花開く前


 柔らかな木漏れ日。緑と土の澄んだ香り。ゆっくりと踏み締める蹄鉄の音。それらを愛しいと思うようになったのは何時だったろう?日常であり、嗜みのひとつと思い込んでいたそれらへの感情を、愛しいというのだと。そう教えてくれたのは果たして誰だったのだろう?
 名前の脳裏に浮かぶのは青い目をした少年の横顔だった。彼の無邪気な笑顔であり、少年らしく清らかな、心地のいい声だった。

 ねぇ名前、それがきっと『好き』ということなんだよ──

 彼の言葉を思い出すたびに名前の心臓は脈打った。私はここよ、と体が叫んでいた。生きているという実感が体を駆け巡った。名字家の一人娘じゃない、ただの名前としての存在を意識することができた。ここにいる私は他の誰でもない、代わりのない存在なのだと認めてくれるのは何時だって思い出の中の少年だけだった。

「──こんなとこにいたのか、名前」

 がさり、と茂みを掻き分ける音がした。名前は手綱を操り、足を止める。近づく気配があるのには気づいていた。でもそれは執事かメイドだと思っていた。父親だという可能性は最初から名前の中にはなかった。

「ディエゴ、」

 姿を現したのは名前より二つ歳上の青年だった。混じりけのない金の髪に、明るい青色の瞳。どこか悩ましげに見えるのは鼻筋にまでかかる前髪が落とす影のせいだと名前は知っていた。それの齎す効果が社交界では甚大なのだということも。
 ディエゴ・ブランドー。男爵家に迎え入れられた養子であり、天才と評されるほどの若きジョッキー。そして名前にとっては幼い頃からの顔馴染みでもあった。
 そんな彼は慣れた様子で名前の馬に近づき、その顔を撫でた。「相変わらず素晴らしい毛並みだ」賞賛の言葉にはなんの皮肉も込められていない。ディエゴは心から名前の愛馬を、その見事な栗毛を褒め称えていた。社交界で女性に形式的な賛辞を送る時の薄っぺらさとは大違いだった。
 名前は差し出された手を拒むことなく馬を下りた。そしてその手綱をディエゴに渡した。こと馬に関して、彼以上に信頼できる者はいない。だから名前は何の不安もなく愛馬を任せることができた。
 栗毛の馬は走るのがとても速かった。そしてその種の例に漏れず些か気性が荒かった。でもディエゴの手にかかると子供のようだった。慕わしげに目を細め、従順に従った。

「うちに来ていたなんて知らなかったわ。知らせてくれればよかったのに」

 名前は日傘を開きながらディエゴを見上げた。なんとも用意のいいことに彼は名前のための日傘を持ってきてくれていたのだ。
 淡いピンクの色。秋の薔薇に似てると名前は思った。縁が花弁のような形をしているせいかもしれない。一目でいい布を使っているのだとわかった。色合いは地味だが、光沢が違う。艶やかで、品のある日傘だった。
 でも名前には覚えのない傘だった。みんな、名前には鮮やかな色を求める。人目を惹く装飾品を身に纏うことを望む。だから内心では首を傾げていた。

 ──こんな傘、持っていたかしら?

「正式な訪問じゃあないからな。ちょっと馬の様子を見に来ただけだ」

「そう」

 通りで、と名前は然り気無く彼の全身を見回した。
 一見細身に見える体。だがその実鍛え上げられていることを知っている。騎手として無駄なところなどひとつもない。しかしその体を包むのはフロックコートで、乗馬服ではないのが少しだけ残念だった。
 そんな考えを見透かしたように、ディエゴは軽く口角を持ち上げる。

「……そろそろ昼食の時間だろう。その後軽い運動でもしないか?勿論、ご多忙のレイディ・名字のお許しがいただけるなら、の話だが」

「嫌な言い方をするのね」

 名前はじとりと睨む真似をした。
 でも本当のところ悪い気はしなかった。ディエゴは優れた騎手で、彼と共に馬を駆るのは名前にとって舞踏会よりも楽しいひと時だった。
 名字家の別邸、そのひとつであるこの地もまた広大な敷地を擁していた。現在歩いているぶなの森の他に、反対側には整備された丘もある。そこを思いきり駆けるのが名前はとても好きだった。
 それを知った上でのディエゴの誘い。しかし彼は僅かに眉を寄せた。

「気遣ってるんだ。君、体調崩してたんだって?」

「あら、心配してくださるの?」

「当たり前だろう。君のことなんだから」

 「まだ少し顔色が悪い」と覗き込んだ顔を見てディエゴは言う。病弱だった母親ほどではないが、名前も季節の変わり目には弱かった。それだってディエゴは知っている。たぶんきっと、名前のことは名前以上に。

 ──それが、ちょっとだけ怖い。

 名前は「大したことじゃないわ」と首を振る真似をして、そっと目を逸らした。

「ただの憂鬱病。そんなのがあるならの話だけど」

「大変だな、侯爵家ともなると」

 ディエゴは笑った。
 領地が隣り合っている彼には、オフシーズンにもひっきりなしに訪れる来客の数さえ筒抜けだ。彼らが皆、父の招待によるものであるのも、名前の婚約者候補であるということも。
 そしてタウンハウスに戻った今、それがさらに熱を増していることも。女王への拝謁を目前に控え、父親が一人娘の名前へ多大な期待を寄せていることも。──彼が唯一娘へ望んだのが、良家との縁談でしかないことも。
 ディエゴは慰めるでも同情するでもなく、他人事として笑った。でもそれが名前にはちょうどよかった。別に今さら悲しんでいるわけじゃない。哀れまれても困っただろうし、候補にすら挙げられない彼との会話は肩の力を抜くことができた。

「大変なのは皆様の方よ。私みたいな跳ねっ返りに求婚しなきゃならないなんて」

「そうだな、君との結婚生活はなかなか刺激が強そうだ」

「そこは否定するところではなくて?ミスター・ブランドー」

 わざとらしく丁寧な物言いをすると、ディエゴは恭しく頭を下げる。

「失礼いたしました、レイディ・名字」

 とても洗練された所作だ。指先ひとつとっても品がある。中流階級の者が後から手に入れたものではない、生まれながらの優雅さ。それを労働者階級出身の彼が流れるように行ってみせる。
 その姿を見ると名前は不思議な気持ちになる。血の繋がりこそが大切にされる世界。階級こそが絶対と教えられてきた。成り上がり者は所詮紛い物なのだと。
 でも今のディエゴを相手に誰が物を命じるだろう?彼には政治や経済の知識もあった。そしてその知識を元にした自分なりの考えというものを持っていた。そんな彼を見るたび、本当に重要なのは教育なのではないかと名前は思うのだ。

「ところで聞いたか?不幸なジョッキーの話を」

 森を抜けると、広大な庭園に出た。その先には石造りの大きな屋敷がある。蹄の後の残る道を歩きながら、ディエゴは不意に訊ねてきた。ふと、と。何の気なしにといった風で、でも名前には彼の意識が研ぎ澄まされているのが感じ取れた。
 「なんのこと?」と咄嗟に答えかけ、名前はやめた。そんなのは無駄なことだ。どんな些細な変化さえも見抜かれてしまう──名前は密かに息を整え、口を開いた。

「……ジョニィ・ジョースターのことなら本当に残念に思っているわ。これからの活躍を楽しみにしていたのに」

「それだけか?……本当に、それだけ?」

 ディエゴは足を止めた。名前もつられて立ち止まった。そうせざるを得なかった。彼は名前をじっと見つめていた。
 静かな眼差しだった。ディエゴの目は多くを語らなかった。どうしてそんなに追及してくるのか、名前にはとてもわからなかった。ただ嘘を吐いてはいけないということだけは直感した。だから名前にはイエスともノーとも言えなかった。
 名前はディエゴを見つめ返した。挑むようにして。見つめ、「何のことかしら」と問い返した。実際、ディエゴが何を求め、或いは厭っているかなんて名前には知る由もなかった。
 ディエゴは一拍置いて、「今でも手紙を送っているのか?」と言った。彼は名前とジョニィが文通していたことも把握しているのだ。

 ──そしてそれが潰えたことも、きっと。

「……ジョースター家にはお世話になったもの。父も、そして私も」

「返事が来なくても?」

 予想通り、ディエゴは知っていた。
 彼の声はどこか荒っぽく、苛立たしげに顔を歪めた。普段の冷ややかさすら感じられる完璧な微笑が嘘のよう。驚きに、名前は僅かに目を見開いた。
 でも動揺を表には出さなかった。それは淑女として恥ずべきことだ。だが例えそう教えられていなくとも平静を装ったろう。名前にとって思い出の中の少年は何より大切な拠り所だった。

「お忙しいのでしょう、とても華々しい活躍をなさっていたと聞いておりますから」

 文通が途絶えたのは名前が十五で、彼が十六の時だった。その年にジョニィ・ジョースターはケンタッキーダービーで優勝をした。名前は祝福の手紙を送った。けれど返事は来なかった。何週間も、何ヵ月も。
 やがて名前は理解した。理解したけれど、望みを捨てることはできなかった。宛名をジョースター家に変え、季節ごとに手紙を送った。返ってくる返事はすべて彼の父親によるものだった。彼からの言葉は何一つもなかった。
 強がりをディエゴが見抜いたかは知らない。だが彼は名前の言葉を「まぁそれも過去の話だがな」と鼻で笑った。

「ディエゴ、そんな言い方ってないわ」

「だが事実だ。競馬場でならともかく、やつは街中で、しかも一般人とのいざこざの中鉛玉を食らったんだ」

 「女なんかにうつつを抜かすからだ」とディエゴは小馬鹿にしたように言う。

「オレならそんなヘマはしない。騎手としての自覚がない証拠だ」

「……そうね、あなたなら上手く立ち回れたでしょう。あなたはきっと生まれながらの騎手だもの」

「だろう?」

 砕けた様子でディエゴは笑う。
 得意気な感じは少年のようで、ずっとそうだったらもっと好きになれたのにと名前は思う。名前はディエゴの走りが好きだった。大胆で自信があって、馬のことを真に理解している。そんな走りを見るのが好きだった。

「ま、いい反面教師にさせてもらうさ」

「楽しみにしてるわ、あなたのレースを」

 応援してるとは言わなかった。彼が手にするのは優勝しかない。そんな確信があった。
 ディエゴ自身もそう思っているのだろう。「賭けるならオレ以外ないぜ」と自信たっぷりに口角を上げた。

「ところでディエゴ、この日傘なのだけど……不思議ね、私には見覚えがないわ」

「それはそうさ。これは今日、オレから君へのプレゼントなんだから」

 くるりと回すと、日傘の縁についた飾りが揺れた。そして名前の心も。
 びっくりしてディエゴを見ると、彼は「だが惚れるなよ」と名前に耳打ちした。蕩けるような甘い声とは裏腹の台詞だった。

「オレは君と駆け落ちしたいわけじゃない。確かに国境まで駆けるのは楽しそうだがな」

「そうね、でも私だってご婦人方に恨まれたくないわ」

 彼は名字家を必要としているわけじゃない。そうだ、例え彼が有力な貴族との繋がりを求めていたとしても、その相手は名前じゃなくてもいいのだ。彼ほどの男なら素晴らしく条件のいい結婚ができるだろう。
 そんな彼だから、名前はこういった軽口も叩けるのだ。

「ありがとう。あなたからの贈り物、大切にさせていただくわ」

 淑女らしく丁寧に礼をする。でもディエゴはそんな名前を見て「似合わないな」と皮肉っぽく笑った。そう言うディエゴはとても似合っていた。貴公子と呼ばれる彼よりも、ずっと。