この話の前日談。
リゾット視点。
秋の長雨の合間。束の間に訪れた日の光の元、リゾットは名前と連れ立って閑静な小道を歩いていた。辺りに繁る木々は既に落寞たる色合い、吹き抜ける風さえどこか物憂い代物。それは居並ぶ十字架が見えてくる頃にはより一層深まる。
教会の管理する墓地。そのうちの一角。片隅に、目的の墓石はあった。個人的な終の棲み家を持たぬ者たち、纏めて埋葬された人々の中に、リゾットの仲間も含まれていた。
「こんにちは、……いいえ、はじめましてからかしら」
大理石の前、唱えるのは祈りの文句。それから名前は膝を折り、柔らかな笑みを浮かべた。その響きはひどく親しげで、深い愛情さえ感じられた。この墓の下に眠る二人の男──ソルベとジェラートのことを彼女は何も知らないというのに。だというのに、名前が向けるのは温かな眼差しだった。
名前が暗殺チームに配属されたのは、ソルベとジェラートの一件があってからのことだった。ポルポの試験を受けたという彼女は慣例ならば彼の下につくはずだった。けれどボスはそうさせなかった。ボス自らが新人の処遇に口を出し、かくして名前はリゾットの部下となった。首輪に繋がれたグループ、虜囚の如き身の上に甘んじるリゾットたちの元へと。
「ねぇいったいどんな人たちだったの?」
そんな名前に対する風当たりはお世辞にもいいとはいえなかった。彼女の身の上は虜囚であり、看守でもあった。少なくとも、ボスにとっては。リゾットたちと名前が互いに監視し合う、そんな関係をボスは望んでいたのだろう。
しかし名前は最初から親しげな態度を崩さなかった。どれほど冷淡な態度を取られようと、そのすべてを柳のように受け流した。彼女はその容貌に反し強靭な精神の持ち主だったのだ。
今だってそうだ。無表情を常とするリゾットに彼女は物怖じひとつしない。振り仰ぐ頬は朝日の昇る地平線。けざやかなる光が後光の如く滲み出ていた。
「……改めて聞かれると悩むな」
「あら、答えづらいこと聞いちゃったかしら」
僅かばかり窺い見る眼差し。控え目な物言いに、リゾットは「いや」と首を振る。
「なんと言ったらいいのか……。オレはあまり深追いする質ではないからな」
言ったのはそれだけであったが、名前は「あぁなるほど」と手を打つ仕草。すべて理解したといった風で、けれど瞳に灯る光は相変わらず。親愛を帯びた好奇心はいたいけな子供そのもの。「なぜ」、「どうして」を繰り返す姿を思い出して、リゾットの目元はそんな気もないのに和らいだ。
だからリゾットも「そうだな」と記憶を浚ってみた。ソルベとジェラート。決して長い付き合いではなかった、しかしただそれだけの関係でもなかった。そんな二人のことを。
「二人とも独自の世界があるという風だった。二人で一対というような……」
「双子みたいな?」
「そうだな、そのくらい一緒にいる印象が強い……。だが性格はそこまで似てるという感じでもなかったな。ソルベの方が金に煩かった」
名前は「なるほどね」と頷いた。愉快がるようにくつくつと肩を震わし、それからもう一度。聖なる墓碑を見つめ、名前はポツリと呟く。
「でもあなたにとっては大切な人たちだったのよね」
それはほんのささやかな囁き。けれど微風すら止んだ墓地には不思議とよく響いた。曇り空の合間から差し込む光のように。そうしたものに照らされながら、名前は目を伏せた。
静謐な横顔だった。物言わぬが故の荘厳さ。リゾットはぼんやりと黄金の衣を纏った聖女の像を思い出していた。聖ロザリア、パレルモの救世主の姿を。輝かしいその顏を、清らかなる空気を、愛情深い眼差しを──思い出さずにはいられなかった。
「悔しいわ。どうして私、あなたたちと出会えなかったのかしら」
そしてその目元からは清浄な雫が一筋。滑らかな頬を伝い、宙に弾けた。
「……なぜ、お前が泣く?」
穏やかな悲しみだった。しめやかな涙だった。激情はなく、相変わらずの静けさがそこにはあった。リゾットの問う声もまたひっそりと落ち、ゆっくりと目を開ける名前のその仕草も密やかなものだった。
「ああ、違うの……」顔を上げた名前は困った様子。眉尻を下げ、小さく首を振る。
「これは別に、彼らのためじゃあないのよ。私は……私が勝手に悲しくなっただけ。あなたの痛みを想像して苦しくなっただけ、」
「ごめんなさいね」と名前は言う。「勝手だけど、でもそう思ってしまったから」潤む瞳にはリゾットの顔が映っていた。
彼女の目にはどのように映っているのだろう?世界は、──オレ自身は?そう、リゾットは思った。
「私もね、大切な人たちを喪ったわ。とても悲しかった。涙が枯れ果てるくらいに、……悲しいことよ」
名前は噛み締めるように言った。馳せられた目は彼方へ、過去へ。昔を懐かしむそれは、彼女の言葉が真実である何よりの証。
目の前で割り開かれた彼女の柔い部分に、リゾットは内心でたじろいだ。
「……それは、オレに言ってもいいことか?」
彼女もまたリゾットと同じく多くを語る質ではなかった。普段は饒舌であったが、こと自分のこととなると寡黙なのが常だった。
そんな彼女が一端とはいえ過去を語ったのだ。まず第一に生まれたのは驚きで、リゾットはまじまじと名前を見下ろした。
「構わないわ。だってあなたはあなたの傷を見せてくれたじゃない。これでおあいこよ、ね?」
なのに対する名前はといえば笑顔。微笑を湛え、小首を傾げた。
「私、どうして生きているのかしらって思ってた。あの人たちは私よりもずっと高潔な魂を持ってて……、だからこそ私よりも先に神の御元に連れ去られてしまった。私はひとり、取り残されて……だからずっと、緩やかな死を待ち望んでた」
流したままの金糸を揺らし、名前は立ち上がる。
拭い去られた後の頬は白。仄かなる光が膚にかかっていた。その色合いは『受胎告知のマリア』のそれと同じであった。そして彼女の達観した目は啓示を受けた人のものだとリゾットは思った。
「でもよかった、今日まで生きて。お陰であなたをひとりにせずに済んだわ。この『死の季節』に……。私はそのために生きてきたんだって、……そう思える」
名前はリゾットの手を取った。細工物を扱うような慎重さでもってその手を両の手で包み込んだ。そしてその気安さとは対照的な、……そう、神聖さすら感じられる微笑を向けた。
彼女の背後からは光が差していた。その光線が生み出すのは清澄な靄。早朝の地平線、ナポリ湾の透明な輝きに似ていた。
その色調、その柔和、その調和──リゾットにはクロード・ロランの画がどうしてあんなにも人を惹きつけるのかという問いに結論を見つけることができた。彼女こそがロランの風景画、そこに描かれるあらゆる光であった。
「今日はありがとう、私に彼らと引き合わせてくれて……私を受け入れてくれて。本当に感謝してる」
その笑顔を見下ろし、リゾットは思う。──自身の代わりに彼女が涙するのなら、その涙を拭うことこそを生きる意味としよう、と。
ボスの支配から逃れ、その果てに何が残るのか。
──それまでのリゾットは考えもしなかった。仲間の仇討ち。現状からの脱却。それだけが目的であり、それより先のことなどリゾットには必要なかった。ただ仲間たちにこれ以上の屈辱を与えたくはない、それだけを心の奥底で考えていた。燻るのは憎悪ばかり。そんな生であった。
けれど今、リゾットは未来のことを思った。目的の果て、薄靄の向こうに光を見た。それは随分と久方ぶりの感覚だった。夢の中ですら感じることのない代物だった。
──だから、
「ずるいわ、リゾット。私にそんなこと……できるわけがない」
泣き笑う名前を抱き締め、内心でリゾットは深い深い息を吐いた。
長い道のりだった。本当に──三年ほどは経ったろうか。十一月のあの日、彼女と共に仲間を弔ってから──感覚としては長い長い月日がかかったように思う。
彼女から渡米するという話を聞かされた時は頭を殴られたようだった。足元は揺らぎ、ひどく絶望的な気分だった。それはプロシュートやホルマジオに気を遣われるほど。だが彼らのお陰もあって、こうして彼女を連れ出すことが叶った。
名前には幼馴染みの男がいた。それがどんな姿でどんな性格をしていて、どんな苦悩を抱えているのか──そんなのはリゾットにとってどうだってよかった。リゾットはただあの日見た光を失いたくないだけだった。そのためなら優しい彼女から選択肢を奪うことだって躊躇いやしなかった。それを諒解し、なおも受け入れてくれるのが名前という人だと知っていたから──選ぶ道はひとつだった。
「愛してる。お前を、お前だけを……名前、生涯愛しつくそう」
囁くと、差し伸ばされるのは応える手。柔く、けれど確かな感触はリゾットの背中へと。そして胸へと寄り添うのは名前自身であった。それは何よりの証であり、リゾットにとっては誓いの言葉に等しかった。手放す気など、最初からなかったのだ。
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拍手で見たいと仰ってくださった方がいらしたので……ありがとうございました!正直すごく楽しかったです。