雪の女王[
独歩さんの懸念の理由はすぐに明らかとなった。
「……魔女、ですって」
往来する人々。そのどこからか聞こえてきた単語を復唱し、私は隣を歩く彼をそろりと窺い見た。
陰鬱を閉じ込めたみたいな眸。曇天を映すそれは「らしいな」と興味なさげに一言。そんな彼に安堵し、けれど私は用心深くフードを目深に下ろした。
「本当に信じているのかしら」
「そうなんだろ。……バカバカしい」
吐き捨てる彼に私の方が狼狽えてしまう。慌てて辺りを見回し、誰にも聞き咎められていないのを確認し──それから「もうっ!」と冷たいコートの袖を引っ張った。
「みんな信じてるって思うならあなたも気をつけないと!」
密やかに、しかし声は荒げて。訴えるけれど、独歩さんはどこ吹く風。「俺は平気だ」なんて嘯く始末。
「どうせ誰も俺のことなんか気にしちゃいない、何言ったって聞いちゃいないさ」
……卑屈なのかなんなのか。
よくわからない言葉を吐いて、独歩さんは自嘲した。でもこれが独歩さんという人なのだと、短い付き合いの私にも理解できた。これは彼の趣味で、習慣で、治しようのない病みたいなものだ。
いちいち狼狽えていたのはもう過去の話。私は黒髪黒目の人々の合間を縫って歩きながら、ぼんやりと村を囲う稜線を眺めた。煙のような靄が立ち込め、木々の色さえ不明瞭。じきに天気が崩れるだろう。雨か雪かはわからないが、湿り気のある風が鼻先を撫でていった。
「あなたは信じてないのね」
私はフードの奥から独歩さんをちらりと見た。無造作に流された赤毛や鬱屈とした翡翠なんかを。見やり、囁くと、……鼻で笑われた。
「当然だろ。不老不死だとか若返りだとか……世の中そんなうまい話あるわけない。確実な情報があったら俺だって死に物狂いで探してたさ。叶えてもらうなら……そうだな、強靭な精神に不眠が続いても疲れない体……そんなのがいいな」
珍しく饒舌だ。でもその内容に私は「うわぁ……」と声を洩らす。勿論称賛だとか感嘆だとかの類いではない。呆気に取られた、可哀想に思った、そんなのをいっしょくたにした「うわぁ……」である。
「奴隷根性が染みついてる……」
願いを叶えてくれる魔女。そんな万能を捕まえて願うのが『これ』である。どうせならもっと自由な──それこそ一生働かなくていいとかそういう夢を持てばいいのに。
そう呟く私を、独歩さんは「ほっとけ」と小突いた。
「ま、しょせんは夢物語だ」
徹頭徹尾リアリスト。肩を竦める独歩さんは私よりもずっと大人びて、諦念すら窺わせる目つきをしていた。世界に疎まれていると嘆くのに、そんな彼こそが世界を突き放している、そんな物言いだった。
「だから俺はお前に変な幻想は抱かない。ちょっと毛色が違うだけの一般人だって知ってるからな」
──そのくせ私の頭を撫でるその手は優しいのだから、全くもって不可解だ。
この辺りの伝承に登場する魔女。村の人々が信じるそれと同じ、金の髪に赤い瞳。そんな私を疎むのでも厭うのでもない独歩さんは、しかしわかりやすい慰めもしない。揶揄うみたいな口振りで、フードの上からぐしゃりと乱雑に私の頭を撫でた。……その気安さが、私には心地よかった。
「知りませんよー?実は気づいてないだけで私、人間じゃないのかも」
だから私は下らない冗談を口にすることもできた。
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ると、「何言ってんだ」……返されたのは冷静な言葉。呆れ混じりに見下ろされ、私は頬を膨らました。
「試してみなきゃわからないでしょう?例えばほら……毒薬を飲んでも拍手を受けて目覚めたりとか。可能性だけならあるはずです」
「拍手と蘇生に繋がりが見えないんだが」
「あら、もしかしてご存知ない? 『もし信じてるなら、手をたたいて。ティンクを見殺しにしないで』って……」
「知らん」
──まさかあの有名なお話を知らないとは!
世の中を自分の尺度で測ってはならない。そう痛感した、お陰さまで。そう、世界にはピーターパンを読んだことのない人だっているのだ。考えてみればピーターパンを読む独歩さんなんて……確かに想像ですら難しい。となると納得の返答だ。私の例えが悪かった。
「……今すごく失礼なこと考えてたろ」
「ま、まさか〜!」
疑念に満ちた目。物言いたげなそれに見下ろされ、私は慌てた。この程度で怒る彼ではないと知っているけれど、拗ねられると厄介だ。
以前のことを思い出し、私は話題の転換を目指した。削りすぎた芋と人参はもうごめんだ。
「というかまだ着かないなんてこの村の市場はどこにあるんですか?」
そういえば宿にしている修道院を出てずいぶん経つ。広くはない村だ。気軽に行ける距離にあると思っていたけど、予想よりも遠くまで歩いてきてしまった。じきに村の外れまで行き着いてしまいそうだ。
「……独歩さん?」
閑散とし始めた通り。細い道の真ん中ではたと立ち止まる彼。釣られて足を止め、様子を窺うと。
「……しまった、通り過ぎてた」
「……なるほど」
気まずげに反らされた目。肩を落とす彼に、私は思わず笑ってしまう。
「この道を戻ればいいんですよね?……大丈夫!猿も木から落ちるし弘法も筆を誤るわけですから!」
「そんな慰めはいらん……」
はぁと溜め息。深々と吐いて、彼はまた自分の世界に入ってしまう。「俺のせいだ」「全部俺が」これまで何度も聞かされてきたその呟きは今日も今日とて陰鬱な有り様。この空よりも重く、暗く。
「はいはい、独歩さんのせいじゃないですから。早く戻りましょ」
私は彼の手を引き、来た道を引き返した。でも全然落胆なんかはなかった。空がいかに鉛色であっても、空気がいかに冷たかろうと。雨でも雪でも気を塞ぐことはないだろう。
私は空を見上げた。垂れ込める雲が幾重にも連なっていた。
──今晩は荒れそうだ。
そんなことを呑気に考えていた私は、危機感というのがまるでなかったのだと後に思い知ることとなる。
「すみません、お客人にこのような雑用を……」
「いえいえ!お世話になっている身ですから」
申し訳なさそうに眉を下げる修道士さまに、慌ててしまうのは私だけ。独歩さんは興味なさげな様子で空になったお皿を運んでいった。その後を追いかけ、私は「独歩さんも!」と声をかける。
「片付けは私がやっておきますから!独歩さんは先に休んでてください!」
「いやでも……」
「お気になさらず!」
彼の家事能力についてはとうに熟知している。宿として修道院の一室を借りている今、元々の住人にこれ以上の迷惑はかけられない。
それに世の中には適材適所という言葉がある。村から村へと至る険しい道のり、それを乗り越えられたのは独歩さんが馬を操ってくれたからだ。その代わりといってはなんだが、私は私にできることをしたい。
その思いを込め、部屋に戻るよう促す。と、「……わかった」不承不承の体ではあるものの、一応の頷きは貰えた。
「先に火は焚いておくから……お前も早く休めよ」
「はい!」
独歩さんの背中を見送っていると、同じく片付けをしていた修道士さまが「仲がよろしいんですね」と微笑んだ。白髪の目立つその人は柔和な面立ちをしていて、私は記憶にない祖父のことを思った。
「そう見えますか?」
「はい、大変仲のよいご兄妹だと」
「……ありがとうございます」
笑顔が不自然なものにならないよう心がける必要があった。
だって私は独歩さんの妹なんかじゃない。彼にとっては仕事の一環。でも私はこの短い付き合いの中で家族に似た親しみを覚えていた。兄がいたらこんな感じだったのかと。──本当の兄妹だったらどんなによかったろう、と。
「あなたはお怪我をされていると聞きましたが……」
「ええ、顔に火傷を」
「……よいお医者様に巡り会えるよう祈っております」
これも独歩さんの作り上げた私の身の上話である。顔に酷い火傷を負った哀れな娘。そんな妹のために遠い国まで医者を求めて旅をする兄。……なんて、あまりにも物語じみている。
でもお陰でフードを下ろさずに済んでいるのだから、独歩さんには感謝しかない。いくら作り物めいているとはいえ、哀れを誘う話に人は良心から追及を躊躇う。現に今、修道士さまも真剣に私の幸福を祈ってくれた。……私の良心が痛むのを除けばこれ以上ない選択だったのだろう。
私はまた礼を言って、炊事場の蛇口を捻った。しんと冷えた水が膚に痛い。荒れそうだと予感した通り、夜になると村は吹雪に見舞われた。ガタガタと揺れる窓。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風。ホワイトアウト。きっと外では一寸先すら白。想像に寒気がして、私はぶるりと体を震わした。
「しかし、」修道士さまが私の隣に立った。私は背の高い彼を見上げた。絞られた灯りは頼りなく、私からは彼の目許が影になっていた。かさついた唇が動くのだけが、私に見えるすべてだった。
「魔女がいればその願いも容易く叶いましたでしょうに」
「え?」
最初、修道士さまが何を言っているのか理解できなかった。
魔女。──本当に、彼はそう言ったのか?何かと聞き間違えたのかと思った。だってそれは迷信で、伝承で、根拠のない噂話で──修道士さまがそんなものの話をするなんて、思いもしなかった。
「魔女、なんて……私、お会いしたことありませんもの」
「そうですか」
それは疑問のような肯定のような、よくわからない響きをしていた。故に私は拾いあぐね、曖昧に笑んだ。修道士さまは笑わなかった。──そうですか。もう一度。感情の籠らない声で呟いて、彼は私を見下ろした。
──とても、冷ややかな目だった。
「おかしいですね、村では魔女が出たと囁く声があるのですが」
「そう、なんですね……、でも知りませんわ、私、」
気づけば私は炊事場の角に追い詰められていた。私は必死に取り繕いながら、出入口の様子を窺った。──他に気配はない。でも嫌な感じだった。風の音が耳についた。それ以外は静止していた。あとは静寂。あまりにも静かすぎた。そう、違和感を覚えるほどに。
「ですが今この村にいる余所者はあなた方二人のみ、……それ以外には考えられないのですよ」
「そんな、」
私は独歩さんのことを思った。彼は今どうしているだろう。割り当てられた部屋に向かったはずだ。でも、もうここは安全な場所なんかじゃない。もしかしたら私などより先に男の彼の方が──
「……それなら証明してみせます」
私は眦をキッと釣り上げた。交わる視線。それは雪よりも冷たく、鋭く。でも怖くはなかった。大切な友人を──独歩さんを守るためなら。
睨み据えると、修道士さまは「ほう」と息を吐いた。称賛に似ていて、でも冷徹なそれ。嘲笑のようで、私はともすると竦みそうになる足に力を入れた。
弱みは見せられない。私は「ええ」と頷いてみせた。
「魔女と普通の人を見分ける方法。……きっとあなたならご存知でしょう?なんだって言ってください、なんだって……私は乗り越えられるわ」
──だって、独歩さんは信じてくれたもの。
挑発するように余裕ぶった笑みを浮かべる。すると男は「では、」と懐から小瓶を取り出した。
「それは?」
「薬です。魔女と普通の人を見分ける薬」
小瓶には毒々しい色の液体が揺らめいていた。
私は昼間の会話を思い出した。
『もし信じてるなら、手をたたいて。ティンクを見殺しにしないで』
──彼のためなら、ティンクにだってなれるわ。
私は小瓶に手を伸ばした。