アバッキオ√【両片想い】


大団円後。両片想い(主人公無自覚)






 入り組んだ小道。春の涼風が吹き抜ける中、飛び交うのは賑やかな掛け声。それはカプアーナ門、ところ狭しと並ぶ屋台から響いていた。
 山と積み上げられるのは色とりどりの野菜、果物。取れ立ての魚はまだ瑞々しく、中にはその場で捌く者、食べる者もいる。ナポリのメルカート。朝の市場は活気に満ちていた。

「わぁ、サメですって。どんなものかしら?私食べたことないわ」

 その中を歩く名前。仄白い日差しが鮮やかに金糸を浮かび上がらせる。髪を、膚を、瞳を。陽気に、そして無邪気に。輝かすその姿はさながらリラの花。浮わついたその足、裳裾から覗く脛すら光って見え、アバッキオは目を細める。

「おい、……はぐれるなよ」

 この街ではすっかり見慣れた風景。活気があるといっても姿を見失うほどではない。
 とはいえ彼女の性質は熟知している。ふらふらとさ迷う視線、意識が散漫な今、いったい何があるか。アバッキオはそういったことを危惧し、名前の手を引いた。
 そこには特別な理由などなかった。出会った時から変わらない──そんな感覚のままに彼女の手首を掴んだ。
 そうしてから、……その細さに改めて驚かされた。細さに、頼りなさに。力の加減がわからなくなり、たたらを踏んだ。初めて触れたわけでもないのに、酷く熱いものを掴んでしまった。そんな風に思われた。

「大丈夫よ、はぐれたって……ほら、あなたのことならすぐ見つけられるもの」

 その動揺は肌の下、覆い隠すのは慣れたもの。故に名前は何も気づかず、何も思わず。いつも通りの間の抜けた笑い声を立てた。
 「見失いっこないわ」怯んだアバッキオの代わり。そうとは気づいていないはずの名前だったが、今度は彼女の方からアバッキオの手を掴んだ。なんの躊躇もなく、抵抗もなく。
 それに微かな落胆を覚えないわけでもなかった。が、悟られるわけにはいかない。アバッキオは「そうかよ」と鼻を鳴らし、そっと名前の手をほどいた。

「ならこの手は必要ないな」

 言うと、何故だか名前は不満顔。

「そうだけど……そうじゃないわ」

 何が言いたいのかさっぱりだ。
 だがよくわかっていないのは名前自身も同じらしく、首を捻ること数度。
 「なんだか勿体ないことしちゃった気分」眉間に皺を寄せる様は深刻そのもの。なのに実際はくだらない……些末なことだ。そんなことにさえ真剣に頭を悩ますのがおかしくて、アバッキオは口角を上げる。

「ともかく買い物するんなら早く済ませるんだな。あちこち冷やかしてくってんならオレは先に帰らせてもらうぜ」

「まぁ!つれないこと言うのね……。それじゃああなたを連れてきた意味ないじゃないの」

 別に本心からじゃない。ただ打てば響くように返ってくる言葉が心地いいだけ。名前が心底から拗ねた風に口を尖らせるのが面白い、それだけの話だ。
 じゃなきゃ最初から買い物に付き合うはずもない。「そろそろ買い置きが……」「そういえばアバッキオはお休みよね……」そう誘われようと、嫌なら断ればいいのだ。けれどアバッキオはそうしなかった。それが揺るぎない事実で、真相でもあった。
 ……が、しかし名前が気づくわけもなく。

「ならやっぱり手は繋いでおかないと!帰るまで逃がしたりなんかしませんからね」

 ほどかれた手を再度捕らえ、名前は得意気に顎を持ち上げる。ふふん、と笑う顔は小憎たらしいもの。微かな腹立たしさを覚える。……なんの意識もしていないことにも、また。

「いたっ!またぶった!私の鼻がへこんだらあなたのせいよ!」

「知るかよ、元から低かったんだろ」

「言ったわね!ちょっと自分の鼻が高いからって……もうっ!そしたらあなたのも削り取ってやるんだから!!」

 煩いと顔を顰めると、応えるように膨らむ頬。円やかな輪郭には日差しが透けていた。触れたらどんなに柔らかいだろうと思った。

「はいはい」

 ……思うだけで、行動に移すほどの気概はないのだが。

「もういいわ!今日はとことん付き合ってもらいます!決定!拒否権は認めません!」

 厳めしい顔つきを道の先に向け、名前はアバッキオの手を引いた。その後を溜め息混じりに着いていく。やれやれと、殊更面倒くさそうに。楽しんでなんかいませんって風を装って、なのにともすると緩む口許を、アバッキオは然り気無く覆い隠した。

「まずは……そうね、チーズがほしいわ。あとはオリーブとロマネスコ、……あ、イワシが出てるわ、フリットなんかどうかしら」

「……チーズからだな、こっちだ」

 目移りする名前に、結局手を引くのはアバッキオの役割となる。
 溜め息混じりに目に止まった屋台のひとつへと足を向ける。

「いらっしゃい」

 店先には多数のチーズが並んでいた。プロヴォローネ、スカモルツァ、モッツァレッラ……その向こうで店主は眩しいほどの笑顔。人好きのする表情を浮かべてアバッキオたちを迎えた。

「何にする?リコッタ?パルミジャーノ?それとも試食してくかい?」

「うーん……、それじゃあ少し、お願いします」

「はいよ」

 まずは、と言ったくせ、これという目的はなかったらしい。決めかね、迷った挙げ句に名前は店主からチーズの切れ端を貰った。
 まずはパルミジャーノ、長期間熟成されたそれは期間が長いほどに味も深まる。パスタのソースに使うのがいいな、と頬張る名前を横目にアバッキオも考える。
 アバッキオだって独り暮らしだ、食事は自分で用意している。それを苦だと思ったことはない。ないがしかし、……ナランチャが少しばかり羨ましくもあるのも事実。こうして熟考してくれる人が家にいるのはどんは気分だろうかとぼんやりと思った。

「うん、モルト・ブォーノ!」

「そうか、そりゃあよかった」

 素直な賞賛に店主の表情もにこやか。今度はゴルゴンゾーラを与えられた名前も緩みきった顔。ゆっくりと味わいながら並ぶチーズたちを真剣な目で見つめた。
 その傍ら。

「いやあ、可愛らしい彼女だね」

 話し好きなのか、暇なのか。或いはその両方か。笑みを絶やすことなく店主はアバッキオへと水を向けた。
 それはいい。構わないが、だがしかし、話題がよくなかった。

「……は?」

 何を言われたのか。一瞬呑み込めず、店主を凝視する。そうすると店主の方も違和感を覚え、「違うのかい?」とアバッキオを見、それから名前に目をやった。
 名前は相変わらず考え込んでいた。……幸いなことに。その横顔から視線を戻し、アバッキオは小さく顎を引いた。

「……ああ、」

 残念ながら、とは続けなかった。それでよかったのだと思う。過度な期待は禁物だ。これまで通り、……それでいいじゃないか。
 アバッキオが否定すると、「それは悪かったね」と店主はすまなそうに頭を掻いた。アバッキオは気にするなと首を振ったが、しかし沈黙には気まずいものがあった。

「決めた!パルミジャーノがいいわ、昼食はパスタにしましょ。それからプロヴォローネも」

 それを打ち破るのは名前の笑顔。アバッキオはほっとし、店主も笑みを取り戻す。

「はいよ」

 必要な分だけ切り分けたのを受け取り、名前は「ありがとう」と答える。
 それで終わり、後はさよならだけでいいのに、話し好きの店主は最後に一言。

「お兄さんと仲良くな」

 ……懲りないというかなんというか。
 手を振る店主に、名前は瞬きひとつ。先刻のアバッキオのように店主を見つめ、けれどアバッキオと違うのは彼女が流されやすいという点。

「え、ええ、そうね、ありがとう」

 疑問符を浮かべながらとりあえず頷き、屋台に背を向ける。
 そうして幾らか歩いたあと。

「え?あの人いまお兄さんって言った?」

「……あぁ、言ったな」

 はたと立ち止まり、名前はアバッキオを仰ぎ見る。その目に横たわるのは困惑、混乱。わけがわからないって顔の名前に、アバッキオは内心「だろうな」と思う。
 どこをどう見たら兄妹になるのか、……いや、家族でもないのに市場に来たのが間違いだったのか。それはそれで随分と古くさい考えだ。

「アバッキオがお兄さん……」

 壊れたテープのように呟く名前。その顔はなんだか酷く気難しげ。眉間には深い皺が刻まれ、唇は弓なり。淡い色の瞳には影が落ち、水面にはさざ波が立っていた。

「なんだ、不満そうだな」

 言いながら、アバッキオは心中で笑う。
 ──期待するなと言ったそばからこれだ。名前が何らかの合図を出してくれるんじゃないかと思ってしまう。彼女がもしも、もしも不満の理由を露にしたなら……

「不満?そんな顔してた?」

「あぁ、ひどい顰めっ面だったぞ」

「そう?……そうね、そうかもしれない」

 名前は視線を上げた。伏し目がちだったそれを持ち上げ、アバッキオをひたと見据えた。

「なんだかすごくもやもやするの。どうしてかしら、って思ったけど、……そうね、不満って言うのが正しいのかも」

 彼女の目は瑞々しく、唇は紅かった。それは咲き染めの薔薇だった。さながら……そう、クピドが花開かせたように。燃えるほどの輝きがそこにはあるように思えた。目を離すことができなかった。
 そんなアバッキオに名前はにっこりと笑い、

「あなたがお兄ちゃんっていうのも悪くないけど。……でもそれだけ年下に見えるってことよね、なんかそれって悔しいわ」

 「つまりはそういうことよね」……そう言う名前はすっきりしたと晴れやかな顔。「そりゃあ不満よね、ええ、やっぱりもっと大人っぽい格好を目指すべきかしら」などと言い連ね、無邪気に思案する。

「でもあなたに釣り合うくらいって難しいわ。ねぇ、アバッキオ、……アバッキオ?」

 「どうしたの?」と顔を覗き込もうとするのを制し、アバッキオは首を振る。「なんでもない」、と。
 事実なんでもないのだ。少しばかり……春の陽気に当てられただけ。名前が気にすることじゃない。悪いのは彼女ではなく──
 ──でも、あぁ、

「わっ!今度は額まで……もう小突くの禁止!」

「あんま騒ぐとまたガキに思われるぞ」

「ガッ……それはないわ!そこまで幼く見られたことないもの!!あなたがヘンに大人なのがいけないのよ!」

 これくらいは許されるだろうと呑気な名前を揶揄い、その手を引く。

 ──だからアバッキオは気づかなかった。

「…………っ」

 不意に掴まれた手。その温もり、感触に、名前が微かな動揺を見せていたことなんて。その頬に朱を散らしていたことなんて。……そんな自分に戸惑いを感じていたことなんて。
 知らないのはアバッキオだって同じだったのだ。