直哉と司書の退廃的な恋
名前を評するのに"風変わりな"という語は欠かせないだろうと直哉は思う。
年若い娘らしく生き生きとした顏に、けれど時折匂い立つ色。どこか退廃的な空気。それは見るものをアッと吸い込ませる力があった。
文学にしろ絵画にしろ、そういったものの題材にでもなりそうな。あるいはそうしたものから抜け出てきたような。そんな、作り物じみた感覚を与えるのは、彼女の生い立ちに端を発している。そう分かっていてもなお目が離せない。
いや、分かっているからこそーーだろう。徳田秋声を筆頭にあれやこれやと世話を焼く者が絶えないのは。
そう、冷静に考える己がいる一方で。
「よう、名前。こんなとこにいたのか」
ーー直哉もまた、名前から離れられないでいた。
よく晴れた日。休館日だというのに朝食の席以降名前を見かけなかった。はて、どこへ行ったのやら。人里離れたところに悠然と屹立する帝國図書館。近辺に娯楽施設があるわけでもなし。そもそもどこに行くにも直哉に一言残していくのが常で。となると彼女は館内にいることになる。
この館は主として働く図書館と住居となる別棟、錬金術師の研究施設で構成されている。あとは犀星や実篤の庭だとか畑だとか、個々人の領地がいくつか。そんなものだから昼になる前に名前を見つけるのはわけなかった。
「あら、直哉さん」
書棚を背にして佇む少女。直哉が声をかけると、名前は手にした紙束からゆったりと顔を上げた。「どうなさったの、今日はおやすみでしょうに」追いかけてくるときには追いかけてくるのに、いざ直哉がそちら側に立つと途端に気まぐれを起こす。厄介なものだと直哉は溜め息をついた。これがわざとだとか駆け引きだとかそういうものならまだよかった。"そういうもの"には"そういうもの"の法則がある。一度見抜けばどうということもない。
厄介なのはこれが本人の意図していることでないときだ。万華鏡。あるいは鏡。そう彼女を表した者がいるらしいが、なるほどその通りである。名前は万華鏡。そして鏡。見るものによって、見たときによって異なる存在。あらゆる者に好意を持たれようと足掻いた子どもの末路。
ーーなんて、哀れなのだろう。
哀れで。そして、どうしようもなくいとおしい。
「おやすみだからこそ名前を探してたんだろ」
昼間だというのにこの資料室はどこか薄暗い。時間が沈殿している。停滞している。そう思いながら、直哉は扉を閉めた。パタン。密室は軽やかな音で出来上がった。
「わたくしに直哉さんを楽しませることができるかしら」
困ったように笑う名前には微かな光が落ちている。煉瓦の壁に嵌め込まれた小さな窓。その四角い陽光が名前の睫毛にかかって鱗粉を振り撒いている。
よく見ようと、直哉は彼女の前に立った。
「なんだ、名前は俺といるだけじゃ楽しめないってか」
「そんなことありませんわ」
「だろう?」
名前がそう答えるのはわかっていた。わかっていてあえて訊ねた。これで名前に逃げ道はない。「意地悪はおよしになって」あなたの目を見るだけでわたくしは敵いませんのに。名前はやっぱり困ったようにーーけれど熱を帯びた顔でーー直哉を見上げる。
「ほんとうに、きれいな目」
ほうっと潤んだ声。艶めいた響き。まっすぐに受け止めていると、なぜだか直哉の目までしくしくと熱せられていく気がした。そこだけが体から切り離されたようで。目玉だけがなぶられているようで。熱く、熱く。
「……そうか?」
直哉は瞼に手をやった。遠くでも見るみたいに手のひらで両目に傘をさした。そうすると皮膚越しに目玉がどくどく脈打つのがわかって、余計に心臓が痛む。
「ええ……」名前は相変わらず恍惚とした顔をしていた。いつもなら遠慮がちに触れてくる手が、そうっと直哉の頬を擽り、目尻を這った。密室故に、だろうか。閉鎖空間が彼女の、それとも直哉の欲を駆り立てたのか。
「食べてしまいたいくらい、きれい」
するりと零れたのは、無垢な娘に似合わぬ望み。あまりに不道徳で不健全な声音。どくりと心臓が一際高く鳴いた。
「俺の目を?」直哉の囁きに、名前は頷く。「ええ」食べたい、と彼女の黒々とした目が訴える。
しかしそこに害意はなかった。目玉を食べたいと、くり貫きたいと言って、それでもなお名前に傷つけたいという意思は見受けられなかった。あるのはただ純粋な願いのみ。
でも。
「それはダメだ」
だからといって本当に目玉をやるわけにはいかない。これがないと小説を書けなくなってしまう。今だってせっかくいい具合に筆が進んでいるのだ。これを完成させねば気がすまない。
だから突っぱねた。名前の指先を掴み、代わりにポケットに入れっぱなしになっていたものを握らせた。
「ガラス玉……?」
「あぁ、前に山を降りた時に買ったやつが入っててな」
色合いに惹かれて買ったものの、使い道もなく放っていたものが偶然ポケットに入っていた。部屋を出てから気づいたものだからそのままにしていたが、まさかここで役立つとは。
ガラス玉はちょうど直哉と同じような色をしていた。深碧色、とでもいうのだろうか。深い緑色をしたそれを、名前は指先で転がした。人差し指と親指でつまんで、じいっと見つめて。
そうして。
「あっ」
直哉が止めるより早く、それを飲んだ。
飲んだ、といっても口に含んだだけで、実際に飲み下したのではない。喉が動いていないから直哉にもそれはわかる。
「おいおい、何してんだ……」
けれど、一瞬、確かに焦った。名前ならやりかねないとさえ思った。
そんな気も知らず、名前は顔をしかめる。「偽物はやっぱりおいしくないわ」そりゃあそうだろう。だってそれは飴玉なんかじゃない。ただのガラス玉だ。
「あら、でも舌の上で転がすのは案外楽しいのね」
ざらざらして、つるつるして、ヘンな感じ。そう言って、名前は童女のようにころころ笑う。
「あなたの目も、こんな感じなのかしら」
そう言われると、本当に自分の目がなぶられてるような気になってくる。ここに確かに嵌まっているはずなのに。思わず直哉は自分のそれに瞼の上から触れた。ーー確かに、ここにある。まぁるいものが直哉の意思通りにくるくるくるくる回っている。
でも直哉には別のものも見えた。閉じた片方の視界で、真っ暗なはずの瞼の裏に。名前の口内を転がる己を視た。
なんとも、おかしな感覚だ。
「俺も試してみたくなったな」
くつくつと笑うと、名前もほんのりと応える。「試せばいいじゃありませんの」ここに、と自分の口を指差す。あなたもこれを使えばよいのではなくて?彼女はそう言っているのだ。
「それもまぁ悪くはないが……」
ぐいと一気に屈みこむ。名前のぬばたまの目と視線を絡ませ合ったまま、口を吸う。驚きに上がる声も、緑の目玉も掬いとって、床に落とした。
「どうせ食べるなら、俺も名前の目がいい」
だから今日は一緒に出掛けないか?山を下って街に降りて、二人の目玉にぴったりのものでも探しに行こうじゃないか。
そう誘うと、名前はにっこりと笑んだ。
「ーーとっても素敵な提案だわ」
風変わりな娘をデートに誘うには、こういったやり口が一等自然なのだ。
そう実篤に話すと、「うわぁ」と言われたが、まぁ気にするほどのことではないだろう。