生存IF友情√【後日談】


 帰宅の時間と重なった駅は人の波で溢れていた。そんな中をブチャラティは迷いのない足取りで歩く。……私の手をしっかりと握ったまま。
 それがいやに気恥ずかしく感じられるのはきっと私だけ。ブチャラティは冷静で、気にする素振りは微塵もない。自然体で、顔を上げるのもままならない私とは大違い。さっきまでのは都合のいい夢だったんじゃないかしらって思う。
 わかってはいたけれど、でもやっぱり私と彼の間には温度差がある。惚れた方が負けっていうのはまさにその通り。……別にいいんだけどね。

「すっかり遅くなってしまったな。やはり今から行くのはご迷惑だろうか?……おい、名前?」

「えっ?」

 そんなことをぐるぐると考えていたものだから反応に遅れる。
 視線を上げると怪訝そうな顔のブチャラティと目が合った。「どうした?」具合でも悪いのかって心配してくれる彼は本当に優しいひと。

「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしちゃったみたい」

 申し訳なさに慌てて否定するけど、ときめきまでは抑えられない。好きだなぁって思うし、思慮深い眼差しだとか心地いい高さの声だとかに心惹かれてしまう。

「ええっと、もう一回いいかしら」

 「構わないよ」と彼は微笑む。その柔らかさ、温かさといったら!ブチャラティは私をじっと見つめたまま、ゆっくりと口を開く。

「お前の家族は東京に住んでいるんだろう?さすがに今から行くのは迷惑になるんじゃあないかと思ってな」

「家族?私の?」

「ああ、挨拶はしなくっちゃあならないだろう?」

 それはイタリアへの帰国を家族に伝えるため、ということだろうか。
 今回私が実家を飛び出したのは両親に結婚を勧められたからだ。それで私は反抗期の子供のように駄々をこね、遥か杜王町まで逃げてきた。この町を選んだのはここにホリィさんの弟がいると聞いていたからだ。ついでに一目見ておこうと考え、そして思った以上の居心地のよさにずるずると滞在を延ばしてきた。
 そんなだったから家族に一言報告をするのは当然だし、小言を言われるのも受け入れなければならないことだ。勝手ばかり繰り返してきた身としては逆らう道はない。わかっている。わかっているけれど、でも気乗りしないのもまた事実。
 それにブチャラティにそんな醜態を見せるのは気が引ける。恥ずかしいし、万が一にも失望なんかされた日には一生立ち直れない。
 だから私は「そうね」と頷きながら、さてどうしたものかと頭を働かせた。

「でも、そのう……別に今すぐじゃなくてもいいんじゃないかしら」

「だが時間がない。あんまりこっちにいるとオレがジョルノに怒られちまう。今回の休みだって無理矢理もぎ取ってきたようなもんだからな」

「そっ、それならあなただけ先に帰るといいわ!挨拶なんて私ひとりで十分よ、これは私の問題だし……」

 ブチャラティは困った様子で眉を下げたが、私はこれ幸いとばかりに手を叩く。
 ブチャラティは帰国を急いでいる。対して私は自由気ままな身の上。ならばこの提案が自然で、最善の道であろう。
 そう考えた私はこれで話は終わりだと思っていた。だって実際そうだろう。これは私の問題、私と両親の話で、関わり合いがあるのはブチャラティよりむしろ承太郎の方だ。幼馴染みの結婚なんかに口を挟んだ彼にはまた後日伝えればいい。謝罪とそれから今後のことを、ゆっくりと。
 でもブチャラティは「なに言ってんだ」と一転して厳しい表情。私の肩をがしりと掴み、ぐいっと顔を近づける。

「お前だけの問題なんかじゃないだろう?これはオレたちの問題だ。オレと名前、二人の今後について。……ちゃんと、お前の家族に伝えなくっちゃあならない」

 鼻先が触れ合うほどの距離。吐息が唇を掠め、瞳には吸い込まれてしまいそう。
 でも私の頭が真っ白になったのはそのためばかりではない。間近に迫った精悍でありながら端正でもある絶妙な顔立ちもまた私の心を乱したけれど、それだけだったならこれほどの驚きはなかった。
 そう、私は驚いているのだ。言葉が浮かばないのも、呆然と彼を見上げるしかないのも、全部全部驚きのため。
 彼は何を言っているのかしら?驚きに呑まれた私が言う。ブチャラティは何を言っているの?難しい言い回しなわけでも私の知らない言語を操っているわけでもない。なのにさっぱりわからない。
 彼は『オレたちの問題だ』と言った。オレたち、オレと名前──ブチャラティと私。私たちの間に問題が横たわっていただろうか。それも今後について?そんなのあり得ない。
 だってつい先程までそんなものは存在しなかった。私たちの道は分かたれ、交わることはもう二度とないと覚悟していた。
 でも違った。ブチャラティは私を追いかけてきてくれた。勝手をした私を、彼を傷つけたいとだけ願った私を。こんな私を赦して、──好きだと、言ってくれた。
 言ってくれたから、私たちには未来が生まれたのだ。

「……え?え?」

 我に返り、意識を取り戻す。ブチャラティ、彼は相変わらず私をじいっと見つめていた。真剣な眼差しで、真摯に、ひた向きに。見つめてくる瞳にはタクシーの中で見た熱が宿っていて、私はまた都合のいい夢を見てしまう。

「まさか、その、それって……」

 私は口ごもった。……頬が燃えるようだ。熱くて目眩がしそう。急速に世界は狭まり、私にはもう辺りを行き交う人の存在なんて遥か彼岸の彼方。私にはブチャラティしか見えなくて、彼のことしか考えられなかった。

「私、私……これが勘違いだったらすっごく恥ずかしいし、きっと立ち直れないから確認しておきたいんだけど、」

「ん?」

「その、……あなたが私の家族に伝えたいことって、」

「ああ、」

 ブチャラティは『なんだそんなこと』とでも言いたげだった。なんてことない、そんな顔のまま。

「決まっているだろう。結婚の許しをもらいに行くんだ」

 さらりと紡がれた言葉はその軽やかさに反して名前にとてつもない衝撃を齎した。頭を鈍器で殴られた、心臓を鋭いもので一突きされた、そんな感覚だった。

「結婚……」

 目眩がした。今度こそ本当に。
 よろめく体をブチャラティが支えてくれる。でもその腕がいやに熱く感じられて、私は弾かれたように距離を取った。

「そ、そんな急に……?」

「急じゃないだろ。だってオレたちはフィダンザーティってことなんだからな」

 まさか彼の口から婚約者同士などという言葉を聞く日が来ようとは。
 動揺のあまりそんなことをぼんやりと考えてしまう。それから私は彼が南イタリアの男だというのを今さらながら思い出していた。
 昔ながらの考えが未だ色濃く残るイタリア南部、そこで生まれ育った彼にとってこれはごく自然の発想だったのかもしれない。夜に男女が二人きり、過ごしたその時点で婚約者となってしまう。そういった例を聞いたことはあったけれど、でも私には関係のない話だと思っていた。思っていたからすぐには思い至らなかった。

「まさか、……嫌なのか?」

「ううん、そんなこと!」

 嫌なのか、と問うブチャラティはなんだか少し怖い。一段低くなった声は怒っているみたいで、私の背中を冷たいものが落ちる。彼を傷つけてしまったんじゃないかって、それが怖くて、私は彼の手を取った。

「嬉しいわ、そんな真剣に考えててくれたなんて」

「……真剣に決まってるだろ」

 ふ、と彼は呆れたように息を吐く。空いている方の手が私の頬を撫でてくるのが擽ったい。擽ったいけれど、心地がいい。彼の与えてくれるもの、そのすべてに心が満たされる。……好きになってよかったって思ってしまう。前よりもずっと強く、深く。

「それからお前の幼馴染みにも会っておかないとな。後は……あぁ、さっきお前が言ってた友達にも」

「え、そこまではしなくていいんじゃないかしら……?」

「だが……」

「そっ、それよりっ!うちに行くなら早くしましょ!遅くになっても連絡しておけば平気だと思うから……」

「そうか?」

 ブチャラティはまだなんだか納得していないみたいだった。「一言言っておきたいんだが」なんて未練がましく呟いている。

 ──いったい何がそんなに気にかかるのか、何を言おうとしているのか。

 しかしそれを聞く時間はない。彼の気が変わってしまう前に、と私はブチャラティの手を握り止まっていた足を進めた。今度は私の方が手を引く格好だ。

「あぁでも、結婚式に呼べばいいのか」

 名案だ、と明るい声が降ってくるけど私は答えない。振り返ることも、顔を上げることも。……遅れてやってきた喜びと気恥ずかしさでそれどころではなかったから。
 私はともすると緩んでしまう口角を抑えるので必死だった。
 私はブチャラティの傷になりたかった。彼の記憶の片隅でいいから残っていたかった。その心の一片だけでも私のものにできたならそれで十分だと言い聞かせてきた。

 なのに、あぁ、こんな幸せを知ってしまったら──もう二度とそんなこと嘘でも言えそうにない。

「あぁ、もうっ、……」

「ん?なんだって?」

 いつかの日みたいに聞き返してくるブチャラティに私は振り返る。そしていつかの日よりもはっきりと、そして自然な笑顔で私は愛を紡ぐ。

「好きよ、ブチャラティ。あなたのことが好き。そう言ったの!」

 あの日はそう言うだけだった。それを伝えるだけで終わった。ブチャラティはわけがわからないって顔でいたし、返事なんかなかった。最初から期待していなかった。

 ──けれど。

「……あぁ、オレもだ。名前、お前が好きだよ」

 ブチャラティは微笑んだ。優しく目を細め、ナポリ湾よりも深い色をした瞳には愛情の熱が灯っていた。そして私はそんな彼と共にイタリアへ帰るのだ。今度は二人で、あの時とは違った関係で。晴れやかな気持ちで石畳の街に帰ることを思うと胸が弾んだ。

 ──あぁ、早くあの愛おしい街に帰りたい。