アバッキオ√【海の話】


原作後。付き合ってる設定。




 試着ならもう既に鏡の前で済ませてある。おまけに言うなら買う時にだけじゃない。買った後、自宅でも。姿見の前でそれはもう念入りに確認したものだ。
 一人で、しかも部屋の中で水着姿になるなんて端から見れば滑稽で仕方なかろう。が、部屋にいたのは名前ひとり。だから何に憚ることもなくたっぷり時間をかけて準備をしてきた。

 ──それもすべてはこの日のため。

「どう?どう?」

 空の蒼はどこまでも澄み渡り、地平に浮かぶ千切れ雲さえ襞飾りのよう。海は果てのない広野で、照る光さえ厭わしさを感じさせない。打ちつける波は歩くほどの速さで、カモメの白い影がすぐ近くを緩やかに舞っていた。
 つまりは何もかもが絶好調。海辺は平穏に満ちていた。だから不安はもうたったひとつだけ。
 名前は下ろし立ての水着を身に纏い、アバッキオの前に立った。ホルターネックを選んだのは少しでもセクシーさを、黒を選んだのは大人っぽさを求めた故。つまりは何もかもが彼の隣に立つためで、だから彼の反応が一番気にかかかることであったのだけれど。

「あ?あぁ……」

「……なぁにその気のない返事」

 アバッキオがくれたのは一瞥だけ。ちらりと見て、ただそれだけ。視線はすぐに流され、どことも知れぬところへと。名前も追いかけたけれど何も面白いものは見当たらなかった。
 ……これでもし、他の女の人に目を奪われていたのだったら拳骨でもくれてやるところだったのだが。
 薄い反応にがっかりし、名前は肩を落とす。しかしすぐに気を取り直し、胸に手を当て、ずいっと距離を縮める。

「ほらほら、遠慮なく褒めてくれていいのよ?」

「なんで褒められる前提なんだよ……」

「そりゃあせっかく新調したんだもの……。ねぇアバッキオ、ちゃんと見た?ていうか見て!よく見て!!」

「押すな押すな」

 身を乗り出し、詰め寄る。
 鼻先が触れるほどの距離。アバッキオの腰が引きぎみなのにも気づかず迫ると、「近い」と額を叩かれた。

「むー……」

 大した威力じゃない。彼にとったらじゃれるようなものだろう。でも名前は大袈裟に額を押さえ、つれない彼を睨めつけた。彼が視線の圧に負け、目を逸らしても、ずっと。
 見つめ続けると、降りるのは自然静寂。辺りは観光客で賑わっているが、二人の周りだけ切り離されたよう。
 それでも視線で乞い続けると、さしもの彼も諦めたのか。
 アバッキオは深い深い溜め息を吐き、それからようやっと。

「まぁ、悪かねぇよ」

 ……………………

「それだけ?それっぽっち?」

 続く言葉を待ってみても後は沈黙。痺れを切らし、名前は自分から続きをねだる。
 が、しかしそう簡単に陥落しないのがアバッキオという男である。

「あーはいはい、かわいいかわいい」

「心が籠ってないッ!!」

 おざなりに、宥めるように。軽く肩を叩かれ、名前は地団駄を踏む。勿論それは心の内でだけ。現実じゃそんなことできっこない。何よりこれ以上の子供扱いは勘弁だった。
 だから現実の名前は頬を膨らませ、口を尖らせるだけ。最後の抵抗とばかりに不満を顔いっぱいに表現するが、それさえもアバッキオには軽く受け流されてしまう。

「ったく、羞恥心はないのかよ」

「羞恥心より褒められたい欲求の方が上回りました」

「飢えすぎだろ」

「餌をやらないアバッキオが悪いと思います!」

 腰に手をやり、意味もなく胸を張ってみせる。そして眼差しには非難を。訴えかけるも、アバッキオは「やれやれ」と首を振るだけ。……まったく、つれない人だこと!
 でもそんな人だってのは最初からわかってた。わかってたけれど好きになった。好きになってしまったのだから……もう仕様がない。

「まぁこれで良しとしましょう。及第点です」

「いや、何様だよ」

「まぁまぁ……さぁ行くわよ泳ぐわよ」

 突っ込みを無視して名前はアバッキオの腕を引く。
 何にも覆い隠されていない膚。それは名前も羨むくらいに白く、無駄なところなどひとつもなかった。その筋ばった手だとか自分よりも低い体温だとか、そうしたものにドキドキするのは……この日差しのせい。
 気にすることはないと内心で頭を振り、波打ち際まで。爪先を撫でていく水の冷たさに名前が歓喜の声を上げた時。

「……なぁにこれ」

 ばさり。衣擦れの音と共に名前の上半身を被った衣服。それは見覚えのあるもので、記憶が確かならつい先程までアバッキオが着ていたもので……。
 ぶかぶかのジャケットを肩からぶら下げたまま、名前は両手を広げた。

「これじゃ泳げないわ」

「そうだな」

「……一人寂しく日光浴でもしてろって言いたいの?」

「一人にするとは言ってないだろ」

「うーん……?」

 ……なんだか会話が噛み合っていないような、そうでもないような。
 困惑し、首を傾げた名前だが。

「……わかったわ!」

 はたと思い当たり、手を叩く。

「あれでしょう?『オレ以外にそんな姿は見せられねぇ……』ってやつでしょう!?」

「そりゃあオレの真似か?全然似てねぇ」

「……ともかく!そういうことならいいわ!泳げなくても我慢する!!」

 その顔に浮かぶのは満面の笑み。可愛いとこあるじゃないと思う名前は内心したり顔。それは眼差しや声にも抑えきれず溢れるほど。
 であったからアバッキオにも当然伝わり、──「……まさか、」鼻で笑われる。

「違うの!?」

「違う。……まったく、お前は呑気なもんだよな」

 愕然と。大仰なほどに驚き、落胆する名前に、アバッキオは呆れた様子。これ見よがしに溜め息を吐き、額を叩く。──またしても、だ!
 それから彼は「いいか」と名前の眼前で人差し指を立てた。まるで小さな子供にでも言い聞かせるみたいに。背景の青空には不釣り合いな真剣さでもって、彼はゆっくりと口を開く。

「もっと緊張感を持て。間の抜けたツラでふらふらするな」

「……遊びに来たのに?」

「お前は普段から隙がありすぎるからな。こんな観光地、おかしな輩も多い。気を引き締めて損はない」

 海辺には沢山の人がいた。レモンの里、ソレント。アマルフィ海岸への出発点でもある海岸には内外問わず多数の観光客が集まっている。だから物珍しげな視線が飛び交うのも当たり前で、その中に邪な感情が混じっていても中々そうとは勘づきにくいように思われた。
 それをアバッキオは懇切丁寧に説明してくれるが、いまいち名前には実感が沸かない。それはここが有料のビーチだから、という理由だけでなく。

「でもあなたが側にいてくれるんじゃないの?」

 名前はアバッキオを見上げた。自分の身を案じる目を、同じだけの真剣さでもって見つめ、そして。

「ならなんの心配もないわ。……でしょう?」

 笑いかけると、僅かにたじろぐ気配。その隙を逃さず追い打ちをかけるように名前は一歩。踏み出し、彼の手を取る。自分よりも一回り以上大きな、頼りがいのあるその手を。

「それにせっかく着たんだもの。もっと見てほしいわ、……あなたに」

 握り締め、ひたと見据える。
 その間数秒。その果てに、アバッキオは長い長い溜め息をひとつ。

「わかったよ、……けどな、」

「あなたの側を離れない、約束するわ」

 頷くと、ようよう彼も降参の意を示す。尤も、不承不承といった体であったけれど。

 ……心配性にもほどがあるわ。

 そう思いながら上着を返した名前は、自身に向けられた不躾な視線に気づく。そして彼がそれにすかさず応え、睨みを効かせるのを。一連の流れを認め、「あら?」と既視感に首を捻る。
 それは先刻見たばかりの光景。水着を披露したばかりの時に彼がふと視線を流したのを思い出し──その姿が現在の彼と重なった。

「ふふふ」

 別にそんなの慣れっこだ。子供の時から幼馴染みのお陰で良くも悪くも視線を集めることが多かった。そこに色を含んだものが追加されたからといって、今さら特別気にすることもない。
 ──でも、気遣いが嬉しかった。そういった目から遠ざけようと、気づかないままでいられるようにと、取り計らってくれるのは。
 深い愛情を感じて、名前は笑みを溢した。

「……いま、すっごくドキドキしてるわ」

「は?」

「ときめいたわ、惚れ直したわ。……あなた、世界一かっこいいわ」

 喜びだとか愛しさだとか、そんなものが溢れて仕様がなかった。高鳴りは声音に、表情に。それだけに留まらず、抑えようもなく。名前はアバッキオの腕に自身の両手を絡め、ぎゅっと身を寄せた。そうでもしてないと落ち着かなかった。

「好きよ、一番、……あなたがすき」

 そんな飾り気のない言葉を吐いていないと、胸が詰まって死んでしまうんじゃないかと思った。

「……知ってる」

 対して彼は冷静そのもの。
 でも名前は知ってる。彼が素直じゃないってことくらい。本当はおんなじ気持ちなんだってことは、先刻よりも熱を帯びた指先から伝わっていた。あとは……そう、ほんのちょっぴりだけ緩んだ口許だとかからも。