普賢真人×(引きこもり+無口)道士3


 西岐の都、豊邑は牡丹の花期を迎え、人々は遊賞のために花圃へと挙って繰り出していた。
 世は宴、なれど名前の毎日はといえばさほど代わり映えがしない。籠る場所が崑崙の邸から西岐城の一室へと移っただけ。己に割り当てられた部屋か、はたまた城内の膨大な書架か。そのどちらかにいることが殆どであった。
 この日も例に漏れずその予定であった。西岐の街を自室から見下ろす名前は、轟く車や馬の音についてもまったくの他人事。平和なものだと一人頷いていたところ、部屋を訪う声がひとつ。

「……何の用?」

「いや、用はねぇけど」

 訪問者は道士の黄天化とその弟、天祥である。面識はあるが、それは西岐に着いてからの話。親しい仲ではなく、こうして部屋を訪ねてくるのは初めてのことだ。
 訝しむ名前だが、その視線にも天化はちっともめげない。

「ずっと部屋に籠ってるだろ?たまには外に出た方がいいさ」

「って、太公望が気にしてたよー!」

 付け加えたのは天祥である。彼は兄から「それは言うなって」と小突かれながら無邪気に笑っている。何がどうしてそんなに楽しいのだろうか?
 子供の考えることはわからない。わからないから、苦手だ。

「……そうなんだ」

 名前は言葉に詰まった。
 天化だけならいつもの通りに『心配無用』と突っぱねることができた。でも相手は天祥である。何を考えているかわからない子供。だから冷淡にもなりきれない。さすがにその程度の良心は名前にも残っている。あの太公望が心配していたというのは疑わしいが、それを聞いたこの兄弟が気にかけてくれたのは事実だろう。
 名前は迷った挙げ句、「でも気にしないで」と首を振った。

「一応時々は外にも出てる。部屋の掃除もしてるし、城内の衛生環境を悪化させるようなことはしない。だから心配しないでと太公望にも伝えておいてほしい」

「んー……、そういうつもりで言ったんじゃねぇと思うけど」

「じゃあどういう意味?」

 訊ねると、天化は頭を掻いた。なんだかちょっと困った風だ。天祥も不思議そうに兄を見上げている。

「……まさか、」

 言いづらそうな雰囲気。空気に、名前ははたと思い出す。

「太公望は私のこと『変わってない』って笑ってるんじゃ、」

 西岐に来た当初、太公望に宣言した。『絶対、見返してみせるから』そう言った。過去の自分との決別、名前は変わってみせると太公望に宣言したのに、なのに今の今まで足踏みしている。

 ──だって、何から手をつければいいのかわからなかったんだもの。

 しかしそれが言い訳に過ぎないことは名前自身自覚していた。

「……よくわかんねぇけど、」

 口を開いた天化に思わず身構える。
 が、見上げた青年の顔に浮かぶのは屈託のない笑顔。

「オレたち暇してたんだ。付き合ってくれると嬉しいさ」

 笑って、天化は名前の頭を撫でた。まるで兄弟にするみたいに。
 そして次の瞬間にはその笑顔を悪戯っぽいものに変えた。

「何せ楊ゼンさんも宝貝人間もいねぇからなぁ。いい加減退屈してきちまって」

「なっ!わ、私はあなたたちの退屈しのぎになんて……!」

「名前お姉ちゃん、一緒に遊んでくれないの?」

「うっ」

 天化の物言いに反射的に反発するが、天祥の曇りなき眼に名前はたじろぐ。

 なんと純粋な──罪悪感を掻き立てられる眼差しだろう!

 断る自分が悪人みたいじゃないか。
 気づけば名前は「そうとは言ってない」と否定していた。否定して、それから自分の言った言葉に頭を抱えた。何故自分で自分を追い込んでいるのか。

「ほんと!?やったー!」

 これでは、断れないじゃないか。

「で、でも何をするって言うの」

「何って……」

「うーん……、鍛練とか?」

 顔を見合わす兄弟の口から出た台詞に目眩がする。

 鍛練、──鍛練だって?

 名前はまじまじと天化を見つめる。それはもう上から下まで。鍛え上げられた腹筋だとかすらりと長い手足だとか、存外整った顔だとかを見つめて、ふらりとよろめいた。

「……無理。絶対無理」

「なんでだよ」

「見ればわかるでしょう。人には向き不向きというものがある。私に肉体労働は無理。不可能」

「体動かすと気持ちいいと思うんだけどな」

「拒絶。却下。禁止。不可」

 ぶんぶんと勢いよく首を振り、後退する。これは戦略的撤退だ。そう言い訳をして、名前は膝を抱える。
 するととまたしても天化に笑われた。「なんでカタコト」それくらいに嫌なのだ、わかってほしい。

「名前お姉ちゃんは修行嫌いなの?」

 部屋の片隅に引きこもっていると、膝をついた天祥に顔を覗き込まれる。透き通った眼だ。緑がかった青色。嫌いじゃない、と名前は思う。

「……戦うのは、好きじゃない」

 そう思っていたからだろうか。
 口からぽろりと零れ出たのは虚勢でも取り繕う言葉でもなかった。紛れもない本心で、ともすると弱音ともとられかねない言葉を名前は出会ったばかりの少年に吐いていた。
 でも天祥は笑わなかった。名前を真剣に見つめたまま、「どうして?」と続きを促した。

「……人が傷つくのは、こわいよ」

「そっか、名前お姉ちゃんは優しいんだね」

「そんなことないよ、天祥。……私は逃げてるだけ」

 名前は自嘲した。
 普賢のように強い気持ちがあっての考えじゃない。傷つく人間を見たくない。人間を傷つけることなんか考えたくない。ただそれだけ。
 それだけじゃ今の乱れた世を生き抜けないのはわかっているのに、なのに体は言うことをきかない。足が竦んでしまう。

「ごめん、天祥。私じゃあなたの退屈しのぎにもなれない」

「ううん、名前お姉ちゃんは間違ってないよ。ボクも誰かが痛い思いをするのはイヤだって思うもん」

「……ありがとう。天祥は優しいね」

 先程自分がされたように天祥の頭を撫でる。それはぎこちない手つきであったが、天祥は擽ったそうにはにかんだ。

「それじゃあボクが名前お姉ちゃんの代わりに戦うね!ボクけっこー強いんだよ、お父さんにも褒められたんだ!」

「それはすごい。あの武成王に認められるなんて」

 天祥の父といえばかの武成王だ。人間界では抜きん出た才覚を持つ男である。元々の才能もあっただろうがあれほどの武勲を立てるのは並大抵のことではない。途方もない努力の積み重ねがあったのだろう。実のところ名前は武成王のことを密かに尊敬していた。
 拍手を送ると、天祥は「えへへ」と相好を崩す。その表情からは父親を尊敬していることが窺えた。微笑ましい親子二人を見るためなら鍛練を覗くぐらいはいいかもしれないと考え直すくらいである。
 そしてそんな天祥に名前はおずおずと口を開く。

「あの、天祥……あなたの退屈しのぎになるかわからないけど、その……」

「うん、なぁに?」

「……私、これから山に入ろうと思うの。あなたさえよければ、一緒に」

 野山にひとり入るのは慣れている。目的は自生する草花を摘むためで、元々今日もそのつもりだったのだ。

「艾……えっと、よもぎの葉が必要で。天祥に手伝ってもらえると……助かる……」

「うん!行く!」

「そ、そう……」

 目を輝かす天祥に名前はホッと胸を撫で下ろす。子供の遊びにしてはつまらない目的だが、喜んでもらえたならよかった。……嬉しいと、思って、名前はそんな自分に驚いた。

「楽しみだなー!ボク山に登るのも好きだよ!」

「よかったな、天祥」

「うん!」

 天祥は兄に駆け寄り、天化は弟の髪をぐしゃりと掻き回す。
 そうしながら、彼は名前に向けて唇を動かした。そこに音はない。だが名前には天化の言いたいことがわかった。『ありがとな』そう言ったのが、唇の動きだけで。





「そういうわけで、今日は薬草を摘みに行ってた」

『そっか、よかったね』

 その夜、名前は日課となっている普賢との通信の中で黄兄弟との出来事を報告していた。
 立て掛けた遠見の鏡には穏やかに微笑む普賢の顔が映っている。彼はいつも変わらない。名前のどんな話にも柔らかな相槌を返してくれる。それは親が子を見るようで、『歳はそう変わらないのに』と名前は口を尖らせた。

「別によくない。結局走り回ることになったし、川に落ちるし」

『あはは』

「笑うところじゃないんだけど」

『でも名前、楽しかったんでしょ?』

 『口許が緩んでるよ』と指摘され、名前は慌てて唇を隠した。
 遠く離れていても普賢にはなんでもお見通しというわけだ。悔しいけど、その点については認めざるをえなかった。