リゾット√【奪い奪われる】
暗殺チームと共闘したら。原作終了後設定。付き合ってない。
店を出たところで小さな影がひとつ、足元をすり抜けていった。
「……っ、」
唇から溢れたのは小さな悲鳴。しかし声を上げてすぐ、名前はその影の正体を理解した。理解したから、「どうした?」と傍らに立つリゾットに慌てて首を振る。
「ううん、なんでもない、平気よ」
本当に。だから気にしないでほしい──
そう言い募ってもリゾットは退かなかった。その大きな体を折り、名前を覗き込んでいた。その瞳に宿るのは疑念。名前が口を割るまでは一歩も動かない。そうした決意が夜闇の中でも見て取れた。
「……笑わないでね」
だから名前は不承不承口を開いた。
「ひき蛙がいたの。足のところをこう……するりと掠めて」
「ひき蛙……」
「そう、だから……あぁ、もうっ、忘れてちょうだい、ね?」
名前は取り繕うように笑った。そうしたのは彼に呆れられてしまうかもしれないと思ったからだった。だから保険をかけるように名前は自分から言った。
「本当に……ただちょっと驚いただけだから、」
だけどそれでも彼は微動だにしない。じいっと名前を見つめたまま。真っ赤な目は名前を射抜いて離さない。
炎のようだ、と名前は思った。夕べに灯る燭火。不思議と目を奪われる。他のすべてがぼやけてしまう。それ以外、目に入らなくなる。
「あの、……リゾット?」
静寂があった。辺りにはまだ行き交う人影がある。にも関わらず、名前の周りには静寂があった。静寂と、緊張感。それは自由をも凌駕するものであった。
だから名前はぎこちない笑みを浮かべた。窺い見るように小首を傾げ、自分の周りに張り巡らされた糸から逃れようとした。
「、いや……」
リゾットは多くを語らない男だった。けれど今は常以上に言葉少なであった。
彼は何やら含みのある言葉の切り方をした。何か、まだ言いたげな感じ。そこには躊躇いや葛藤といったものが窺えた。
しかしやがて首を振り、「何もなかったなら、いい」と微かな笑みを刷いた。
どこか悲しげな空気がそこにはあった。でもそれだけだった。そこまでしか名前にはわからなかった。……わからないのが、少しだけ悲しかった。たぶん、きっと。……この胸の痛みはそのせいなのだろう。
名前は微妙な空気を振り払おうと、おずおずと口を開いた。
「……どうする?このあと……」
夕食は済んだ。リゾットに紹介されたリストランテ。『帰国前に、』と名前を小旅行に誘ったのはリゾットの方だった。
『せめて一度くらいはオレの故郷を』そう言われては頷くより他になかった。それが例えナポリから離れた地、シチリアであったとしても。それでも名前は受け入れた。そうしたいと、名前自身が望んだ。彼の願いなら叶えてやりたかった。彼の目的、理由はわからなかったけれど、それでも構わないと名前は思った。
「……もう一軒、」
だからリゾットがそう呟いた時。「ダメか?」とそれこそだめ押しのように言われる前に、名前の心は定まっていた。
シチリア州パレルモ。『地中海の十字路』と呼ばれるこの島においてパレルモはイスラム系の部分を担う。屋根は赤いドーム、そしてアラブ風の回廊……それらを彩るのは南欧の植物である。アーモンドの白い花、匂い立つレモンやオレンジ。ゲーテが『世界で最も美しいイスラムの都市』と評したのもなるほど頷ける。
「今日はありがとう。本当に……あなたのお陰よ、こんな美しい景色を見ることができたのは」
生温い風から逃れ、バールへ。ひと心地つき、名前は隣に笑みかけた。背の高いカウンターも彼を前にすると急に小さく見えてくる。
窮屈そうに体を収めるリゾットに、ボックス席に移ろうかと提案したのは入店してすぐのこと。けれど彼は首を振った。──ここでいい。それは頑なというわけではなかったけれど、それでも受け入れさせる力があった。
──きっと彼にとっては珍しい話ではないのだろう。
僅かに触れ合う肩にちょっとばかし意識してしまうのは名前だけ。彼は相変わらずの無表情。彼にとっては些か小さなグラスを静かに傾ける。
名前は内心で苦笑し、言葉を続けた。
「ほら『イタリア紀行』ってあるでしょう?ゲーテの……あれにね、書いてあったのよ。『それを見たことのある人は生涯それが忘れられない……』って。だからずっとどんなだろうって思ってたんだけど……、そうね、『どんな言葉でも言い表せない』って思ったわ」
「……そうか、」
店内には幾つもの音があった。カラカラと鳴く氷。床を擦るスツール。転がる硬貨。そして人々の話し声。そこには秘めやかな囁き声もあれば口論に近しい激しさを持つものもあった。楽しげな調子だったり憂鬱に沈むものだったり──周囲には幾つもの人影があって、なのに不思議と彼の言葉は容易に聞き取ることができた。
彼は言葉少なに小さく頷いた。そうか、──それならよかった。そう呟いて、……それだけ。それだけしか反応を示さず、また琥珀色のブランデーを傾けた。
──これもまた、珍しいことではない。
彼といる時、話を始めるのはいつも名前の方からだった。名前が話すのをいつも彼は黙って聞いてくれていた。彼は寡黙な代わりにとても聞き上手だった。そしてそれは名前にとって好ましいことのひとつでもあった。
彼の表情に変化はない。静かで、厳かな雰囲気さえあった。
冷たい朝焼け。冬の日の張りつめた空気。或いは……そう、礼拝堂。それも今日見たばかりの教会。サン・フランチェスコ・ダッシジ。ジャコモ・セルポッタの壁画。痛々しい沈黙を守る彫刻に似ていると名前は思った。……どうしてだかはわからないけど。
「特にサンタ・ロザリア教会にはずっと行きたかったから……。本当に素晴らしかったわ。天然の洞窟が生み出す清浄な空気……装飾がないからこその荘厳さ……参拝できてよかった。どうせならお祭りの時がよかったけど」
最後の方は冗談めかして。言うと、けれどリゾットは真剣な声音で「また来ればいい」と答えた。
「また、いつでも。お前が望むなら……」
名前はリゾットを見た。すぐ隣、膚が触れ合うほどの距離。だから彼の些細な表情の変化だって見て取れた。
……ほんの少しの柔らかさ。それは早朝、海辺に落ちる靄。その仄かな明るさを想起させた。それくらいにとてもささやかな微笑だった。
「……ありがとう」
名前は戸惑いながらも微笑んだ。純粋に、彼の親切心が嬉しかった。それも本当だ。でもすぐに思い出した。自分の立場。選択した道を。
「でもあんまり遊んでばっかりはいられないわ。きっと戻ったら……ううん、そうでなくちゃならないのよ、私はこれまでの分も、……頑張らないと」
一週間後、名前はアメリカに帰国する。そう決めたのは名前自身だった。自分で選択した道だった。けれど言いながら、迫る別れに胸は痛んだ。
名前がイタリアに来たのはスタンド使いを生み出す『矢』を追いかけてのことだった。その過程でリゾットたちマフィアと知り合い、共に戦い──ナポリに平穏を取り戻した。『矢』の所有権は正しい者に移り、名前としては当面不安はなかった。
すべてが上手く運んだ。今後も『彼ら』と共に街を守っていこうと思った。そうしたいと名前は望んだ。『彼ら』も受け入れてくれた。歓迎してくれた。それが何より嬉しかった。
──そんな折だった。幼馴染みが苦境に立たされていると知ったのは。
名前は何も知らなかった。友人伝いに聞かされなければずっと知らないままだった。まさか幼馴染みが一人で抱え込んでいただなんて。……そのせいで、彼の家族が苦しんでいるだなんて。まったく知らなかった。自分のことで精一杯だった。
だから名前は帰国することにした。SPW財団の一員として。かつて邪悪な吸血鬼を倒した者として。その恨み、憎しみを背負う覚悟を決めた。幼馴染みが請け負ったそれを、少しでも肩代わりしたかった。そうすることで彼と彼の家族を救いたかった。幸せになってほしかった。
「……どうしてお前が我慢させられなきゃいけないんだ?」
だから彼にそう問われても穏やかに答えることができた。
「大切な、仲間だからよ」
それだけだった。でも名前にとってはそれで十分だった。
彼は──承太郎は、ひとりだった。彼の周りには多くの人がいた。彼を慕う者たちが。でも承太郎はひとりだった。彼は孤独に戦い続けた。誰にもその心中は明かさず、悲しみも寂しさもひとりぼっちで。
──そんなだったから、名前は。
「それならオレはどうなる?お前に見捨てられたオレは?」
「見捨てる?」
「そうだ、お前に去られたら……オレは独りだ」
彼はグラスを置いた。溶けきらなかった氷がくたりと沈んだ。それは萎れゆく花に似ていた。どこか物悲しい光景だった。
名前はまじまじとリゾットを見た。
……最初は揶揄われているのかと思った。
でも違った。彼の目は真っ直ぐだった。熱い焔が揺れていた。静かに、けれど確かに。
それは名前の自由を凌駕するには十分だった。目を奪われ、名前の頭は真っ白だった。「見捨てる?」どうして、と問う声もどこか遠い。どこか遠いところで問うのをぼんやりと聞いていた。
「あなたは独りじゃないわ、仲間がいる。そうでしょう?」
浮かべた笑みは先刻よりもずっとぎこちない。それでも笑うしかなかった。取り成すように、笑うしか。
しかしリゾットは笑わなかった。「いいや、」その声には相変わらずの静けさがあった。でも強い意思が感じられた。強固な意思でもって彼は首を横に振った。
「オレは独りだ。そうだろう?……確かに仲間はいる。でもあいつらは家族じゃない、恋人や妻にはなれない」
名前は自分が聞き間違えたのかと思った。聞き間違えたのではないならおかしいと思った。そうでなければまるで、まるで──
「それじゃああなた、告白してるみたいよ」
バカな、と笑い飛ばしてほしかった。そうじゃあないんだ、オレが言いたかったのは……そうした反応を期待していた。とんだ自惚れだと呆れてほしかった。なんだか祈るみたいな心地だった。
しかしリゾットがそれに応えることはなかった。
彼は名前を射竦めたまま、「お前は聖ロザリアだ」と言った。
「聖ロザリア、シチリアの救世主……、アーモンドの白い花、春のアグリジェント。それから聖母、メッシーナの描いた『受胎告知のマリア』……」
「リゾット?」
「……そしてオレはひき蛙」
そこでリゾットは自嘲するように口角をつり上げた。
「ひき蛙だ。お前に拒絶された、泥沼の夜鳴き鶯……。『我が胸のこの苦しさに較べたらエデンを追われた原人のあの悲嘆なぞさながら牧歌』……」
名前はもう何も言えなかった。饒舌な彼に驚き、思考は停止寸前だった。
そんな中でも思い出すものはある。ひき蛙。彼は自身をそれに例えた。名前の足元を掠め、夜闇に消えていった影。名前が怯え、振り払ったものに。
「あれは……」名前は必死で頭を巡らせた。「あれは、びっくりしただけよ」それは喘ぐような声だった。苦悶に喘ぐ声。名前は縋るような思いでリゾットを見上げた。その瞳の奥に横たわるのは痛々しいばかりの冷笑。そうしたものを取り除くことだけを今の名前は考えていた。
「厭じゃないわ、全然。本当よ、あなたがあの蛙だったとしたら、私……」
「名前、」
その時名前の手に彼のそれが重ねられた。テーブルの上、打ち上げられたように置かれていた手の上に。彼はそれを重ね、緩やかに、けれど確実にその身を包み込んだ。びくりと震える肌をも、まるごと。
名前は言葉を失った。指先が燃えるようだった。彼がこんな熱を持っていただなんて今の今まで知らなかった。その労るような手つきも、熱に浮かされた眼差しも。……それを心地いいと思うことすら、この時名前は初めて知った。
「その言葉が慰めであるなら、この手を振り払ってくれ。そして今すぐ帰るんだ、お前の望んだ地へ、」
オレを置き去りにして、と彼は言わなかった。言わなかったけれど、そう続くのだと名前にはわかった。そしてもう二度とこの温もりを感じることはないのだと悟った。もうこれっきりだ。この心地のいい温かさは名前の許から失われる。──そう、永遠に。
「……ずるいわ」
名前はくしゃりと笑った。そこには痛みがあった。痛みを抑えながら、名前は泣き笑った。
切り捨てたのは己の半身。そんな気分だった。幼い時から傍らにあったもの。かけがえのない存在。不変的な愛情をこの時名前は失った。失うのだと、理解した。
「ずるいわ、リゾット。私にそんなこと……できるわけがない」
それでも振り払うことはできなかった。もう二度と。彼の手を振り払うことが名前にはできなかった。不変的な愛情よりもずっと不確かな、けれど今隣にある温もりを名前は選んでしまった。選んでしまったのだと痛感し、名前は痛みに泣いた。
「名前……」
そんな名前をリゾットは抱き締めた。名前を追い詰めたその手で優しく抱き締め、「ありがとう」と囁いた。
──それから、「愛してる」とも。
「愛してる。お前を、お前だけを……名前、生涯愛しつくそう」
誓いの声を聞きながら、名前はその背に手を回した。自分よりもずっと大きな、なのに自分の言葉ひとつで頼りなげにすらなる彼を。何ものにも動じない彼が名前ひとりのためだけに悲しんでくれたことに、改めて深い感慨を覚えた。……愛おしいと、思ってしまった。
それが答えだった。名前は彼の腕の中で目を閉じた。
懺悔の声はその胸に溶けていった。それでももう名前に他の道はなかった。今自分を必要とする人、縋るように──或いは恐れるように──抱き竦める温もりだけがすべてだった。
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アンケートより、リゾットで略奪愛でした(いまいち略奪感ないですが……)。ありがとうございました!
トリスタン・コルビエール『ひき蛙』
ポール・ヴェルレーヌ『ある女に』より引用。