お気に召すまま


 備え付けの電話が鳴った時、一番に飛びついたのは名前だった。

「はい、……はい。ああ、よかった!」

 電話はホテルのフロントから回されたものだった。そして電話の主は先刻警察によって連行されていったポルナレフである。SPW財団の力により解放された彼がいの一番に1212号室、ジョセフたちの部屋まで電話をかけてくれたのだ。

 ──もう心配はない、今からホテルに戻る。

 その旨を聞き、名前は安堵に涙ぐむ。
 SPW財団を信じていなかったわけじゃない。大丈夫だと言うジョセフを疑ったわけでもない。
 でも、それでも不安だった。こうして無事を本人から知らされるまで名前の頭からは『もしも』がこびりついて離れなかった。もしもこのままポルナレフが捕まってしまったら──彼はひとりで戦ってくれたというのに──どうすればいいのだろう、と。
 そんな不安に駆られていたから、電話に応じる声も自然と弾んだものとなる。それは受話器を置いた後も変わらず、名前は笑顔で「ポルナレフ、もうすぐ帰ってくるって!」とジョセフとアヴドゥルに告げた。

「私、承太郎たちにも伝えてきます!」

 ジョセフは「そこまでせんでも」と笑うが、居てもたってもいられなかった。
 名前は部屋を飛び出した。承太郎、花京院、アンはほんの少し前に部屋を出たところ。今ならまだ間に合うんじゃないかと思ったがために、エレベーターが来るのを待つのすら惜しんで名前は階段を駆け下りる。

 ──けれど。

「あれ?花京院くんだけ?」

 一階、フロントの前。ロビーラウンジにいるのは花京院だけ。辺りをきょろきょろと見回しても残り二人の姿は見つからない。ソファに座り、所在なさげに新聞を広げる花京院しかロビーにはいなかった。
 歩み寄ると、彼は「あぁ、」と顔を上げる。そこに浮かぶのはどこか困った風な表情。新聞を折り畳み、「実は」と口を開く。

「トイレから戻ったら二人ともいなかったんです。それでここで待っていたんですが……置いていかれたのかな」

「まぁ!」

 彼の隣に腰を下ろした名前は花京院の言葉に目を見開く。飛び出たのは大袈裟なほどの驚き。次いでその目に浮かぶのは非難の色。もちろん花京院に向けてじゃない。薄情な幼馴染みに対してだ。

「承太郎ったらなに考えてるのかしら……いやね、ごめんなさい」

「いえ、いいんです。それにぼくがお邪魔だったのかもしれないし」

「え?」

 最初彼が何を言っているのかよくわからなかった。だから名前はポカンと口を開き、瞬きを数度。花京院の言った言葉を咀嚼し、幾らかの時間をおいてからその意味を理解した。

「あ、あー…、そうね、そういうことね」

 なるほど、ようやくわかった。名前にはすっかり縁遠い話ではあるが、承太郎の周りでは常日頃から盛んに取り沙汰されている事柄──色恋について。それが今、二人の間に芽生えようとしているということなのだ。
 いや、正確に言うなら承太郎に関してはどうかはわからない。が、少なくともアンについてなら名前にも心当たりがある。彼女の挙げた理想の男性像。思い返してみればそれは正しく承太郎を指し示しているし、アンには承太郎との関係性を訊ねられもした。
 ということは、すなわち──

「承太郎ったら罪な男ねぇ……」

 この短期間であんないたいけな少女の心を奪ってしまうとは。
 深い溜め息を吐くと、花京院は笑った。仕方ない、と。
 それにしても彼はいつそのことに気づいたのだろう?アンと親しくしている様子はなかったのに、と考え、名前は内心で感心した。気立てのいい人、気配りのできる人とは思っていたけれど、彼は他人のことを本当によく見ている。そのことを改めて実感し、心の中で賛辞の言葉を並べた。
 そんな彼は名前が思考している間に店員を呼び、「何か飲みますか?」と訊ねてくる。走ってここまで来たものだからちょうど喉が渇いていた。そんな名前は『本当に気が利くなぁ』と感嘆してしまう。

「花京院くんは?」

「ぼくは……そうだな、サワーソップジュースをひとつ」

「じゃあ私も同じのを」

 去っていく背中を眺め、それから名前は「でも、」と話を戻す。

「黙っていなくならなくてもいいでしょう?一言言ってくれれば……ねぇ?」

 つい責めるような語調になってしまったのには名前自身少しだけ驚いた。怒っているわけでも苛立っているわけでもない。理解も納得もしている。しているけれど、なんだかもやもやとしたものが胸中で引っ掛かっている。そんな気がしてならなかった。
 自分でもそう思うくらいだ。きっと花京院だって意外に思ったろう。事実彼がすぐに返事をすることはなかった。僅かに目を見開き、名前を見つめた。気まずさから目を泳がす名前を。

「もしかして……妬いてるんですか?」

 店員が戻ってくる。二つのグラスが名前と花京院にそれぞれ配られる。氷がカランと涼やかな音を立てる。心地のよい静寂が辺りを取り巻いている。
 そんな中で花京院は問いかけた。紫水晶の眸が名前を射抜いた。言葉は矢のように名前の耳朶を貫いた。他の何もかもが遠退き、白々とした霞の中に消えていった。
 花京院の言葉は名前の脳内で反芻された。繰り返し繰り返し響き渡り、名前と相対することを望んだ。
 名前は考え込んだ。「そう、なのかしら」乾いた唇を湿らし、呟く。曖昧に揺らぐ声。でもだからこそ真実のように思えた。それこそが真実なのではないかと思った。

「私……」

 思った。途端に思考が、視界が、冴え渡る。

「私、承太郎の妹になりたかったのかしら?」

 脳裏に描くのは二人の姿。素直に承太郎を慕うアンと、めんどくさそうな顔をしながらも決して突き放すことはない承太郎。二人の姿は正しく兄妹のように思われた。だから、つまり名前のこの不満も──そういうことなのだろう。
 でも花京院は目を瞬かせた。首を捻り、しかしそれから「確かにジョジョがお兄さんだったら退屈しないでしょうね」と笑みを刷いた。

「それはその通りよ。毎日刺激的だわ、きっと」

 彼の言葉に勢い込んで答える。得られた同意が嬉しかった。想像は色鮮やかで、名前の唇にも笑みが浮かぶ。

「でも花京院くんとでもきっとすっごく楽しかったと思うわ」

「そしたらぼくは弟ですか?」

「弟……って感じはしないかなぁ。花京院くん、大人っぽいし」

 名前は半ば忘れかけていたグラスを手に取った。ミルクのような色合い、白くとろりとしたそれはひどく甘ったるく見える。
 でも舌の上に広がるのは甘味だけでなく、心地のいい酸味も一緒だった。
 爽やかな甘みと柑橘系の酸っぱさ。「美味しい」夏にはぴったりの味だ、と思わず呟く。
 サワーソップを味わうのは初めての経験だが、花京院に従って正解だった。彼が頼まなければ名前もこれを選ぶことはなかったろう。新鮮な喜びを与えてくれる彼はやっぱり弟という感じがしない。それ以上にずっと頼りになる人だ。

「じゃあぼくの妹になってみます?」

「あはは、それもいいね」

 冗談めかして言うのに釣られて名前も声を立てて笑った。
 「でも、」名前はグラスを置いて視線を宙に投げる。確かに花京院のことは尊敬している。尊敬しているけれど、でも兄とも弟とも違う気がする。そんな気がして、名前は難しい顔をした。

「うーん、もっと相応しいのがある気がするんだけど……」

 そう言うと、花京院は自分のグラスに伸ばしかけていた手を止める。
 「それは、」何事か。言いかけ、でも花京院はそこで言葉を呑み込んだ。僅かな逡巡。躊躇いに、名前は「花京院くん?」と首を傾げる。

「……いえ、なんでもないです」

 でも花京院は静かに笑っただけだった。静かに笑って、グラスを傾けた。
 そうしているとなんてことないジュースであっても高級品のように思えるから不思議だ。洗練されている、所作のひとつ取っても流れるようで名前は羨望の眼差しを向けた。
 それから、「……そうだ!」と手を叩く。いいことを思いついた。そうにんまりと笑う名前に、花京院は怪訝そうな顔。でも名前は気にしない。気にせず、彼の前に手を差し伸べる。

「暇してるなら私に付き合ってほしいな」

 そう言って。

「これからポルナレフが戻ってくるっていうの。だから何か美味しいものでも買っておいてあげようかなって」

「なるほど。つまるところ観光ですね」

「まぁ有り体に言えばそういうことね」

 納得に顎を引く。そんな花京院に、名前は「それで?お付き合いいただけるのかしら」と答えを求める。

「ええもちろん、喜んで」

 彼はグラスの中身を飲み干して、そうしてから名前の手を取った。その微笑に、僅かにあった緊張がほどける。
 名前はホッとして笑みを深めた。

 ──やっぱり彼は幼馴染みとは違う。

 幼馴染みには感じなかった緊張感。期待と不安は心臓に悪いけれど、でもだからって嫌な感じはしなかった。ドキドキが心地よくて、その新鮮な痛みがなんだか愛おしく感じられた。