高校生の降谷零といじめられっ子の後輩

 日本の夏っていうのはどうしてこう過ごしにくいつくりになっているのだろうか。強い日差し、湿り気のない風。むわっと広がる熱気は現代っ子にはつらいものがある。まぁ、日本から出たことがないのでその差異については想像に拠るところであるが。いやまったく、日本国に対して失礼千万。申し訳ない。
 とにもかくにも夏、である。いや本当に、この季節はしごく面倒なのだ。暑さとは不快感であり、不快感は人を苛立たせる。その捌け口になるのが毎年のこととはいえ、さすがに名前もやれやれと両手を挙げたくなる。毎分毎秒米神に銃口を向けられている気分。ぐりぐりぐり。
 梅雨の時期は梅雨の時期で隠れる場所が限定されてくるので結構頭を悩まされたが盛夏には及ばないなぁ。そんなことを頭の片隅で考えながら、名前はチャイムと同時に教室を抜け出した。ここで発揮されるのが、ここ数年で見につけたスキル、名は――特にない。隠蔽?隠遁?まぁそんな具合で、名前は女生徒Aに見咎められることなく教室を後にした。余談だが、こうやって逃げ隠れるツケが放課後までにもたらされるのだが、背に腹は代えられない。ここで女生徒Aを撒かないと名前は昼食を失ってしまうのだから。
 そんなわけで放課後の予定に胃を痛めながらも名前は屋上に上がった。もちろん安全面が考慮されるご時世、ここにも鍵はかけられている。しかしそんなもの名前の敵ではない。どうするのかといえば――普通に解錠するのだ。ピッキング?そんな技術が名前にあったらとっくに夜逃げでも何でもして悪の道に進んでいたさ。
 鍵の管理っていうのは案外杜撰なものである。失礼しまーす。おお、どうしたんだい。鍵を借りに来ましたー。そうかいそうかい。ガチャ。こうして鍵の入ったケースはいともたやすく破られる。教師陣はそれ以上追及しないし、鍵を持ち出すところをつぶさに監視しているわけでもない。名前が屋上の鍵を拝借して、複製してもその日のうちに返却しておけばなんの問題にもなりゃしない。教育現場の防犯意識なんてこんなものだ。
 こうして屋上の鍵を入手した名前は、ここを昼食場所と定めた。とはいえ、夏。暑いことこの上ない。日焼けは気にならないが、というか気にしてられないというか、日焼けの前になかなか消えない紫色をなんとかすべきというか……。3日前の痛みが残る脇腹を擦りながら、名前は給水塔の裏に座った。お尻の下に敷いたハンカチは乙女としての最後の抵抗である。
 昼食は登校途中にコンビニで買ったパンだ。総菜パン。味も値段も変わらぬ安心安全な商品。ハムとチーズが入ったそれをペットボトルの水で流し込む。これが機械だったらオイルで事足りたのになぁ。生命維持活動に彩りを求めたのは名前と同じ人間だけど、名前からしたら余計なことをしてくれやがってといった気持ちだ。知らない方がいい幸せもある。知らなければ機械的な行為に虚しさを感じずに済んだ。だったら弁当でも作ってこればいいじゃないと人は言うだろう。でも名前の場合、そんなことをしたら昼には中身が空になっているか、もしくは日本では一般的に食材に分類されていないあれそれが生きたまま詰め込まれているのである。これは経験談だ。3ヶ月ほど前、名前が高校生になったばかりの頃の出来事である。
 人間、一人でいるとろくなことを考えない。和を以て貴しとなす。それができない人間への罰なのか。人間ていうのは根本的に自由ではないのだなぁ、と名前が空を見上げていると、きぃっと錆びた音が屋上に響いた。聞き慣れた音。屋上の扉を開閉する時の音だ。でも名前はちゃんと鍵をかけ直した。じゃあどうして?
 そんな風に混乱するところだが、名前は足音が近づいても、その人が隣に座っても落ち着き払っていた。だってこれもいつものことだから。名前の隣に腰を下ろしたその人は、名前と同じように屋上への鍵を持っていた。

「相変わらず辛気臭いな」

 その人はとてもとても端正な顔立ちをしているのに口が悪かった。致命的。減点。マイナス60。名前はパンをゆっくり噛んで、飲み込んで、それから答えた。

「先輩は相変わらず麗しいですね」

 素直な表現。なのに先輩は「気持ち悪い」と顔を顰めた。それでも顔の造作は崩れない。絵になる。美人は病の床にあっても美人だというからちょっと眉間に皺が寄ったくらいじゃ減点されない。おまけに人当たりもいいというから、そりゃあ学園の王子様と呼ばれるのも納得のいく話。でも王子様は名前の王子様ではないので必然的に名前もお姫様にはなれないという。トラジコメディー。
 この先輩は別に名前を憐れんでここにいるわけではない。先輩の友達のそれはそれは優しく正義感あふれる方が名前の現状をなんとなく察して気にかけてくださって、でもそのお友達には次期生徒会長という職も与えられ輝かしい未来があって……そこに名前という影が落ちることを友達思いの先輩は気に病んだのだ。そして先輩は名前の面倒は自分が見るとお友達に言って、手出し無用という形を取ったらしい。この辺りは先輩がくどくどと何度も言って聞かせてくれたので真実であろう。

「先輩も大変ですね、気持ち悪いのに後輩に付き合わなくちゃいけないなんて」

「その口を閉じてくれたら多少はマシになるんだけどな」

「もしかして褒められてます?」

「顔だけな、顔だけ」

「先輩は顔と頭と性格がいいですね」

 名前は頭を叩かれた。褒めたのに。うーん、これはもう対人関係のスキルは絶望的ということか。何を言っても何をやっても神経を逆撫でしてしまう。今までもそうだったしこれからもそうだ。断定系。名前が高校を出て大学に入れたとしても一人寂しくノートを取るだけでアルバイトをしようにも面接で落とされてそういう経験から就職活動は困難を極め皆が内定を貰って華々しく卒業していく中やっとこさ入れてもらえたコンビニアルバイトもミスばかりで生活は困窮し交友関係を築くことなく死後数日経ってからようやく発見されるのだ。ここからどうにかしようという気力もわかないし、どうにかしなければならないという気持ちにもならない。諦念。
 そういったことを訥々と語ってしまったのはそれでもやはり人恋しいからなのか。
 先輩は溜息を吐いて、

「まず行動するところから始めればいいのに」

 と言った。先輩にしてはありきたりなことを言う。

「そういう当たり前のことができない人間のなりそこないだっているんですよ」

「人間のなりそこないだろうと取り繕うことくらいはできるだろ」

 それは先輩自身の話か。判断に困る。なのでそこは突っ込まないでおいた。藪蛇になるやもしれないし。張り付けられた微笑みに気味の悪さを感じた初対面の記憶を名前は心の奥に押し込めた。

「ほら、不良品って生産過程で必ず発生するものじゃないですか。たぶん人間もおんなじなんですよ」

「捨てられるのを待つわけか」

 嘲笑。しかし先輩にやられると憤りのいの字もわき上がらない。不思議なことに。
 それに先輩の一言は胸を突いた。捨てられるのを待つわけか。――とっくに、捨てられているというのに?

「……なるほど、それは確かに良くないですね」

「いまさらか」

 先輩は呆れ顔。そして名前の頭にぽんと手を置いた。珍しい。

「他人任せにせず自分から動く、そうすれば大概のことはなんとかなる」

「えぇ、まぁ、そうでしょうね」

「頼りない返事だな」

 さらに珍しいことに、先輩は笑った。偶像化された微笑みじゃない。日に当たって金にも見える亜麻色の髪を靡かせ、空よりも深く淡い瞳は柔和に細められ、薄桃色の唇が形よく持ち上がる。そういった微笑みだった。名前が生涯見た人間の中で一等うつくしい人間。この人は違う。そう思ったから、心の中で反論しておく。先輩、あなたはなりそこないなんかじゃないですよ。
 優しい優しい先輩は、きっと自分を責めるだろう。でもなりそこないから成り上がった強い先輩なら、この経験すら糧にしてしまう。そうしていつか本当に救いたい誰かを救うといい。その礎になれる、なんて思い上がりも甚だしいけれど――不良品にもそれくらいの夢を見る権利はあるでしょう?
 うつくしい月の晩。屋上の縁に立ち、名前はわらった。それは今までで一番人間らしい笑顔だった。