ジョルノに想われるZ


 それはあまりに穏やかな目覚めだった。まるで夢の続きを見ているかのようだった。それほどに安らかな朝だった。途方もなく満ち足りた気持ちであった。そしてそれがただの夢ではないのだと──目覚めたジョルノは、傍らにある温もりに泣きたくなるほどの幸福感を覚えた。

「名前……」

 朝の滑らかな日差しは薄い紗幕となって名前の頬へ。白々と宿り、輪郭すらも光り輝くよう。恩寵と慈悲の宿るその膚。厳かな思いで触れ、──その温かさに胸が詰まった。
 辺りには奇跡があり、祝祭があった。何もかもが幸福によって形作られていた。これ以上の喜びなどないと思っていた。

 ──それなのに。

「……大好きよ、ジョルノ」

 名前はいつだってその隔たりを飛び越える。夢ではないかという恐れすらも振り払い、欲しい言葉をくれる。……惜しみない愛情を、微笑と共に与えてくれる。

 ──それが、少しだけ恐ろしい。

 幸福が過ぎて怖いというのをこの時初めて実感した。彼女のちょっとした動きに様変わりする心。すべての詩句が彼女のために存在していた。もしも彼女が立ち去ってしまったならば──その瞬間の絶望はいかほどだろう!

「……ぼくもです」

 そう答えながら、ジョルノは絡まる指先の熱を意識した。名前の手。清く柔らかなそれを、きっと生涯手放すことはないだろう。その温もりを知ってしまった今、二度と触れられなくなることなど想像すらできなかった。

 ──かわいそうに。

 ジョルノはどこか他人事のように思った。
 かわいそうな名前。優しいばっかりに囚われた彼女。きっと始まりは同情からだった。でも今は愛していると彼女は言う。そう言ってくれるから、始まりがなんであってももう彼女を自由にする選択肢はなかった。

「おーいジョルノ──って、わりぃ、邪魔したな」

「ミスタ、」

 例えばそう、以前は候補に挙げていた彼にだって譲るつもりはない。
 扉を叩くことなく開けたのはミスタだった。彼は遠慮なしに室内へ首を突っ込み、そこでようやっと名前の存在を認識した。
 ミスタは薄笑いを浮かべていた。揶揄いに充ちた表情。そのままに、「お熱いことで」などと軽口を叩く。明らかに楽しんでいるという顔だ。
 ジョルノは名前の様子を窺った。……怒るだろうか?それとも羞じらう?どちらでも彼女らしいと思った。
 でも答えはそのどちらでもなかった。

「そうよ、その通りよ。だからミスタは邪魔しないで。ほら帰った帰った」

 立ち上がった名前が放ったのはその一言。言い放ち、歩み寄り、そして言葉通りに追い返そうとミスタの背を押す両手。それに逆らいながら、「なんだよ冷てぇ〜なァ……」とミスタは大仰な溜め息を溢す。
 それから彼は名前を指差し、

「おいジョルノ、ホントにこいつでいいのかァ?」

「ちょっとどういう意味よ」

 心外だ、とは名前の表情。潜められた眉。険を持った語調。しかしそんなもので怯むミスタではない。

「どういうもこういうも……心当たりはあるだろ?なぁジョルノ〜……、名前が相手じゃ『こういうの』だって燃やされるだけだぜ?」

 『こういうの』、とは。
 意味深長にミスタの懐から取り出されたのは一冊の雑誌、らしきもの。ジョルノにはその表紙すら判然としなかったが、ミスタのすぐ近くに立っていた名前は『それ』をはっきりと視界に捉えてしまった、らしい。

「あッ!またそんなの持ち込んで……ッ!」

 上がる悲鳴。つり上がる柳眉。名前のその様子で、ジョルノにも『それ』がなんだか見当がついた。話題に上ったのもほんのつい最近のこと。でもあの嵐の夜よりは前のことであったから、ジョルノにはなんだか随分と昔のことのように思えた。
 もうあの頃とは違う。あの頃よりもずっと穏やかで、今だってミスタに噛みつく名前を眺めて思うことといったら、『こんなことで羞じらいに頬を染める姿も可愛らしいものだ』といった内容である。まったく、呑気になったものだ。ジョルノ自身がつくづくそう思う。
 そんなことを考え、ほっこりとするジョルノを置き去りにして。

「あーあーうるさいうるさい……。ほらな、厳しいったらありゃしねぇ」

「厳しいとは何よ!」

 相も変わらず続くのはミスタと名前、二人の口論である。両者一歩も譲らぬといった構え。名前にしては珍しく物言いも荒っぽい。でも怒った顔もそれはそれでいいものであったし、何よりその純粋な心が愛おしい。
 目を細めるジョルノはこの話題において当事者であるのに、この時既に傍観者の姿勢に入っていた。

「そもそも当然のことでしょ。だって私、ジョルノの婚約者だもの」

 だから「ふふん」と得意気に腕を組む名前を見て、──息を呑んだ。
 そう、確かに名前は『婚約者』と言葉にした。婚約者、フィダンザータ──と。誰に憚ることも羞じらうこともなく、彼女ははっきりと口にした。

 名前は本当に──ぼくとの未来を望んでくれているのだ。

 それが実感できた。実感、と共にじわじわと沸き上がるのは歓喜の情。自分には無縁だと思っていた未来。ごく当たり前の家族の姿。それを今、確かに視た。子供たちがいて、隣には優しく笑う名前がいる──そんなありふれた、ごく平凡な幸福を。

「……、オメーそれとこれとは別だろォ〜?」

「別じゃないわ。私がいるんだもの、そんなの必要ないでしょう?」

 ……今すぐ彼女を抱き締めたかった。抱き締め、心のうちを残さず吐露してしまいたかった。そうでなければ有り余る情に胸が張り裂けそうだ。
 そんな葛藤など露知らず。名前ときたら人を喜ばせる言葉しか口にしない。喜びで人を殺す気だろうか。そんなことすら考えてしまう。

「へぇ〜?ほぉ〜……?」

 上記の通り、名前はジョルノの状況など目に入っていない様子。だがミスタまでそうかといえば、……別にそんなこともない。
 彼が驚いた様子で目を瞬かせたのは彼女が『婚約者』という単語を用いた時だけ。その瞬間だけはさしものミスタも不意を突かれた。
 でも驚きが過ぎ去った後の彼はといえば名前よりも余程周りが見えていた。簡潔に言うなら、ジョルノの喜びを察知し、ニヤニヤと愉しげに口角を緩めていた。

「なにその気味の悪い笑い方は……」

「ほっとけ」

 寒気がする、と体を震わす名前。そんな彼女の頭を小突き、ミスタはひらりと手を振った。

「ま、そこまで言うなら邪魔者は退散しますよ」

「もう二度と『そういうの』は持ち込まないでね、……燃やすから」

「おー怖い怖い」

 腕組み仁王立ち。キッと睨み据える名前に降参の意を示すミスタの両手。でも声は最後まで笑み混じりで、徹頭徹尾揶揄いを帯びていた。立ち去るその足はステップすら踏みかねない勢いである。鼻歌さえ聞こえてきそうだ。
 それを見送り、影が見えなくなってからやっと。扉を閉めた名前は「もうっ、何しに来たのかしら」とまだ文句を言い募る。

「本当、ああいうのだけはダメね。あれさえ直せば悪い人じゃないんだから……結構いい線いくと思うのよね。あぁ、勿体ない。ジョルノもそう思うでしょ?」

 眉間に皺を寄せ、目を閉じ。うんうんと一人頷く名前は気づかない。

「ねぇジョルノ──」

 ジョルノが歩み寄ったことも、その顔に落ちる影も。頬に這わされた手に顔を持ち上げられ、詰められた距離に目を瞬かせても──もう遅い。

「ジョ、ジョルノ……?」

「すみません、ちょっと我慢できなくて」

 触れ合う唇は戯れほどのささやかさ。掠めるだけの熱に、それでもやっと息をつく。ようやっと、微笑みを浮かべられるだけの余裕が生まれる。

「あなた方の仲がいいのはわかってます。あなたたちにその気がないのも。でも……すみません、どうやらぼくは思っている以上に狭量だったみたいです」

 左手では彼女の腰を抱き寄せ、右手では彼女の輪郭を撫ぜ。ぎこちなく笑い、ジョルノは鼻先が触れるほどの距離にある名前の眸をじっと見つめた。菫の色、藤の色。本当を言えば恐ろしいくらいだ。その目に拒まれることを思うと、容易く絶望が首をもたげた。

「名前、嫌だったら──」

 言いかけ、でもジョルノが言い終えることは決してない。

「……これでおあいこね」

 再び離れていく唇。紅く、艶やかなそれが弧を描く。にっこりと、無邪気に。青く、清い口づけをくれたその唇で、彼女は「ね、安心した?」と悪戯っぽく笑った。

「え、ええ……」

「そう、ならよかった」

 頷き、それから名前はジョルノの背に手を回した。驚き、戸惑うジョルノのことなどお構い無しである。その体をぎゅっと抱き締め、「ふふっ」と鈴を転がすような声を洩らして。

「だって私、婚約者ですもの。嫌じゃないわ、ちっとも」

 吐息がジョルノの耳朶を擽った。擦り寄せられた頬は柔らかかった。そして背中を撫でる手は優しく、声音は透き通っていた。何もかもに愛情が溢れ、何もかもがジョルノを肯定していた。

「それに嬉しかったわ。ねぇジョルノ、他の女の人なんて見ちゃダメよ、……約束」

「……当然です」

 これ以上の幸福などないと思っていた。
 なのに名前はそんな予想すらも破ってしまう。昨日よりも今日、今日より明日。もっと幸せになれるのだと。もっと幸せになりたいと。そう願ってもいいのだと、彼女は教えてくれた。
 そんな彼女を喪うことのないよう、ジョルノもまた名前をきつく抱き締めた。泣きたくなるほど幸せで、少し怖いくらいだった。