『悪魔』


 ホテルで今一番したいことといったらそりゃあ温かくて柔らかなベッドで眠ることだろう。でもそれより先にやるべきことがあった。……シャワーを浴びることである。潮風を浴びた体はべたりと汗ばみ、不快極まりない。ということで名前とアンはじゃんけんをすることにした。そして勝利した名前は一足お先にとシャワー室へと向かったのだった。
 けれど。

「え?承太郎が?」

「うん、それと花京院さんも一緒に。しばらく部屋から出るな、誰か訪ねてきても開けるなってさ」

 名前が呑気にシャワーを浴びている間に何事かが起こったらしい。そうとしか思えない。じゃなきゃあの承太郎が花京院を伴ってわざわざこの部屋に声をかけていくなんてあり得ない。それも注意を促すようなその台詞。危険が迫っているのだということはさすがの名前にだってわかった。

「その二人だけ?あとの三人は?」

「さぁ?」

 慌てて身支度を整えながら名前は考える。
 承太郎と花京院はこの1010号室を訪ねた後どこに向かったろう?元の部屋に戻ったか、それとも他の三人のところを回ったか。既に全員集まっているなら承太郎が声をかける役割を負うとは思えない。そういうのはジョセフのやることだ。だから少なくともその時点では承太郎、花京院はジョセフ、アヴドゥルと合流していない。となるとやはり承太郎たちは残るメンバーの元へ向かったのだろうか?
 それにしては余裕がある。危険を察知したということは襲撃があったということ。でも承太郎たちにはこの部屋に声をかける時間があった。いったいどういうことか。もしや敵スタンド使いを取り逃がしてしまったのか。そうなるとこの部屋にいたって危ないんじゃないだろうか。
 名前は思い悩みながらアンを見た。彼女は「どうしたの?」と不思議そうに首を傾げる。

 ──その眼差しの純粋なことといったら!

 名前は『力』のスタンド使いのことを思い出した。あの『エテ公』ときたら、こんないたいけな少女に下卑た目を向けただけでなく、その凶器じみた手で触れようとしてきたのだ。あの時は間一髪承太郎が助けてくれたが、二度目があるかはわからない。
 それを思えば承太郎の言いつけに従った方がいいのかもしれない。でも状況がわからないというのは不安がつきまとう。このままアンをひとりシャワー室に行かせてもいいものか。もしも密室に入り込めるスタンドがいたなら──名前には彼女を守る術がない。

「と、とりあえず……電話!まずは電話してみましょ。内線通じたはずよね、確か」

 名案だ。というか何で今まで思いつかなかったのか。悩んでたのがバカみたいだ。名前は手を叩き、急いで受話器を取った。
 確かポルナレフは912号室だった。この中なら承太郎の部屋の次にここから一番近い。それでもし出なかったらその後でジョセフに電話しよう。たぶんみんな集まっているなら彼の部屋だ。
 名前は素早くボタンを押し、耳を澄ませた。

「……?変ね、全然出ないわ」

 というより話し中の状態だ。何度かけ直してもそれは変わらない。それが自宅の電話ならまだわかる。でもここはシンガポールのホテルだ。フロントにかけるとしてもそんな長電話にはならないだろう。
 とすると受話器が上がったままになっているか──それどころではなくなっているのか。
 もしも、と名前は思う。もしも、ポルナレフが最初に襲撃を受けたなら?その連絡を受けた承太郎がこちらに危険を知らせに来てくれたのだとしたら?……その可能性は十分にある。
 だとしたらポルナレフはまだ戦闘中なのではないだろうか?それとも負傷して電話に出られない状況なのか。
 前者なら名前が行っても邪魔になるだけだ。ポルナレフは名前よりも余程訓練されたスタンド使いで、戦いにおいてなら名前は彼に対して深い信頼を置いていた。しかし後者なら──名前は彼の元に向かわなければならないだろう。

「……私、ポルナレフのところに行ってみるわ」

 数度かけ直した後、名前はアンを見つめた。見つめて、「あなたはどうする?」と訊ねた。

「あなたをひとりにはできないわ、だから一度承太郎たちの部屋に……」

「平気だよ!」

 しかしその提案を退けたのは他でもないアン自身だった。
 先の戦いで狙われた身であるにも関わらず、彼女は気丈にも朗らかに笑ってみせた。「大丈夫、結構走りには自信あるんだ」そう言って、任せろと胸を叩く。

「それに名前が危ない時あたしがジョジョを呼びに行けばいいんじゃない?ね?名案でしょ?」

 その姿のなんと頼りがいのあること、頼もしいこと!いたいけな少女、と先程は表現したが、認識を改めなくてはならないらしい。元より彼女は密航少女。名前より余程肝が据わっていて当然なのだが、そんなこともすっかり忘れていた。
 でもこの少女だって名前と同じ、守られるだけの存在じゃないのだ。そうでありたいと望んでいるのだ。

「絶対傍を離れないでね」

「わかってるよ、名前ひとりじゃ心配だもん」

「ううっ……否定できないのが悲しいわ……」

 歳上の威厳なんて露ほども残っていない。でも彼女のお陰で決意が固まったのも事実。ひとりじゃないというのはそれだけで心強いものだった。
 名前はアンの手を握った。アンも名前の手を握り返した。それだけで勇気が湧いてくるのだから人間っていうのは不思議な生き物だ。
 そうして名前たちは912号室を訪ね──そこであちこち傷だらけのポルナレフと鉢合わせした。

「なっ何事ッ!?」

 驚き声を上げかけるアンの口をポルナレフは「しぃーッ!」と塞いだ。

「騒ぎになったらマズイ、ほら、こっちだ」

 ポルナレフは「奥には入るなよ」と言った。名前たちを出入り口の近くにあった浴室へと追いやり、決してそれ以外の室内を見せようとはしなかった。
 でも名前は気づいてしまった。荒れたベッドルーム。ジュースやアルコールに混じって、鼻につく嫌な臭いがした。それは喧嘩したばっかりの承太郎と似ていて、しかしそれよりもずっと嫌な感覚だった。濃厚で、生々しかった。
 名前は『また誰かが亡くなったんだわ』と思った。見知らぬ誰か、何の罪もない人の首に大鎌が振り下ろされてしまった。それはとても悲しく、腹の奥が熱くなった。

「……大丈夫だ。敵はもう倒したからな、このおれが」

 知らぬ間に唇を噛んでいた。そんな名前を目敏く見つめ、ポルナレフはにぃっと口角を持ち上げた。なんてことない日常の最中のように。
 殊更明るく笑って、ポルナレフは名前の頭を撫でた。傷だらけの手で、赤色が未だ乾かぬ手で。ぐしゃりと撫でられ、名前は「うん、」と顎を引いた。煮えたぎる怒りがほんの少しだけ鎮まった。

「うへぇ、いったい何があったんだよ……。うわっくっさ!なにこれ?酒?」

「おいッ!こりゃ名誉の負傷ってもんだぜ。わかんねぇかなぁ」

 顔を顰めるアンに、ポルナレフは口を曲げる。そんな彼の前に膝をつき、名前はスタンドを発現させた。
 左足首、応急措置の施されたそこは肉が抉り取られていた。まともに見てしまったアンが「げぇっ」と吐く真似をするのも納得の痛々しい傷だ。それにまだ真新しい。
 だが負傷はそこだけではない。右足膝から足首にかけては深く長い切り傷がひとつ。右足の脹ら脛には何やら噛み跡らしきものがあるし、首筋にもかじりつかれた痕跡が残っている。えらく動物じみた傷跡だが、いったいどんなスタンドだったのだろう。

「そりゃあもうとんだド低俗野郎だったぜ。紳士のおれじゃあとても口では表せないね」

 ポルナレフは冗談めかして言うが、彼がここまでの傷を負ったのだ。生半な相手ではなかったに違いない。しかも彼のこの言い様。ド低俗という単語。余程下品な言動のスタンド使いだったとみえる。
 名前が思い出すのはやはり『力』のスタンド使いだった。あの欲に溢れた眼差しにもぞっとさせられたが、DIOの追っ手はそんな者ばかりなのだろうか。いや、花京院やポルナレフはそんなことなかったから、これらが特殊な事例なのだ。そう考えないと頭が痛くなってくる。世の中にこれ程野卑な輩が蔓延っているなんて想像もしていなかった。
 そう思うと、ポルナレフには感謝しかない。

「ありがとう、倒してくれて。もしも私たちのところに来てたらって考えると……あぁ、本当に助かったわ」

 その気持ちをそのままに伝えると、ポルナレフはぱちくりと目を瞬かせた。そしてすぐに破顔し、「よせやい」と鼻の下を擦る仕草をする。気分がいい時にするあれだ。治療して間もないというのにさっさと立ち上がり、しかも名前を肩に座らせる格好で持ち上げる。

「わっ、危ないわよ」

「へーきへーき。だって今のおれ、かなり機嫌いいからな」

 その上鼻歌まで歌い出す始末。アンが呆れた風に見ているのも気にしない。足取り軽く、「さて、ジョースターさんに報告に行くか」と歩を進める。
 名前は彼に担がれた格好のまま、兄がいたらこんな感じかしらと思った。ポルナレフはまさしく理想の兄、思い描いていた空想の中の世界と同じで、こんな時なのに名前は嬉しくなった。無理を言ってこの旅に同行させてもらえてよかった、そう思った。