『エラリイ』と心配性の彼女


主人公のミス研ネームを『ドロシー』と設定してあります。
またこちらはコミカライズ版の設定を取り入れています。





「……角島ですって?」

 『ドロシー』は信じられないものを見るような目で『エラリイ』を凝視した。ミステリ研究会に属し、自分と同じく欧米作家の名を襲名している青年を。
 エラリイは線の細い色白の好青年だった。長い睫毛の落とす影は神秘的で、「ああ」と頷くのさえ様になる。

「どうやらヴァンの伯父さんが角島にある例の館を買い取ったらしくてね……。ルルウのやつがいたく乗り気なんだ」

 まるで自分は関与していないといった口ぶり。飄々と肩を竦めるが、ドロシーは彼の性質をよく知っていた。伊達に二年も付き合っちゃいない。知り合ったのはそれより前だから……そう、大学入学以来の仲だ。
 それにドロシーだけじゃない、親友のアガサだってこのくらいのことは見抜ける。ルルウ──今年度からは編集長になった文学部二回生だ──並みか、或いはそれ以上に高い関心をエラリイが抱いているってことくらいは。

「……それで?いつ角島に行くっていうの?」

 ドロシーはエラリイの前に食後のコーヒーを置いた。そうしてから彼の前の椅子を引き、腰を下ろす。

「三月二十一日に。そのくらいならみんな空いてるだろうって」

「そう……」

 ドロシーは僅かに眉をひそめ、目を伏せた。
 角島。十角館。──青屋敷。それはほんの半年ほど前、とある惨劇の舞台となった場所である。館の主人とその妻、そして使用人夫妻が惨殺され、ひとりの庭師が現在も行方不明のままという。

 ──そんな屋敷に、どうしてわざわざ。

 そんなことは愚問だった。聞くだけ無駄だ。だって彼らはそういうのを好む質である。
 無論ミステリ研究会の一員として、ドロシーだって興味がないわけではない。殺害された館の主人、中村青司は建築家であり、からくり趣味を持っていたという話だ。そんな彼の建てた十角館、好奇心を駆り立てるには十分すぎる代物だった。

 ──けれど、

「でもやっぱり、……ねぇ、やめにすることはできないの?」

「どうして?」

「だって……」

 エラリイは心底わからないという顔をしていた。憤慨だとか軽蔑だとか、そういうのではない。まったくのまっさらな疑問。彼にとって十角館に行くというのは確定事項なのだった。
 だからドロシーは口ごもった。私の方がおかしなことを言っているんじゃないかしら?そんな気分にさせられた。エラリイはいつだって自信に満ち溢れていた。そしてそれが嫌いではなかったのだ。
 結局ドロシーが言ったのは、「危ないんじゃない?」という曖昧な台詞だった。

「だってほら……、まるっきり燃えちゃったって話でしょう?それに無人島なんて……何かあったらどうするのよ」

「何かってなんだい?まさか死人が出るのを期待してるのかな?」

 エラリイはバカバカしいと鼻で笑った。でも内心ではちょっとした危険を求めてるって風だった。本当の殺人事件ではないにしろ、それに類すること──例えば、そう。件の殺人事件を解決する糸口を見つけるだとか──そういうのを期待しているようだった。

「そこまでは言ってないわよ。ただ……そうね、急病人が出たら?」

「それなら心配ない。うちには優秀な医学生がいるからね」

「……そうだった、ポウがいたんだわ」

 これじゃあ引き留める術はない。
 とはいえエラリイたちだってそんな無茶はしないだろう。彼はとても聡明であったし、ポウは気配りのできる男だ。アガサもあれで周りをよく見ているし、物静かなオルツィは常識人だ。大丈夫、問題はない……はずだ。

「…………」

 けれど胸騒ぎは収まらない。孤立した無人島。凄惨な事件の舞台である十角館。海に囲まれた角島。建築家、中村青司。中村──そうだ、あの子も同じ名字だった──だからこんなにも気にかかるのだろうか──?

「……やれやれ、困ったお姫さまだな」

 ふと溜め息を吐いたのはエラリイ。彼の手は所在なさげに置かれたドロシーのそれを包み、彼の薄い唇は笑みの形を作っていた。

「この僕、『エラリイ・クイーン』がいて、なのにまだ心配だって?」

 エラリイは自信たっぷりに言った。なんの問題もありはしない。そう物語る眼差しだった。

「大丈夫、ほんの一週間の話さ。寂しい思いをさせるのは悪いが……代わりに愉快な土産話を持ち帰ってくるよ」

 ドロシーもまたミステリ研究会の一員である。だがエラリイは最初からドロシーを角島へ行くメンバーに含めていなかった。
 それは単純な話で、つまりドロシーが船に乗れないというだけのことである。どうにも昔から酔いやすい質のドロシーは、船というものを極度に恐れる傾向にあった。つまるところトラウマというやつである。
 尤も、理由はそれだけではないのだが──

「……わかった、楽しみにしてる」

 ともかくいつも通りのエラリイにドロシーはホッと息をついた。心配性の気があるドロシーにとって、彼の傲慢ともいえるこの性格は心地のいいものであった。

「でも危険なことはやめてよね。ちょっと驚かす気だけだったとしても……ほら、カーも行くんでしょう?いくらポウがいるって言ったって流血沙汰は……」

「わかってる、節度を持った揶揄いに留めるよ」

「もう、そういう態度が余計逆撫でするのよ?」

 やれやれって風にドロシーは指摘する。短気なところのあるカーという男、その反応が面白いのか、エラリイが彼を言葉巧みに挑発することは常日頃からあった。お陰で二人は犬猿の仲。まぁそう感じているのはカーだけ、エラリイはいつものらりくらりと躱しているのだけれど。
 そしてそんな彼は、ドロシーより一枚も二枚も上手。にっこり微笑み、

「でもそんな僕が好きなんだろう?」

 この台詞。これを放たれちゃドロシーは二の句も継げない。呆気にとられ、暫しの沈黙。その後に深い深い息を吐き、手で顔を覆った。

「あなたって本当……」

「格好いいって?」

「……はいはい、そうね。あなたはとても魅力的よ」

 投げやりな返事をし、ドロシーはコーヒーを飲む。
 そんなドロシーを眺め、エラリイは微笑と共に一言。

「君も……名前もとても魅力的だよ」

 ──まったく、不意打ちとは卑怯ではなかろうか!