太公望×(姉属性+小悪魔)姫昌の娘6

 
 花信の風が吹き、杏花が揺れる。啓蟄のこの日、人々は挙って西岐城前の広場に集まった。民衆が求めたのは武王──姫発の言葉である。
 民衆の数は五万にも及んだ。そのすべての目が姫発へ向けられていた。でも姫発は目を逸らさなかった。彼はすべてに目を向け、己の言葉で語りかけた。
 名前はそれを舞台の後ろで見守った。胸元で握り締めた手は汗ばんでいた。それが緊張のためか高揚によるものかはわからない。不思議な感覚だった。嬉しいような切ないような、そんな感覚だった。

「男の子の成長って本当に早いんだね」

 呟くと、傍らにいた太公望が口端くちはを持ち上げた。「そうだな」その言葉は肯定であり、称賛であった。彼は姫発こそが王に相応しいのだと確信していた。
 名前も同じだった。だから嬉しくて──でも少しだけ切なくて、名前もまた笑みを浮かべた。

「君たちは明日にでも発つのよね」

「ああ、これ以上は向こうも待ってはくれんだろう」

 それは周の国民にも言えることだ。先日の魔家四将による襲撃では大きな被害が出た。民衆は殷王家への怒りに燃えている。今が好機でもあるのだ。
 けれど太公望は少しも嬉しそうじゃなかった。瞳にはまだ躊躇いがあった。それが彼の優しさだった。名前はホッとした。

「君は変わらないね」

「そりゃあまあ、仙道だからなあ」

「あはは、そういう意味じゃないんだけど」

 名前は改めて太公望を見た。柔らかさの残る輪郭、丸く大きな瞳。並ぶと名前より少しだけ目線が高い。肉づきの薄い体は弟のそれよりも頼りない。
 だが眼差しだけは老成していた。ここではないどこか、遠い未来すら見透かしているようだった。そこに私たちは存在しているんだろうか、と名前は思った。彼にとって私たちは瞬きのうちに消えゆく燭火のひとつに過ぎないのだろうか?

「……また、帰ってきてくれる?」

 見開かれた目とぶつかる。太公望の目だ。青くて深い。だから吸い込まれてしまうんだ。名前の手はそうと気づく前に彼の袖を掴んでいた。

「なんてね。これでお別れなんて寂しいから」

 名前は笑って、手を離した。それは覚悟のいることだった。でももう猶予は残されていなかった。彼らは仙道で、名前は文王の娘だった。ただそれだけ過ぎず、望みを果たすには背負うものが多すぎた。名前は文王の娘として、そして武王の姉として戦以外の手段で彼らを支えたいと思った。
 しかしその手を太公望は掴んだ。

「名前、」

 それはいつかの再現だった。でもその時とは違い、彼の声には明確な意思が宿っていた。

「わしはおぬしにも共に来てほしいと思ってる」

 群衆の声がどこか遠い。繚乱の花どもも視界には入らない。芳しい息吹だけが名前の頬を撫でていく。
 名前の脳裏に浮かんだのは『花開き花落つ二十日』という句だった。花開き花落つ二十日、一城の人皆狂うが如し。まさしくその通りだ、と名前はぼんやりと思った。私は気を違えてしまったんだ。私も、──彼も。

「どうして?」

「……わからん」

「軍師さまなのに?」

「わしにだってわからぬことはある」

 胸を張るようなことじゃないのに太公望は堂々と言い放つ。すっかり開き直っているのだ。名前にはその答えが何よりも必要だったというのに。

「そっか、……そうだよね」

 でも名前は頷いて、ひとり納得した。胸には安堵があった。何もかもを見透かすような目をしてる彼にもわからないことはあるのだ。そしてそれが嬉しいと名前は思う。思って、おかしくなって、名前は笑った。

「いいよ、君がそう言うなら。……ううん、違うな」

 変化を恐れるくせ、変わっていく彼に喜びを抱く。
 その理由を知るのはいつの日か。けれど彼と共に変わっていくなら怖くはなかった。楽しみにさえ感じられた。

「私もホントはそうしたかったの。だから乗ってあげる」

 名前は太公望の手を握り返した。
 太公望もまた表情を緩めた。それは心からの安堵で、彼も緊張していたのだと名前は諒解した。二人して何をやってるんだろうと思った。でも悪い気分じゃなかった。むしろ清々しくさえ思われた。

「でもその代わり私のことはちゃあんと有用に使ってよね。御輿にされるだけってのはイヤ。私の主義に反するもん」

 名前はトン、と太公望の胸を突いた。
 名前にだってそれなりの矜持がある。文王の娘という存在がただそれだけで士気を高めるのだと言われても素直に頷くことはできそうになかった。
 「ちなみに私は弓が得意です」畏まって言うと、太公望は「知ってる」と返した。「おぬしがじゃじゃ馬だというのもな」そんな揶揄いにさえも感じるのは喜びだった。

「そうだよ、だから……ね?」

「わかった、わかった。だが無茶はさせられん」

「それは私が文王の娘だから?」

「まぁ、それもある」

 歯切れの悪い言葉に、名前は頬を膨らます。

「可愛くない答え。やっぱりやめようかな」

「お、おい……」

 ツンと顔を背けると太公望は慌てた。軍師が形無しだ。こんなお粗末な演技に騙されるなんて、と。名前は思いながら、堪えきれずに笑み溢す。

「……なんてね」

 名前はつま先立つ。首を伸ばし、太公望の頬へ。

「嘘だよ、君と一緒に行く」

 初めて触れた肌は自分のよりも冷たいものだった。でも胸にこみあげるのは温かな熱だった。照る日差しさえ輝きを増すかのようだった。

「お、おぬし……」

「あ、怒っちゃやだよ?隙だらけの君も悪いんだから」

 なんてことない風を装うと、太公望はがくりと肩を落とした。しかしその手はまだ頬を押さえたままで、彼が意識しているのは明白だった。
 今はそれで十分だ、と名前は声を転がして笑う。呆れられたっていい。ただもう少し──せめてこの戦いが終わるまでは──彼の側にいたかった。