生存IF友情√【原作後X】


 ──彼女の姿を認めた時、胸に迫ったのは深い郷愁の念だった。

 だからすべてがあっという間だった。タクシーを止めさせたのも、彼女の前に躍り出たのも。

「ブチャラティ……ッ!?」

 名前は目を見開いていた。驚きだけが彼女の中にあった。……それでも、構わなかった。彼女の声が、眼差しが、──今目の前にあるだけで他の何もかもがどうだってよかった。例えそれが驚きに支配されたものでも、目の前に彼女がいる、ただそれだけで。

「どうしてあなたがここに、」

「その話はあとだ」

 制止し、名前の腕を掴む。その手首の細さに改めて驚かされたが、内心で首を振り慌てて打ち消す。……今はそんなことを考えている場合ではない。
 名前の手を引いて、タクシーに乗り込む。名前は何も言わなかった。いや、言えなかったというべきか。ともかくオレにとっては都合がよかった。
 そのまま運転手に「適当に走らせてくれ」と伝える。運転手は怪訝そうにミラーを見たが、言われた通りに発進させた。それもまた好都合。そこでやっと息を吐き、オレは座席に凭れ込んだ。

「…………、」

 車内にはエンジン音だけが微かに響いていた。あとは沈黙。それはどこかよそよそしく、他人行儀。互いに互いの様子を窺っていた。

「……あの、……元気?」

 最初に口を開いたのは名前だった。彼女はぎこちない笑みを浮かべてオレを見た。
 上向いた目。揺れる瞳は黄昏時に染まっていた。沈みゆく太陽の色。濡れているように見えるのは、降りてくる露のせいだろうか。……わからない、名前が今、何を思っているのか。わからないことがこんなにも悲しいのだとオレは初めて知った。
 だから正直に「いや、」と否定の語を用いた。

「このところはずっと……何もかもが上手くいかない。初めてだ、こんなのは」

 苦笑するのはそうなるまで気づきもしなかった己のため。ジョルノに指摘され、背中を押されるまでは……考えないようにしてきた。それが名前のためだと思った。彼女のためであると言い聞かせ、──向き合うことから逃げていたのだ。

「名前、」

 手はまだ掴んだままだった。……離しがたかった。離したら、その瞬間にすべてが終わる。そんな予感がした。

「お前がいなくなってからだ。お前がいない、それだけでこんなにも……オレはダメになっちまう」

 真っ直ぐに見つめ、言い切った。
 情けない告白だった。でもそれ以外の言葉は見つからなかった。あるのは焦燥で、喪失の予感だった。思考する暇はなかった。飾り立てる言葉も表情もなく、オレは名前の手を握った。

「……そんなことないよ」

 それを、名前は優しい手つきで退けた。名前は伏し目がちに答え、しかしすぐに顔を上げた。顔を上げ、──微笑んだ。

「きっとそれは今だけ。寂しいって思ってくれるのは、……嬉しいけど。でもすぐに忘れられるわ」

 完璧な微笑だった。一分の隙もなかった。反論を封じる空気さえあった。……鈍器で殴られたような気分だった。
 名前は視線を巡らした。「車を止めて。ここで降りるわ」有無を言わさぬ語調。名前はもうオレを見てはいなかった。

「ダメだ!」

 このままでは彼女が行ってしまう──そう思った時にはもうオレの手は彼女を引き留めていた。荒げた声に名前が瞠目するのも気づかず。咄嗟に引き留め──

「……ダメなんだ、お前がいてくれないと、オレは……」

 心のうちを吐き出した。
 それはほとんど啜り泣くようだった。震える声はそれほどに頼りなく、視界には彼女しか映っていなかった。名前が何らかの反応を示すのをじっと見つめた。
 名前は最初驚いていた。でもすぐにその目尻は困ったように緩み、「だから、」と彼女は小さく首を振った。

「だからそれは勘違い。流されてるだけ、……優しいだけなのよ」

 彼女の眼差しは慈愛のそれだった。愛情深く、……けれどどこか他人事。名前はオレとの間に深い隔たりを構えていた。オレのことを優しく突き放していた。それは彼女の目を見ればよくわかることだった。

「最後に私が言ったこと……、気にしてるんでしょう?ならいいわ、忘れてくれて」

「忘れるなと言ったのはお前じゃないか」

「じゃあ撤回する」

 名前は再度オレの手をそっと離した。そしてその手を己の両の手で包み込み、聖母の如き微笑みを浮かべた。それも赤子の息子を見守る聖母のそれ。コレッジョの筆致によるものとよく似ていた。

「忘れてくれていいよ、それであなたが幸せになれるなら。私はそれが一番いい」

 けれどその柔らかさが今は痛かった。欲のない目に悲しみが積もった。そして同じだけ自分のことを責めた。彼女をそうしたのは他ならぬ自分だ。

「オレの幸せは……名前、お前が帰ってきてくれることだ」

  けれどそう理解していても──諦められきれなかった。他の誰かにその微笑みが向けられる、その想像だけで気が狂いそうだった。

「……それは、無理だよ」

 しかし名前は頑なだった。彼女はまた困った風に眉を下げた。

「酷いなぁ……。私はあなたのことが好きなのよ?なのに、それなのに着いてこいだなんて……できるわけない」

「オレだってお前のことが好きだ」

 ──言ってから、ハッとする。
 名前はぱちりと目を瞬かせた。それから真意を探るようにまじまじとオレを見た。その視線を受け止めながら、オレは取り繕うように咳払いをした。
 そしてもう一度名前を見つめ──

「好きだ、名前。だからオレと共に来てほしい」

 一語一語、噛み締めるように言った。彼女が去ってから今まで、心に積もるばかりの感情。それらすべてが伝わるようにと祈りながら。眼差しを強め、名前を見つめた。
 暫しの沈黙があった。車はとうに駅前の通りを過ぎ、今は閑静な住宅街を走っていた。
 オレはこの街で生きる名前のことを思った。自分が来るまでの日々を。そしてその後のことを。この街で生き、死んでいく名前のことを思った。
 それでもきっと彼女は幸せだろう。オレには容易に想像がついた。彼女ならどこでだって生きていける。そう、ネアポリスじゃなくたって。……自分の隣じゃなくたって。名前なら誰とだって幸せになれるのだとオレはとうに理解していた。

「……それ、ちゃんと意味わかってる?」

 静寂を破る声はとても凪いだものだった。

「ねぇ、じゃあ今……今ここで私にキスできる?」

 名前はオレを見上げた。とても静かな目で。激情などとはほど遠いところから彼女は囁いた。囁いて、笑った。……ひどく自虐的に。

「私の言う好きってそういうことよ。博愛的な……そんな美しいものじゃない。それでも私に帰れと言うの?」

「……あぁ」

「……私、重いよ?嫉妬深いし束縛強いし、たぶんすっごく面倒な女だと思う。……それでも?」

「あぁ、……オレは、名前じゃなきゃダメだ」

 名前は言い募った。自分がいかに相応しくないのかを淡々と口にした。
 しかしそのすべてをオレは受け入れた。受け入れ、肯定した。ただそれだけだった。

「……酷いなぁ」

 それだけで、名前はくしゃりと顔を歪めた。泣き出しそうに、自分を嘲るように。眉間に皺を寄せ、唇を噛み締め、吐息を震わした。

「やっと諦められたと思ったのに。全部台無し」

 それは降参の意だった。彼女はだらりと腕を落とし、オレの胸に寄りかかった。
 彼女の溜め息がオレには感じ取れた。その心臓が打つ鼓動も、熱も。何もかもが今は腕の中にあった。……その事実に、目眩がした。

「すまなかった。色々と……遅くなって」

「……うん、」

 名前が小さく頷くのが気配でわかった。今の彼女はきっと『仕方ないなぁ』と言いたげな顔をしているのだろう。

「でもいいよ、……そう言うしかないじゃない。だってあなたが……他でもないあなたが言ってくれたんだもの。私には許すしかできないわ」

「名前……」

 それでも笑いながら受け入れてくれるのが名前という人だった。
 オレは彼女の身を起こした。
 落日の輝きが名前の頬を燃やしていた。薔薇色の唇は深みを増し、神秘的な色合いをしていた。顔に落ちる影は濃く、──そして深い色をした瞳は吸い込まれそうなほどだった。

「……いま、」

 唇を離すと、見開かれた目とぶつかった。最初にオレを認めた時と同じか、それ以上の驚きがそこには横たわっていた。
 けれど今、オレの胸にかつての焦燥はなかった。急く思いはなく、名前のそんな些細な反応にすら愛おしさが募った。

「どうして?」

「そういう『好き』だって言っただろう?それとも嫌……だったのか?」

 微かな不安を滲ませると、名前はゆるりと首を振った。

「ちがう、けど……、……あなたがするとは思わなかった」

 ──『そういうの』とは無縁の人だと思ってた。
 名前の呟きに、オレは思わず笑った。……確かに。確かに彼女の言う通りだ。これまではそんなこと考えてこなかった。考える余裕がなかった。考える資格などないと思っていた。

「オレだってそうしたいと思う。オレのもそういう『好き』だからな」

 でもそれももう終わりだ。オレはどこか晴れ晴れとした思いでもう一度名前の唇に触れた。二度目もまた軽やかなものであったけれど、途方もない温かさが胸の内には溢れた。

 ──たぶんこれが幸福感というものなのだろう。

「みんなに謝らなくちゃ。両親にも、承太郎にも……あと仗助くんたちにも」

「誰だそれは」

「承太郎の叔父さん。今度遊ぶ約束してたから……」

「それならよかった。オレはちょうどいいタイミングで邪魔することができたんだな」

 本気で言ったのに、名前は冗談とでも思ったらしい。

「あなたがそんなこと言うなんて」

 くすくすと笑うのに思うところがないわけではない。言いたいこともまだ沢山ある。まずはそう……危機感を持てと言うところからだろうか。

「知らなかったのか?イタリア男は嫉妬深いんだ」

 けれど今は──止めておこう。
 久方ぶりに見た名前の笑顔に、オレも頬を緩める。
 止まっていたはずの心臓。それも今は穏やかに脈打っている。名前に告白されたあの日、脳を揺さぶられたあの時から。焦燥や切なさ、痛みの果てに、今は甘やかに高鳴っていた。
 そしてそれが名前の鼓動と重なることに深い喜びを覚えた。幸福とはこういうことだとオレは思った。