ザ・シーズン


 涼しい夜風に打たれながら、名前はひとり、庭園へと続くバルコニーに出ていた。何せこれまでずっと踊り続けていたのだ。体を動かすのは好きだけれど、でもそれにしたって限度がある。──侯爵家の一人娘という肩書きがある今は、特に。
 名前は今年宮中での拝謁を済ませたばかりだった。つまりはこれが初めての社交の季節──『ザ・シーズン』というわけである。多くの独身貴族が名前の手を取りたがった。広大な所領エステイト 、上院議員の父、幾つかの馬場に委員やクラブの権利。そうしたものが自分や自分の息子に受け継がれるのだ。貴族の次男や三男にとっては理想的な結婚相手といえよう。
 名前は自分の価値というものを理解していた。理解しているからこそ、時々無性に空しくなった。

 どうして私は男に生まれなかったのかしら──?

「──こんなとこにいていいのか?レイディ・名字。信奉者たちが君のことを探してるぞ」

 物思いに耽っていたせいで反応に遅れる。

「……ミスター・ブランドー」

 振り返った先に立つ男は光を背負っていた。それは何も会場に灯された明かりのためだけではない。彼の繊細で、目映いほどのブロンドのお陰でもあった。
 ミスター・ブランドー──名門貴族に育てられた青年、ディエゴ・ブランドーは神話のように美しい男だった。社交界に顔を出すようになって以降、彼の名前を聞かない日はない。そのくらいに淑女の熱い視線と話題を一人で浚っていった。例えその出身が労働者階級であったとしても、地位と名誉を手にした今となってはその美貌もあって結婚を希望する女性も少なくなかった。
 尤も、爵位を持たない彼を成り上がり者と嫌煙する保守層も多いのだが。
 そんな彼は好青年然とした微笑を浮かべて名前に歩み寄った。

「よしてくれ、そんなよそよそしい呼び方。ディエゴでいい、これまでのように」

 彼は親しみやすい物言いをした。とても砕けた話し方だった。でも礼儀は欠かさなかった。気安く触れてくることもなかったし、他の男たちみたいに意味ありげな視線を向けてくることもなかった。素晴らしく感じのいい紳士だった。
 でも名前は軽い微笑みだけに留めた。淑女らしく、距離を取って。「ありがとう、ミスター・ブランドー」と。

「でもわたくし、皆様に話題を提供するつもりはないの」

 独身の貴族女性がひとりでいることなどあってはならないことだ。本来であるなら付添人シャペロンをそばに置くものである。殿方と──それも未婚の人と──二人きりで親密にしているなんて──ふしだらと呼ばれてもおかしくない。
 だから名前は距離を取った。半歩、然り気無く後ろへ下がり、辺りの様子を窺った。

「つれないな、子供の頃からの付き合いじゃないか」

「そうですわね、ええ、よいお友達でした」

「お友達だった、か……」

 会場では緩やかな音楽が流れていた。人々は言葉を交わしながらカドリールを踊っていた。ラ・パンタロン、レテ、ラ・プール、ラ・トレニス。無難で、穏やかで、そして平和。
 ディエゴは口角を持ち上げた。そうすると真珠のような歯がちらりと覗いた。そのくらいしか名前の記憶との類似性は見られなかった。ディエゴ・ブランドーは完全なる紳士だった。

「……ええ、それ以外にないでしょう?」

 名前が彼と知り合ったのは父が贔屓にしている調教師を介してのことだった。当時の彼はその調教師の元でホット・ウォーカーの仕事をしていた。まだ十歳にも満たない頃だった。
 でも彼には天性の才能があった。どんなに気性の荒い馬も彼は容易く手懐けた。各地に馬場を所有する名前の父はすぐに彼を気に入った。将来のためにと教育を施し、古くから付き合いがあり、子供のいない男爵に養子として迎え入れさせた。それは破格の待遇であり、もしかすると侯爵は娘以上に彼を可愛がっていたかもしれない。何より競馬を愛するが故に、──子供が娘しか生まれなかったがために。
 名前はそっと目を伏せた。
 思い出すのは幼少期の殆どを過ごしたカントリー・ハウスでの記憶だった。馬舎用に建てられた別邸。漂う馬の油の匂い。なだらかな丘。柔らかな日差し。芝生の青さ。そうしたものを懐かしんだ。
 けれど同時に浮かぶのは窶れた母の横顔だった。父の訪れを待つ病床の母。何より馬を愛した父。そんな彼を名前の母はひたすらに待った。母は自分よりも情を注がれる馬や愛人たちを憎みながら、立派な廐舎ステイブルを備えた邸に閉じ籠った。そうすれば父が会いに来てくれたからだ。例えそれが馬に会うためであっても、母にとってはそれがすべてだった。
 苦いものを飲み下して、名前は顔を上げた。

「ですからお友達として祝福させていただきます。……ご婚約、おめでとう」

「ああ、ありがとう」

 八十代の老婦人と婚約したばかりの男は祝福の言葉にも淡白に答えた。まるで他人事みたいに。
 その時名前の脳裏を過ったのは口さがない人々から漏れ聞いた言葉だった。でも名前は慌ててその考えを打ち消した。無闇に人を疑うのはよくない。そう思った。
 だってディエゴにはもう富も名声もある。ないのは爵位くらいだ。だがそれはかの老婦人と結婚したからといって得られるものではない。爵位は長男にしか継げないし、彼女との間に子供を儲けることも不可能だ。だからこれはそんな打算的なものではない、そのはずだ。

「あの方にはわたくしもよくしていただいたわ。だからあなたとのことがあって……とても楽しそうにしてらっしゃったから、わたくしもあなたには感謝しているのです」

 少なくとも、名前はそう信じたかった。
 老婦人はとても感じのよい女性だった。彼女は自分の最期の話し相手にディエゴを選んだのだと言っていた。彼女も馬に乗るのが好きだった。夫を亡くして以来塞ぎがちだったのが、ディエゴのお陰で元気を取り戻せたのだといった。だから、名前は信じることにした。噂ではなく、彼を。
 そんな思いを込めて、名前はディエゴを見上げた。

「……そう、」

 額には長い髪が落ちていた。それは深い影となって目許を被っていた。
 でも彼の鋭い眼差しだけは宵闇の中でも浮かんで見えた。天使の聖なる青。眸が、今は熱を閉じ込めた氷みたいだった。彼が何を言ったわけでもないのに金縛りにあったように体の自由が奪われた。

 ──冷たいのに、熱い。

 なんだか落ち着かない気持ちだった。でも目を逸らすこともできなかった。野性動物に睨まれた気分だ、と冷静な部分で名前は思った。慣れたはずのコルセットが途端に窮屈に感じられた。自由に野原を駆け回れた幼年期を恋しく思った。ディエゴの瞳に映るのは侯爵令嬢ではない、ただの名前であるように思えてならなかった。
 しかしそれはほんの瞬きほどの間のこと。
 ディエゴはふっと笑むと、「こちらこそ」と右手を差し出した。

「君には感謝している。……いつでも我が屋敷へどうぞ。彼女も君なら歓迎するさ。勿論、オレも」

「ありがとう、その時は、また」

 名前はその手に応えた。
 男性から握手を求めるのは礼儀作法に反することは知っていた。たぶんそれはディエゴだって同じだろう。彼ほどの男がそんな些細な失敗は犯さないはずだ。だからディエゴはわかった上で行動を起こした。自分が好意を持たれていると確信してか、それとも名前を試すためか。理由までは判然としないが、ともかく名前は許してしまった。全幅の信頼を置いているわけでもないのに逆らえなかった。

 ──そして、その手を思いきり引かれた。

「──必ずだ」

 囁きが耳朶を掠める。吐息が頬を撫でる。傾いだ体が厚みのある胸で抱き止められる。
 名前には何が起こったのか咄嗟にはわからなかった。ただ呆然とディエゴを見上げた。あと僅かで触れてしまいそうなほど近くに彼の端正な顔があった。そして名前の耳では囁かれたたった一言が反響していた。

「必ず、会いに来い。……待っている」

 それだけ言って、ディエゴは体を離した。名前はたたらを踏んだが、小物入れレテイキュールを握り締めることで足に力を入れるのに成功した。
 名前は会場に戻るディエゴを見送った。彼は一度も振り返らなかった。名前は身震いして、自身の体を抱き締めた。あの冷たい目に射竦められた感覚が未だに拭えなかった。何故だかわからないけれど、彼のことが恐ろしいと思った。

「どうして、あんな言い方」

 ──あれではまるで、自分に会いに来いと言ってるみたいじゃない。

 名前は周りに人影がないのを確認し、ガーデンチェアにずるずると座り込んだ。舞踏会に戻れるほどの気力はなかった。ひとりで考えたいことが沢山あるように思えた。例えばそう、障害などなかった子供時代だとか、長じてからは話す機会も減っていたことだとか、彼が結婚したことで変に勘繰られることも少なくなるだろうことだとかについて、もっとよく考えたかった。そうすれば答えに辿り着けるような気がした。
 でも思考は纏まらなかった。突き詰めてしまうのが怖かった。目を逸らすのが最善だと思えた。
 名前はグラスの中身を飲み干して立ち上がった。付添人や婚約者候補たちをこれ以上待たせるわけにもいかないだろう。
 自分に与えられた短い猶予を思って、名前はまた憂鬱になった。