゃあまた見てあげてよ、ね?」

 名前は微笑んで、続ける。

「ちょうどわからないところがあるって言ってたのよ。フーゴならナランチャのこともよくわかってるでしょう?聞いてあげてほしいの」

「まぁ……、いいですけど」

 フーゴは目を逸らしながら顎を引いた。気まずげに、恥じらいを含ませて。

「よかった。じゃあ今晩ね。お夕飯も一緒にどう?」

「……わかりました」

 けれど是と言ったのは事実。証人も二人いる。名前はその一人と目配せし合い、密かに笑った。
 しかしミスタの方は隠しもしない。にやにやと口許を緩めながら、「オレに感謝しろよ」とフーゴの肩を叩いた。……別に、喜ばしいのは名前だってたぶんナランチャだって同じなのに。なのにフーゴにだけ言うのが引っ掛かって、けれどその疑問はフーゴが「うるさいッ!」とテーブルを叩いたことで吹き飛んだ。

「……っと、……すみません」

「ううん、いいのよ。揶揄ったミスタが悪いんだもの」

「オレのせいかよ」

 不満だと口を曲げ、……だがすぐにミスタは忘れて、ピストルズにサラミを分け与えるのに夢中になった。

「そういやミスタ……、きみ報告書まだ出してないだろ。ジョルノが急かしてたぞ、例の花屋の娘の話……どんなスタンドだったか詳しく知りたいってな」

「あ?……ああ、そんなのもあったな」

 「ぼくはちゃんと伝えたからな」とフーゴは念を押すが、ミスタの返事は曖昧なもの。帰る頃にはまた忘れてるんじゃないかと名前は思った。思いながら、記憶を辿った。石を抱いたまま身を投げた花屋の娘の話。彼女と恋人関係にあったという彫刻家のスタンドを。

「色々あってすっかり忘れてたが……あの彫刻野郎が言ってたのはマジだったのか、それともオレが運命を変えたのか……結局分からずじまいになっちまったな」

「『彫刻野郎が言ってた』?なんの話だ、ミスタ」

「だから散々説明したろォ〜?あいつがブチャラティの運命がどうこうって言うからよぉ……オレが石を砕いてやったんじゃねぇか」

「そんな話だったか?きみの説明は要領を得ないにもほどがある。ぼくには理解できないな。やっぱりアバッキオに任せよう」

「だから……つまりだなァ……あれはブチャラティの死を予言?していて……」

 二人の口論を聞きながら、名前も思い出す。マンションから降ってきたミスタ、彼が抱いていた石、『石を破壊できたから全てはもう終わった』そう彼が言ったこと、……その後でスタンド能力を使ったことを。
 ミスタは『石を破壊できたから』と言った。しかし名前には……彼の足許にある石の残骸が動いたように見えた。最初は目の錯覚かと思った。或いは風に吹かれたせいかと。
 正解は未だにわからない。けれど名前はスタンドを使った。その石の残骸に向けて、念入りに。破壊された姿を保てるよう、時の流れに逆らわせた。
 それがどんな効果を齎したのか……それともなんの意味もなさなかったのか。

「ともかくその石をブチャラティに触れさせなかったから、それでよかったんだよ」

「……そうね、きっとそうだわ」

 今となっては誰にもわからぬこと。いや、その彫刻家に聞けばいいのかもしれない。だが名前はそうしようと思わなかった。

「だからもし次また同じ石が現れたなら、今度は私が飛び降りるからミスタは手を出しちゃダメよ。私の方が確実だもの」

 名前はミスタの言葉に頷き、言葉を続けた。
 ミスタはあの石が『ブチャラティの運命だ』と言った。ブチャラティの死の運命が示されている、と。そしてそれを砕いたから、『今』があるのだと。
 ──けれど実際はどうなのだろう?本当に死の運命は変わったのだろうか。
 ……わからない。未来のことなど、決して、誰にも。
 だからもしかしたらその運命はまだ目の前に横たわっているのかもしれない。数週間後か数ヵ月後か……『石』が示した通りの死がブチャラティに齎されるのかもしれない。
 だとしても構わない、と名前は思う。構わない、もし例えそうなったとしても……今度は自分が助ければいい。かつて彼らが救ってくれたように、今度は私が彼らを救う番だ、と。
 そう思えるようになったから、名前は笑った。以前よりもずっと視界が開けたようだった。切ったのはほんの少しの髪だけなのに、なんだかひどく身軽になった気分だった。

「バッ、バカ言うな!即死したらどうするつもりですか!?」

「そうだぜ、名前。オレみたいな『もってる』男がやるから成功するわけであってだなぁ〜……」

 焦ったように身を乗り出すフーゴと説得にかかるミスタ。二人を宥めているうち、ジョルノやブチャラティ、アバッキオも集まってくる。皆この街や組織にとって欠かすことのできない人たち。そして名前にとっても大切な──かけがえのない人たちだ。
 季節は春を過ぎ、まもなく夏がやって来る。眩しい夏、石畳の町は厳しい日差しを浴び、高く澄み渡る空の蒼に抱かれるようになる。海辺には観光客が増え、賑わいに充たされることだろう。人々の顔にも笑顔が咲き、そうしたことに名前もまた喜びを感じるようになっていた。……この街の人々を、『皆』と同じに愛するように。

 ──それがよいことであるのか。はたまた悪いことであるのか。

 かつての名前にはわからなかった。平穏を愛しながら、それでいいのかと自問自答していた。

 ──でも、今は違う。

 名前はこの街を愛していた。大切な人たちの生きる街を愛していると胸を張って言えるようになった。
 彼らと同じ時間を生きる今、やがては己も天国行きの馬車に乗ることだろう。名前はその時傍らにある『永遠の生』のことを思った。『永遠の生』と、聖なる焔に照らされた彼らのことを。思えば──あぁ、何も恐れることなどなかったのだ。