司書と有島と黄金郷の恋


 澄んだ匂いを感じ取り、まず感覚から先に浮上する。ついで降り立つのは反射的な反応。ぼうと開いた目に、カーテンの隙間から差し込む淡い光が染み渡る。最後に動き出したのは意識だ。それは緩慢に現在を認識していく。今は朝。眠りから覚めたところ。横たえたのはベッドの上。豪奢な造りの天井。そして隣にいるのはーー

「ありしまさん……」

 前髪が儚げな影を生む相貌。それを間近で眺めていると、徐々に覚醒していくのがわかる。今は朝。そしてここは有島武郎の部屋だ。

「おはようございます、有島さん」

 深い眠りの底で横たわる愛しい人に名前は笑んだ。
 有島と共寝するようになって、変わったことがひとつある。
 なんと、早起きができるようになったのだーーこれまで呆れるほど秋声に叱られても一向に治る気配のなかった悪癖ーーそれが完治したというのだから驚きだ。名前自身も驚いているが、一等驚いたのは秋声だし、二番目は紅葉だった。
 しかもその理由がなんとも呆気ないーーというより下らないと一笑されそうなものなのがまた驚きである。話したら、絶対に笑われる。文豪たちにからかわれてあることないこと吹聴される。そうにちがいない。だから名前は心に留めておいてある。

「有島さんのお顔が見たいだけ、なんて」

 我ながら単純だ。それだけで長いこと悩まされてきた睡眠障害に改善の兆しが見れるなど。あまりに単純で、馬鹿馬鹿しい話だ。だから名前は誰にも話さなかった。秋声だけは気づいていたかもしれないけれど。あるいは他にも察しがついた者がいたかもしれないけど。でも今のところ何か言ってくる様子は見られないので名前は安堵した。

「ん……」

 吐息が漏れる。すぅっと空気に溶けていくのを、名前は目を細めて見つめる。薄い唇。滑らかな頬。その柔らかさを自分は知っているのだと思うと胸が騒ぐ。風にあおられる草原のように。ざわざわ、ざわざわと。

「名前……?」

 瞼がゆるゆる持ち上がる。覗く紫水晶。とろりとしたそれが数度の瞬きのあとで名前と視線を結ぶ。おはようございます。名前が微笑むと、彼も薄らと口角を上げた。「おはよう」その声はまだ夢現の色をしていた。

「また……先を越されてしまったな」

 たまにはあなたより先に目覚めたいものだ。少しばかり悔しさの滲む声音に名前は笑う。
 「そんなつれないこと仰らないで」わたくし、あなたの眠る姿がすきなんです。だって一番あなたの魂に触れている感じがするんですもの。ねぇ、わかるでしょうーー?
 有島の指がつ、と伸びる。名前は理解して目を閉じた。瞼の裏で明滅する光と闇。肉体と魂の境界線。連続と不連続。その静けさの中で、名前は息を止めた。

「あぁ……」

 そうだな、と言う有島の声を瞼で聞く。添えられた指が目尻を、頬を、輪郭を滑る。「あなたも、そうしているのが」一番自然だ、と彼は言った。

「ずっと眠っていられたらよかったのかしら」

 名前は彼の胸に頬を擦り寄せた。ずっと、眠っていられたら。肉体とか秩序とかそういうものからぬけ出て。ただ、彼の心音だけを聞いていられたら。どんなにか幸せだったろう。

「それができないのがあなただろう」

「……有島さんも、でしょう?」

「あぁ、そうだな」

 ままならないな、と穏やかな手が名前の頭を撫でる。「この世はままならないことばかりだ」しようがない。諦めて、諦めたことにすら諦めた。そんな声。名前は息を吐いた。ーーええ、そうでしょうね。

「黄金郷は影の谷のその先にあるんですものね」

「あぁ、でも、」

 有島はそこで言葉を切った。何かを言いかけて。でもふと立ち止まって。考え込むような、あるいは躊躇うような。たたらを踏む気配がして、名前は顔を上げようとした。上げようとして、その前に有島の手で導かれた。

「ーーいずれときが来たら……その暁には共に行くとあなたに誓おう」

 あなたが、名前が望むのなら。死の影の谷のその先、どこまでも先まで共に進もう。

「……ずるい人ね」

 名前は口を尖らせた。あなたが望むのなら。そう、彼は言う。最期まで名前に委ねる。名前は、彼の魂がしりたいのに。
 言うと、有島は困ったように笑った。「あなたの方がよほどずるい」僕の意思などとうに知っているだろうに。知らなければここにいないだろうに。

「それでもあなたは言葉を欲するんだな」

「……そりゃあ、」

 そうでしょう。名前は少し考えて、それから二の句をついだ。「ご存じないかしら。わたくし、あなたの声も好きなのよ」からかいまじりに彼の喉仏に口付ける。そうするとさすがの彼も驚いたのかくすぐったそうに身じろいだ。

「そうだったか」

「ええ、どうか覚えておいてちょうだいね」

「わかった」

 有島は深くうなずいた。わなった。そう、深く、深く。

「……どうか、僕の手をとってほしい」

 有島は言った。そのときが来たら。月の光のようなささやかさで。そのときには、この手を、と。
 絡められた指先に、名前は一分の躊躇いもなく応えた。

「ーーええ、もちろんよ」

 唇が落ちる。カーテンの落とす影の中。二人は密やかに身を沈めた。