結城夏野と徹の幼馴染み2


 夏は嫌いだ。かといって冬が特別好きというわけでもないのだが。それでも夏の肌に張りつくじっとりとした空気に比べれば、雪掻きの方がよほどマシだと名前は思うのだ。
 そんな夏のある日。名前は慣れた足取りで尾崎医院へと向かっていた。自転車を使えば楽なのだが、名前はあえて徒歩を選択している。いつも、いつも。
 そうするようになったのはーー家からできるだけ離れていられるようにするようになったのはいつからだろう。いつから名前はこんなにもこの村を憎むようになったのだろう。
 ーーそんなの、決まってる。

「わざわざ出向いてくれなくたって往診に行くのに」

 尾崎の若先生ーー敏夫は呆れた風に笑った。これもいつものことだから名前も微かに口角を上げた。

「この方が先生も楽でしょ?うちに来たらどうせお喋りに捕まっちゃうし」

「ははっ、そうだな」

 敏夫は否定しなかった。
 そういうところが名前にとってはひどく好ましく映った。だから尾崎医院まで祖父の持病の薬をわざわざ取りに行くのだって苦痛じゃなかった。この夏の盛りでだって。家に籠っているよりはずっと健康的だ。

「……先生もあんまりこの村には似合わないですよね。都会で外車を乗り回すくせして、ゴールデンバットとか吸ってそう」

「それは褒めてるのか?貶してるのか?」

「褒めてますよ。だって、」

 名前は続く言葉を呑み込んだ。
 いかに心地よくともこの病院だって外場の中なのだ。どこで誰が聞き耳を立てているかわかったものじゃない。
 それが敏夫にも伝わったのか。彼は苦く笑うと、「まぁ頑張れよ」と親身なのか投げ遣りなのか微妙な応援を名前に寄越した。そのくらいの距離感が名前にとってもちょうどいいから……だからやっぱり、彼は好ましいと思うのだ。

「暑い……」

 そんな居心地のいい場所に留まり続けるわけにもいかないのが未成年の悲しいところだ。
 名前は砂利道で立ち止まり、額に滲む汗を拭った。日傘越しに見上げても空は天高く、日の輝きは体を蝕んでいく。じりじりと、静かに。
 それがこの村そのもののようで、この外場という土地を象徴するかのようで。だから名前は夏が嫌いだ。肌をなぶる熱も、地面に転がる蝉の死骸も。何もかもが厭わしく、名前には恐ろしくさえ思えた。
 この村は停滞している。なんの変化もない日々。ただ死に向かうだけの人々。この村は死んでるも同然だった。少なくとも、名前にとっては。
 それでも嫌いだとまでは言えなかった。家族のことも、この村に住む人のことも。なにせ生まれた時から名前はここにいるのだからーー。

「あれは……」

 歩みを進めた名前の目に留まった影。それはこの夏外場に越してきたばかりの少年のもので。

「……結城くん」

 いつもなら。これまでの名前だったなら声を掛けなかったろう。ただ幼馴染みの友人であるというだけの少年には。それが名前にとっても、そして彼にとっても適切だと思っていたから。
 けれど今名前の脳裏に過ったのは先日の記憶。外場にはないCDを求めて隣町まで行った日に彼、結城夏野と遭遇したことを思い出していた。
 その時の名前はらしくもなく饒舌になっていた。今思えば彼とは話しやすかったのだろう。そのせいで名前は彼に都会の大学を志望しているのだと明かしてしまった。そして彼もまたそれを望んでいるのだ知ってしまった。
 だから。

「あぁ、アンタか」

 夏野の物言いは素っ気ないものだった。それが年下らしくないと一部で反発を生んでいるのだろう。が、そのぐらいの距離がいいじゃないかと名前は思う。年功序列だのなんだのはこんなちっぽけな村では些細なことだ。
 夏野は素っ気ないながらも名前を無視することはしなかった。立ち止まり、名前が歩み寄るのを許した。「ちょうどよかった」なんて言って。

「アンタに聞きたいことあったから」

 名前の家まで向かっていたのだと彼は言う。勉強の息抜きとして散歩をするついでに、と。

「それなら電話してくれればいいのに」

「……けどこうして会えたんだからいいだろ」

「……まぁ、そうだね」

 彼は本当に名前の家に用事があるらしい。帰路につく名前の隣を歩きながら、彼はぽつりぽつりと言葉をこぼした。夏野は普通に話しているつもりなのだろうが、彼の淡々とした物言いはそう表現した方が相応しい。

「参考書?」

「そ。アンタがどんなの使ってるのか気になって」

 そこで彼は顔を顰めた。
 「向こうにいれば自分で調べられたけど」外場にいたのではなかなか物も揃わない。それもまた彼の不満を増幅させているようだ。
 夏野の言葉に、名前は「確かに」と頷いた。

「だから私は母から送ってもらってるの。ここじゃ選択肢もないし」

「そうか……」

 夏野は見てわかるほどに落胆した。肩を落とした少年は余計に小さく見え、名前は思わず言葉を続けていた。

「よかったら貸すよ。使えるものがあれば、だけど」

 と。普段ならそんなお節介は焼かないのだけれど。でも、なぜだか彼にはそうしたいと思った。思って、しまった。

「……助かる」

「いいよ、同じく都会を目指すよしみってことで」

 たぶんこれは仲間意識のようなものだ。彼にとっては迷惑かもしれないが、あの日以来名前の中では彼に対する感情が変化していた。幼馴染みの友人という枠組みから、ただの結城夏野という個人として。彼をひとりの人間として意識するようになっていた。この村の誰とも違う、唯一の人として。

「今なら家族いないし上がってく?結城くんのことだから高校の教科書とか見ておきたいでしょ」

 父は仕事だし祖父も祖母もそれぞれの友人と井戸端会議を繰り広げてる。彼らにとってはそれが習慣で、ルーティンワークなのだ。名前からすれば同じ話題を繰り返すばかりの世間話など苦痛でしかないのだが。彼らは進んで行っているのだからまったく理解に苦しむ。

「……じゃあ、」

 夏野は一瞬目を見開いた。顔を彩るのは驚き以外の何物でもない。
 しかし名前がそれに気をとられている間に彼は常と変わらぬ仏頂面に戻っていた。だが続く言葉は名前の誘いに応じるもので。
 こんなことが家族に知れたら煩く言われるのは間違いないのに、そんな面倒すらどうだっていいかと思ってしまった。
 どうやら名前は自分で思っている以上に結城夏野のことを気に入っているらしい。
 先刻までの疎ましさを忘れ、名前は微笑む。
 こういう出会いもあるから、この村を嫌いになりきれないのだ。