ディエゴ√【1891.3】


原作完結後設定。





 柔らかに差す木漏れ日。きらきらと輝く池の水面。ロンドンにある公園のひとつ、ハイド・パークを名前は散歩していた。
 その視線の先には戯れる水鳥が二羽。微笑ましい光景に思わず口許が綻んでしまう。

「見てディエゴ、水鳥がいるわ。何を話しているのかしら。楽しそうね」

 名前は己をエスコートする手に腕を絡ませた。正式に婚約者となった青年、ディエゴ・ブランドーの逞しくも上品さを失わない腕に。
 遠慮なく身を寄せることができるようになったのはほんの二月(ふたつき)ほど前のことだ。なのにこうしているのを当たり前のように感じている自分が少しだけおかしかった。
 波乱と陰謀に満ちた北米大陸横断レース──スティール・ボール・ラン。その幕が下ろされたのもまた同じ頃で、レースの覇者である青年はしかしつまらなそうに鼻を鳴らした。

「鳥頭風情が知的な会話を楽しめるものか。賭けてもいいが奴らはいずれ自分が死ぬということすら理解してないね」

「もう、ディエゴったら」

 名前は呆れた。目の前のこの人が社交界を賑わしていたなんて俄には信じがたい。野心を隠す必要がなくなった途端にこれだ。こんな様子では百年の恋も冷めよう。

「こういう時は詩のひとつでも詠むものではなくて?」

「どうしてオレがそんなことしなくちゃあならないんだ」

「そりゃあ『春の緑の森の一瞥が齎す感動はすべての賢者以上に様々なことを教えてくれる』からよ」

「ワーズワスのことは尊敬してるさ。子守唄にはちょうどいい退屈さだってな」

 偉大なる詩人に対してもこの態度。傲岸不遜を体現する婚約者にさすがの名前も溜め息を吐きたくなる。どうしてこうも皮肉ばかり思いつくのだろう。
 でもそれがディエゴという男で、彼を選んでしまったのは他でもない名前自身だ。だから諦める以外に道はない。

「あなたに情緒を求めるのが間違いだったわ」

 知的な会話だけを楽しみたいならクラブにでも行けばいい。半ば本気でそう思い、名前は悲しくなった。
 様々な誤解が取り除かれたとはいえ、ディエゴとの間には未だ拭えぬ隔たりがある。そのうちのひとつが価値観の相違であり、それが完全に払拭されることは永遠にないのだとこの時また痛感した。

 ──温もりを感じたいと思うのは私だけなのかしら。言葉が欲しいと、そう願うのは。

 ……わからない、何もかも。

 普通の恋人たちの在り方すらも想像がつかなくて、名前は途方に暮れた。
 恋愛劇ならまだわかる。小説やオペラで飽きるほど見てきた。でも現実は違った。当たり前の顔で恋を語る世の人々が、名前には未知の生物のように思えてならなかった。

「おい、」

 自然離れる手を、しかし引き留めたのはディエゴだった。彼は名前の腕を掴み、その腰を抱き寄せた。それこそ劇の中のワンシーンみたいに。
 ディエゴは名前を見下ろしていた。感情の読み取れない目。婚約者を腕に抱いて、彼が考えることとはいったいなんだろう?己の名を上げる以外のことで彼が頭を働かすとは到底思えなかった。

「……離してちょうだい。ここは舞踏会でもなんでもないのよ」

 名前は言った。にっこりと笑ったのはせめてもの矜持だ。こんな些細なことで傷つくなんて思わなかった。自分がこんなに弱いなんて、知りたくなかった。
 ディエゴは僅かに目を見張った。でもそれだけ。それだけで、彼は手を離した。

「……そうだな」

 二人の間を冷たい風が通り過ぎた。今日は少し肌寒い。散歩に出たのは間違いだった。冬ももう終わるというのに、世界はこんなにも冷ややかだ。
 気まずい沈黙の中を名前は歩いた。なんだか無性に泣きたくなった。或いは誰かにこの苦しい胸のうちを聞いてもらいたかった。
 でもそう考えて、いったい誰に打ち明けられるのだろうと思い至った。母はいないし、父になどもっての他。貴族の友人にだって話せないし、心許せる友は遠い異国の地だ。そのことに思い至り、軽い絶望が名前を襲った。

 ──私にはもうディエゴしかいないのだわ。

 この冷たい、氷のような男以外は。





 だがだからといって今さら結婚を取り止めることもできないし、その決意さえ名前の胸には湧かなかった。それに傷はいずれ癒えるものだ。数日が過ぎ、一週間経つ頃にはもう諦めの方が勝っていた。
 ディエゴのあの性格は今に始まったことじゃない。彼が甘い言葉を吐いてくれるなんて期待する方が間違っていた。私を必要としてくれた、それだけでいいじゃないかとすら思った。どうせ手に入らないと思っていたのだ、少しくらい天秤の重さが均衡でなくても──そのうちに悲しみだっていずれ鈍化する。

「いらっしゃい、ディエゴ」

 だから次に訪問を受けた時、名前は平然と微笑むことができた。あの日のことなどまるで覚えていませんといった風に。
 装いは完璧だった。更衣室(ドレッシング・ルーム)で確認した通りの姿。無駄なところなどひとつもない。侯爵家の人間としてあるべき姿を鏡は映し出してくれていた。
 なのにディエゴは眉を顰める。『なんだそれは』とでも言いたげな顔で客間を横切った。かと思えば名前の顎に手をやりおとがいを上向かせ、あまつさえ親指の腹でその目許を乱雑に拭ってくる。
 そして一言。

「まったく、いったい何を塗りたくってるんだ?」

 何もかもが一瞬で、名前には抗議の声を上げる暇さえなかった。目を白黒させ、呆けた頭で彼の言葉を反芻するので精一杯。
 それからやっとのことでその内容を理解し、名前もまた眼差しを鋭くさせた。

「それはこちらのセリフよ。いったい何をなさるの?せっかく刷いた真珠が取れてしまったじゃないの」

「いいだろ、そんなものお前には必要ない」

「必要か必要じゃないかくらい自分で決められるわ」

 男の人にはわからないことだ。陶器のようと讃えられる膚を保つのにどれほどの苦労があるのか、見映えのいい体を作るためにどれほどの我慢があるのか。顔色の悪さを隠すために真珠の粉を刷く必要があるなんてこと、彼にはきっとわかりっこない。

 まして、あなたの前では少しでも美しくありたいだなんて。
 ──そんなの、絶対に言えるわけがなかった。

「それで?本日はいったいどんなお誘いをいただけるのかしら?以前お話しした自動車の件ならまだよ、馬車業者がなかなか折れてくださらないそうで……」

「いや、今日はそういう話をしに来たんじゃない」

「では何かしら?」

 訊ねると、ディエゴはらしくもなく言葉に詰まる。「何って、」それはだな、と言ったきり後が続かない。
 名前は訝しく思い、改めて目の前の男を眺めた。知らない人でも見るかのように。見つめて、そこでやっと彼が小脇に抱える荷物に気づいた。

「そちらの箱はなに?」

 随分と立派な包みだ。でも中身はさっぱり見当がつかない。だから名前は笑って、「私への贈り物かしら」なんて冗談めかして言った。
 そうだったらどんなにいいだろう、と名前は思う。ディエゴが私のために悩んでくれたのなら。でもそんなのはあり得ない。あり得っこない。ディエゴは侯爵家を手に入れた。だからもう必要ない。ディエゴが私に何かを贈るなんて、そんなの今さら──

「……そうだ」

「え?」

「──だからッ!そうだと言ったんだ!!」

 怒声が客間を揺らす。耳慣れない衝撃に、対して名前は目を瞬かせるばかり。思考は鈍り、たった今の発言すらも夢だったのではと疑いが拭えない。
 名前はディエゴをまじまじと見た。今度こそ本当に知らない人のようだった。目の前で耳を赤く染め、唇を噛み締める青年が、冷ややかな婚約者と同一であるとはとても思えなかった。

「いったいどうして、」

「それは……」

 呆然と唇を震わすと、ディエゴは視線をさ迷わせた。しかしすぐに力強さを取り戻し、嘲りに唇を歪めた。

「それはお前の格好が気に入らなかったからだ。ただそれだけ、深い理由なんてない」

「つまりその箱の中身はドレスってことね?」

「……あぁそうだよ!」

 最初は悠然としていたディエゴだったが、名前が確信を持って訊ねると投げやりな調子で叫んだ。その勢いのまま白い箱を開き、中に入っていた布を名前に押しつけてくる。
 お陰で受け取るしかなくて、名前は促されるがままに綺麗に畳まれていた布地を開いていった。

「……きれい」

 現れたのはエメラルドの色。体の線に沿って流れる作りのドレスだった。胸元から裾まで続くレースは繊細に編まれ、見る者に清廉さだとか純粋さを感じさせる。けれど今すぐ着てみたいと思うのは吸いつくような手触りのためだけではない。

「まるであなたの瞳のようね」

「はぁ?」

「私、あなたのその目が好きよ」

 百年の恋が冷めるのも一瞬なら、燃え上がるのだってまた一瞬のこと。名前は微笑んで、ドレスを抱き締めた。
 必要なのは確かな言葉だと思っていた。でもどうやら違っていたらしい。
 だってディエゴは相変わらずで、「ふん」と素っ気ない返事しか返してはくれない。きっと『どうして?』と訊ねたって正直に答えちゃくれないだろう。まして、愛を囁くことなんて。
 なのにちっとも悲しくならないし、窓から差し込む光が眩しいくらいだった。
 春はもう間もなくだ。その予感に、名前の胸は踊った。

「それにしてもよくサイズがわかったわね。知らない間に採寸でもされたのかしら?」

「そんなのしなくたってわかるだろう」

「わからないと思うわ、普通なら」

 ここは羞じらってみるところなのかもしれない。でも名前には普通なんてわからないから、笑ってディエゴの腕に自身のそれを絡ませた。
 普通の恋愛なんてわからない。わからないけれど、でもそれでいいと今なら思えた。どうせ彼は普通じゃない。ならちょっとくらい形が歪でもいいのではないかしら、と。そう考えて、名前はディエゴの頬に唇を落とした。