ジョルノに想われるY


 ノックに応じる声。その一言だけで胸が高鳴るのだから、やっぱりこれは恋なのだろうと思う。

「名前、」

 扉を開け、室内を覗くと一番に目に飛び込むのは燃えるような黄金の色。そして縁取られる瞳は芽吹きの緑。
 落莫たる秋の様相とは対照的な瑞々しさ。お陰で彼の背後、窓の向こうに広がる景色は一層色褪せて見えてしまう。それはもう、哀れなほど。

「ジョルノ、いま平気?」

 そんな思考を振り払い、名前はそっと歩み寄る。
 ジョルノは書類仕事をしていたようだ。でも彼はあっさりとそれらを机上に取り残し、名前の手を取って、微笑をひとつ。

「ええ、もちろん」

「そ、そう……、よかった」

 蕩けるほどに甘やかな微笑み。それは名前が持ってきた甘味よりもずっと多くの砂糖で敷き詰められていた。
 花盛り、花の色。ともすると陶酔してしまいそうなほどに心地いいばかりの眼差し。愛情深い瞳に、たじろぐ名前の頬に差すのは朱の色。真っ直ぐなその愛情が眩しく、まだまだ慣れるのには時間がかかりそうだ。
 そんな名前は取り繕うようにコホンと咳払い。それからいつも通りの笑顔を浮かべ、部屋の中央の卓子に厨房から持ってきたお皿を並べた。

「プリンを持ってきたの。あなた、好きって言ってたから」

「覚えててくれたんですね。ありがとう、いただきます」

 ……好物と聞いてすぐに作ってしまうあたり、調子がいいと思われてやしないだろうか?
 名前のそんな危惧をよそに、ジョルノはパッと瞳を華やがせた。それはあまりに無垢で、あまりに無邪気であった。

「……うん、ちょうどいい甘さです」

 いそいそと長椅子に腰を落ち着け、お皿を引き寄せ。優雅な所作でスプーンを使いながら、しかし浮かぶ満足げな笑みはいたいけな少年のよう。その差異に、名前は目眩がしそうだった。たぶんそれは一般的にときめきと呼ばれる類いであろう。
 「よかった」名前は彼の隣に座りながら、その横顔を密かに盗み見た。

 ──白皙の美貌とは彼のような人のことを言うのだろう。

 円やかさの残る輪郭。薄紅の形いい唇。繊細な鼻梁。透徹した双眸。そのすべてが正しく配され、収まることの奇跡よ!
 ──神より生まれし人類最初の誉れにして、また最後の花盛り。
 ──時は満てり、神の国は近づけり。
 そんな文句を思い出してしまうのはかつても今も変わらない。あの夜、身を切るような告白を聞いた今でも、ずっと。

「どうかしました?」

「えっ、ううん、なんでも……」

 ──美しいと思う。その心、魂に至るまで。美しく、尊く、──愛おしい。

 ……とはいえそれを詳らかにするほどの勇気はまだ持てないのだけれど。
 しかし、と訝しむ視線。気遣わしげなジョルノに慌て、名前は視線を泳がせる。何か、代わりになる話題はないだろうか。

「ね、ジョルノのお母さんってどんな人?」

「どうしたんですか、突然……」

「突然じゃないわ、気になってはいたんだもの。……その、話せるなら、だけど」

 そしてはた、と思い至ったのは以前から気になっていたこと。機を伺いながらもなかなか言い出せなかったことだった。
 ジョルノの家族、そのうち父親についてはあの晩初めて聞き及んだ。だが母親についてはまだ聞いたことがない。
 『あの男』との間に子供をもうけた女性。『彼』がどれほど残酷で悪逆の限りを尽くしていたのか。その一端に触れたことのある名前にとって、父親について打ち明けられた今、気にかかるのは彼の母親に関してである。当然だろう。
 そこまで思考を巡らせた名前にはそれ相応の覚悟があった。──拒絶されるか、それとも?たとえどんな悲劇だろうと受け止める、そう腹を括っていた。
 そんな名前に。

「……きれいな人だったと思いますよ。ただ……すみません、あんまり思い出というものがないので、」

 つ、と唇に含むのはあえかな笑み。儚げに、しかし憂いは微塵もなく。透き通るそれは「……ごめんなさい、」と謝る名前に向け、一層のこと深まっていく。

「いえ、あなたには話しておきたいとぼくも思っていましたから。ただあなたにそんな顔させるんじゃないかってのが気がかりで、」

 柔和なばかりの表情のまま、ジョルノはそっと名前の手を取った。

「ぼくは気にしてませんから。だからあなたも気にしないでほしい」

「……わかったわ」

 そこまで言われてはこれ以上の言葉はない。大人しく頷く以外術はなく、名前はそう答えた。
 とはいえ罪悪感は残る。彼のことは一片だって傷つけたくない。それはあの夜を越える前から変わらず胸にあった感情だ。だから今となってはなおのこと──思いは強く、指先に感じる温もりに泣きたくなった。
 でもきっとそれすら彼には見透かされているのだろう。

「あなたのご両親は?日本にいるんでしたっけ?」

 手中に収めた名前の指を悪戯に弄りながら問いかけるジョルノ。何気なさを装った話題の転換。気遣いの証に、名前は素直に応じた。

「そうよ、祖父母もいっしょ。親戚はこっちにいるんだけど、母が箱入り娘だったものだから日本まで着いていっちゃったみたい」

「……素敵なご家族ですね」

「そうね、でも私……その、反抗期以来親孝行できてなくて。だからあなたのことちゃんと紹介したいわ。安心させてやりたいし」

 名前としては深い意味のない台詞だった。エジプトへの旅以来、どうにも心配ばかりをかけ続けてきた家族へ落ち着いた証拠を示したい。そんな思いを深く考えることなく口にしてから、ふとジョルノの手が止まっていることに気づいた。

「ジョルノ?」

 彼は微笑みながら名前の話を聞いていた。その最中、気紛れに名前の指先をなぞったり絡めたりして。
 けれど名前が目線を上げた時、擽ったい愛撫の手は止まり、その目は驚きに見開かれていた。不意を突かれた、そんな様子で。
 名前が声をかけ、ようようその目が焦点を結び、名前の元へと。

「……ぼくを?」

「え?ええ、そうよ」

 沈黙の果て。呆然と呟かれたその一言。一瞬意味を計りかね、しかしすぐに首肯してから。

「あっ……!おっ、重たかった、かしら……?」

 驚きの原因に思い至り、名前はかあっと頬を赤らめた。

「べっ、別にね、急かすつもりはないのよ!いきなりそんな……あなたは若いんだし、……その、こっちの人って遅いでしょう?わかってるのよ、それだけが幸せの形じゃないってことくらい、」

 ──考えてみれば当然だ。
 名前としては何の気なしに言い放った言葉。こんな自分にも大切にしたい人ができたのだと打ち明けたい思い。元より家族の繋がりを大事にする国民性だ。だからできることならジョルノの母親とも親しくしたかったし、自分の家族となればその願いは一層強まった。
 でも見方を変えればそれは自分をフィダンザータ──婚約者にしてくれと言っているようなものではなかろうか。
 それに気づいた名前はもう大慌て。今度は自分からジョルノの手を握り締め、矢継ぎ早に言い募り、言い淀み、──そして。

「ただ……あなたとだったら幸せになれるんじゃないかって、思って……」

 そう言った声は羞恥に霞み、葉擦れの如きささやかさ。脳内は沸騰し、思考は立ち行かない。
 自然俯く名前、その耳元に。

「……ぼくでいいんですか?」

 遠慮がちに響いたのはジョルノの囁き。ハッと顔を上げた名前に映ったのは、その響きとは対照的な眼差し──あまりにも真摯で、あまりにも熱烈で、あまりにもひたむきな──そんな目だった。

「……私、そんなに不誠実な女じゃないつもりなんだけど、」

 だから、名前も真っ直ぐに見返した。
 ジョルノ・ジョバァーナ。ギャングのボスで、スタンド使いで、吸血鬼の血を引く青年。
 ……いや、そんなのはどうだっていい。些末なことだ。名前は内心で首を振った。

 彼を言い表すのはたったひとつ。──私を好きだと言ってくれた、大切な人。

 名前にはそれだけがすべてだった。

「だから、つまり、その……それなりの覚悟はしてるつもりよ」

 言い切り、微笑む名前に。

「君って人は……本当に、」

 ひとりごち。それからジョルノはくしゃりと目許を緩めた。子供みたいに透明な表情だった。その縁が僅かに潤んでいるようにさえ思われた。
 でもそれはほんの一瞬のこと。すぐにジョルノは表情を変え、名前の両手をしっかりと包み直した。

「すみません、気の利いた言葉ひとつ思いつかない……。不甲斐ないぼくをどうか許して、」

「そっ、そんな……大袈裟よ」

 それは懇願のポーズに近かった。なんだか彼を跪かせているかのような感覚。そんな錯覚を覚えるほどに一心な視線と声音に、動揺する名前へ。

「それと、」

 すべてがゆっくりと見えた。捧げ持たれた己の手。その指先へ、ジョルノが唇を寄せるのも。柔らかな温もりが触れ、離れていくのも。一瞬の瞬きから、落ちる影、唇の震えに至るまでも。名前には何もかもがはっきりと見ることができた。
 ──そう、これより先の未来だって。

「ちゃんとした台詞はまたの機会に。もう一度のチャンスを、どうかぼくにください」

「……しようがないなぁ」

 優しすぎる触れ合いに、名前は相好を崩す。

「いいわ、幾らでも待ってあげる。五年、十年だってかかるのがこの国じゃ普通なんでしょう?なら私だって待てるわ」

「そこまではさすがに。……ぼくの方が我慢できそうにありません」

 そんなことを真剣な顔で言うものだから名前は思わず笑ってしまった。聡明な彼がそんなことを言うのがおかしかった。おかしくて、愛おしくて──

「……大好きよ、ジョルノ」

 やっぱりこれは恋なのだと名前は思うのだった。