雪の女王Z


 一面の銀世界。雪原を、馬車は駆け抜けていく。北へ、北へ。ただひたすらに。
 流れていく景色。枯れた木々は温もりのない人影。脱け殻はいたく寂しく、悲しげ。天を仰ぎ見、絶望に喘ぐよう。
 そうしたものを眺めながら、思うのは彼のこと。

『北へ行くといい。北の最果てへ』

 彼は──一二三さんは──私の手を取ってそう言った。瞳には燭台のか細い火が灯っていた。涙の残る目──そうだ、彼は泣いていた──それでも彼は笑ってみせた。

『君が願いを果たせるよう祈ってるよ、名前。君の……友達として』

 ガタン、と音がして、加速する世界は止まった。

「……着いたぞ」

 扉を開けるのはどこか影のある男の人。一二三さんが供に、とつけてくれたのは彼の幼馴染みである騎士だった。

「ありがとう、独歩さん」

 手を引いて馬車から下ろしてくれるのは生来の優しさ故か、それとも一二三さんに頼まれたからか。私にはわからない。独歩さんは「……いや、」とフードを目深に被り直すだけ。彼は寡黙で、けれどその静けさが今の私には心地よかった。

「少し早いが今日はここで夜を明かす。……この先の街までは距離があるからな」

 地に足をつけ、改めて辺りを見回す。
 山間のちいさな村だった。ささやかな棚畑が広がり、小高い丘の上には形ばかりの城館があった。けれどそれらも今は雪の中。白に閉ざされ、静寂ばかり。

「……ここの人はみんな同じ髪色をしてるのね」

 呟きはひとり。そのつもりであったけれど、独歩さんは「髪だけじゃない」と答えた。

「目もだ。……この辺りの人間はみんな黒と決まってる」

 流れの者もいないようだった。深い山の中、旅人も少ないのだろう。ならば居着く者も、また。
 だから村の入り口に止まる馬車を人々は遠巻きに眺めた。……なんだか見世物になった気分。私も独歩さんに倣って頭巾を目元まで下ろした。独歩さんは「それでいい」と言った。

「そのままでいろ。たぶん、しばらくは」

「どうして?」

「……あまり、よくないことが起きる」

 彼は曖昧に濁した。目で続きを訴えても逸らされるだけ。言いたくないのだと纏う空気でわかった。……そして私には、それを追いかけるほどの力はない。
 歩き出した独歩さんを追いかける。ちらちらと舞う雪が鼻先を冷やす。稜線は曇り、行き先は知れず。

 ──私はこれからどうなるのだろう。

 不安はこの雪と同じ。降りしきり、降り積もる。
 私は胸元を掻き合わせた。『彼』の名を心で呼んだ。でももうその面影は頼りなく、私には彼の声すら思い出せなかった。



 小さな村に必要のないものは存在しない。宿屋も同じで、だから私たちは修道院に身を寄せることになった。これまでこの地を訪れた旅人もそうしてきたのだそうだ。

「……明日も早い、眠った方がいい」

 修道院には相部屋しか空いていなかった。そもそも女が旅に出る方が珍しい。それに見知らぬ土地だ。一人ぼっち、知らない天井を眺めているよりはずっと健全だった。例えそれが気まずさを覚える人が相手だったとしても。それでも私は今ここに彼がいてくれてよかったと思った。……思って、『彼』に感謝した。
 暖炉には火が入っていた。それをじいっと見つめていた私は、声をかけられてようやく独歩さんがすぐ側まで来ていたのを知った。
 彼はベッドに座る私とは違い、立ったままだった。そして視線を合わせることもしなかった。彼は私が視線をやると目を逸らし、唇を引き結んだ。
 その強張った頬。膚の上を、仄かな火が舐めていた。ちらちらと揺れ、照る光。代わりに落ちる影は濃く、深く。私はあの日、別れの日の『彼』を思い出していた。

「……私、一二三さんに酷いことをしたわ」

 懺悔は、自然口から零れ出ていた。
 私はまた暖炉の火を眺めた。そうしながら、彼の輝く金の髪や小鳥の囀りのような声や熱を持った指先のことを思い出していた。最後に見た、慈しみに満ちた微笑を。そんな彼を傷つけたことを改めて思い出し、私はまた己の罪深さに身を震わした。

「愛がこんなにも誰かを傷つけるなんて思わなかった。……愛し、愛されれば幸せになれると思ってた」

 私は──たぶんずっと昔から──愛されたかった。父や母が神様を愛するように、私も愛されたかった。神様を愛すれば私のことも愛してくれると思った。そうだ、すべてはそんな身勝手な欲望から始まっていたんだ。
 だから当たり前のように私はみんなを愛した。愛することに支障はなかった。愛に際限はなく、並列したとしてなんの問題もなかった。

 ──一二三さんに会うまでは。

 私は彼を──本当に、心から──愛しいと思った。彼の望みなら叶えたかった。この身を捧げることも厭わしくなかった。
 でも私は選んでしまった。姿も声も朧気な『彼』を。追い求めることは既に本能で、私が私である証のように思われた。

 ──でも結果として私は一二三さんを傷つけたのだ。

「……そんなの、当たり前のことだろ」

 ぎぃ、と床が軋む。距離を詰める音。それから、彼がベッドに腰かける音。
 彼は一人分の空白を開けて私の隣に座った。でも視線は宙へ。もしくは炉の炎へ。見つめる横顔は静謐で、私もまた小さな灯りを見つめた。

「所詮俺たちは人間なんだ。……神のようにはいかないさ」

 それに、と続ける彼の口許に浮かぶのは笑み。自嘲か、或いはそれに似た何か。笑って、彼は「俺も悪かった」なんて呟いた。

「一二三のことはよくわかってるのに、……こうなるのは想像がついたのに。俺は……いや、やっぱりこれも全部俺が悪いんだ」

「……それは飛躍しすぎじゃないですか?」

「そんなことない、一二三に関することは大体俺の責任なんだ」

 断言する独歩さんの目は力強く、自分の言葉を心底疑っていないのはあまりに明白。私は驚いて──可笑しくて──思わず笑ってしまった。

「なんですか、それ」

「……そういうものなんだよ」

 私たちは顔を見合わせて笑った。私は肩を震わして。独歩さんは口許だけで控えめに。今度は濁りなく笑ってから、「それに、」と息をつく。

「一二三はそんなヤワじゃない」

「……うん、」

 彼が明確な慰めを言葉にすることはなかった。大丈夫だとも気にするなとも。言うことはなかったけれど、それが私への気遣いに溢れているのはわかった。
 不器用に笑う彼に、その言葉に──私は救われたのだ。

「さあ、満足したなら早く眠れ。ここらは治安もよくない。いざって時に動けないと困る」

「あら、あなたが守ってくださるんじゃなくて?」

「やめろ、これ以上俺に責任を負わせないでくれ……」

 風に煽られた鎧戸がカタカタと鳴る。それ以外は宵に沈み、侘しさが膚を刺す。
 でも不思議と寒さは感じなかった。寂しさも、悲しみも──不安も。独りでないことが私にとってこの上ない救いだった。