ロンドン、メイフェア地区の一角。名字家の
約束のない訪問は礼儀に反するというが知ったことか。ディエゴがどんな無礼を働いたって執事やメイド風情に口は出せない。それは名字家の一人娘がディエゴの婚約者であるからだ。使用人たちが頭を下げる様を楽しんで、ディエゴは彼女の部屋へと向かう。
気分がよかった。ディエゴは鼻歌混じりに階段を上がる。広大な敷地、荘厳な屋敷、華美な装飾。何よりレースが終わって以来可愛らしく好意を表すようになった婚約者のことを思えば、なおさら。
しかし彼女の部屋の扉を開け、ディエゴは思わず顔を顰める。
「おかしいな。オレは我が婚約者どのに会いに来たんだが」
重厚な扉の先には先客がいた。我が物顔で寛ぐ、先客が。
「わたしも彼女を訪ねてきたんだ、ディエゴ。お前と同じだよ」
答えたのは硬質な顔立ちの男──ではなく、その格好をした女性。ホット・パンツは不快を露にするディエゴにも動じない。淡々と事実だけを並べ、その様子が益々ディエゴを苛立たせる。
ディエゴはつかつかと歩み寄ると、長椅子に座る婚約者の前に仁王立ちした。
「おい、どうしてホット・パンツがここにいる?こいつが忠誠を誓うのは我が女王ではなく、ローマ法王だったと記憶しているが」
ついでに言えば彼女の向かいはオレの指定席だ。当然だろう、婚約者なんだから。
だというのに今そこに座しているのはホット・パンツであったから、なおのこと腹が立つ。『彼』が実際は『彼女』だろうがそんなのはどうだっていい。性別なんて些末なこと。ディエゴにとって自分の所有物に手を出される以上に癇に障ることはなかった。
ディエゴのこの性格は婚約者の名前だって承知しているはずだ。しかし彼女は呑気にも「宗教は自由よ」などと宣う。まったく嘆かわしい。どうしてこんなにも懐柔されてしまったのか。
名前に言っても埒があかない。ディエゴはそう考え、ホット・パンツに視線を戻す。
「おい、さっさと国へ帰るんだな。そろそろ愛しの神様が恋しくなる頃じゃあないのか?」
嫌みったらしく言ってやるのは得意だ。これまでも口八丁手八丁で邪魔者を排除してきた。侯爵家の一人娘に邪な思いを抱く男は多い。自分もその一人であったことは棚に上げ、ディエゴは身の程知らずの男どものことを考える。
どいつもこいつもみんなして骨のないヤツらだった。いい線いってたと褒めてやれるのはあの憎たらしいジョッキーくらいなものか。その男も今は遠い異国の地。表立って邪魔立てする者もいなくなり、気持ちのいい日々を過ごしていたというのに。
──なのに、『こいつ』ときたら!
「悪いけどわたしには名前との約束を破るつもりはない。あなたたちの式にはちゃんと参列する予定だ」
ホット・パンツはちらりとも動揺しない。落ち着いた所作でティーカップを傾けている。とことん神経を逆撫でするやつだ。かつては手を組んだこともあったが、今だったら考えられない。
「お前を招待した覚えはないんだが」
「私が呼んだのよ、ディエゴ」
苛立ちを隠しもしないディエゴに、名前が代わりに答える。
まるで言い聞かせるかのような調子。『だからホット・パンツを責めないで』と言外に言われ、ディエゴは臍を噛む。
なんだってこうも庇い立てするのか。ディエゴにはわからない。こんなことになるなら初めて会った時から断固として近づかせなきゃよかった。そう、他の多くの男たちと同様に。
「彼女にはお世話になったでしょう?それに私にとっては大切なお友達ですもの」
「そう言ってもらえるとわたしも嬉しい」
──そうすればこのオレを差し置いてこいつが歓待を受ける様など見なくて済んだのに!
見つめ合い、微笑みを交わすふたり。
ホット・パンツの手元が空になると、名前は目敏く二杯目の紅茶を注いでやる。侯爵令嬢手ずから、異国の修道女に対して。肩書きに囚われることなく、名前は甲斐甲斐しく世話を焼く。
その顔はいやに楽しげで、ディエゴはそれ以上の皮肉を呑み込んだ。恐らく言っても無駄だろう。それに口にしたなら今度は名前の方が機嫌を損ねかねない。以前の二の舞は御免だった。
ディエゴは「そういや」と澄ました顔で口を開く。
「使用人がひとり、君に伝えたいことがあるって言ってたな」
「私に?何かしら」
「さあな。もしかするとお父上がお呼びなのかも」
名前は不可解な面持ちで小首を傾げる。急ぎの用件はなかったはずだけど、と考えているのが手に取るようにわかる。いったい何の用があるのかしら。気にはかかるけど、中座するのは礼を失する行為だわ──と。
だからディエゴは「行ってきたらどうだ?」と扉の方を顎でしゃくってみせた。
「でも……」
「わたしのことなら気にしないでほしい。あなたが戻るのを待っているわ」
ホット・パンツが言うと、名前はホッとした顔をした。オレが勧めた時には躊躇っていたのに!まるでこいつの方をこそ尊重しているみたいじゃあないか、とディエゴは不満を抱く。が、露ほども面には出さない。
彼女が「少し失礼するわね」と部屋を出ていくのを見送り、その姿が見えなくなってから笑顔を仏頂面へと変えた。最早取り繕う必要はない。
それはホット・パンツも同様で、名前に向けていた柔らかな表情が幻だったかのようである。
「それで?わたしに何の用だ」
「用なんてないさ。だからさっきも言った通り帰国を勧めてやってるんだが」
「何度も同じことを言わせるな。わたしの友人は名前であり、ディエゴ、お前じゃあない」
主の消えた部屋にあるのは先刻まではなかった張りつめた空気。語調は鋭く、二人の間には火花が散る。
ホット・パンツは目を逸らさない。ディエゴを睨み据えたまま、「まあいい」と女にしては低い声を発した。
「わたしもお前には言いたいことがあったんだ」
「言っとくが宗旨変えする予定はないからな」
冗談を言うディエゴにもそれを聞かされるホット・パンツにも笑顔はなかった。どころか、ホット・パンツはそんなの聞こえていないといった風。無感動に聞き流し、渋い顔のまま口を開く。
「聞いたぞ、お前……また名前を傷つけたらしいな」
その言葉に、ディエゴは片眉を持ち上げる。
「ふうん?名前がそう言ったのか?」
「言ってない。彼女はそういうことを言葉にしないからな。けどわたしはどうかと思う。物で釣るのは誠意が感じられない」
ディエゴにとって婚約者との口論は日常茶飯事だ。侯爵令嬢のくせに彼女は存外勝ち気なところがある。『上流社会の習慣』という本の中の令嬢ほど大人しい淑女ではない。
でもホット・パンツのセリフから何を指しているのかはすぐにわかった。物で釣る。ということは恐らく先日ディエゴがドレスを贈った一件のことを言いたいのだろう。ディエゴは鼻で笑う。
「別に釣ったわけじゃあない。オレはオレの所有物を好きに飾りたいだけだ」
「……呆れたな」
ホット・パンツはこれ見よがしに嘆息した。そして身を乗り出し、「いいか、ディエゴ」と噛んで含めるような調子で続ける。
「お前が思う以上に彼女はいい人だ。お前が思う以上に純粋で、愛情深い。そんな彼女だからわたしは悲しい思いをしてほしくないと思う」
「知った風な口をきくじゃあないか」
ディエゴは鼻白む。
ホット・パンツに何がわかるというのか。片田舎の修道女風情が?ここは英国、アメリカじゃあない。まして彼女とは生きる世界が違う。名前は彼女を友人と呼んだが、本音を言えばそんなもの必要ないとさえディエゴは思う。
名前が頼れるのはオレだけでいい。そのために彼女の元からは親しい者たちを遠ざけてきた。家族も、社交界も、──ジョースター家も。
それで果たして名前は不幸になったのか?──いいや、そんなことはない。事実、彼女はディエゴの手を取り、将来を誓った。その
「こんなことお前に言ってもムダだろうが……お前は彼女をもっと大事にすべきだ」
「肝に銘じておくよ」
尤も、その忠告が役に立つ日はこないだろうが。
ディエゴはにっこり笑って、ティーカップを手に取った。半分ほど残った紅茶は既に冷めている。中座した名前のものだから当然だ。他にあるのはホット・パンツの前にあるティーセットだけ。
でもディエゴは新しいものを頼むことをしなかった。あえてそのままにし、名前のティーカップを空にしてやった。そんなことができるのもこの世でたったひとり。そう考えれば気分がいい。
ホット・パンツは『やれやれ』と肩を竦める。
「……まったく、少しは素直になったらどうだ?本当は好きで好きで仕方がないくせに」
「……ハァ?」
訳知り顔に、ディエゴは眉根を寄せる。何を言っているのかさっぱりわからない。見当外れのセリフを吐くホット・パンツは突然頭がおかしくなったのだろうか?ディエゴはあやうくカップを落としかけ、慎重にソーサーへと戻した。
「誰が誰を好きだって?もういっぺん言ってみろ。……いや、言わなくていい、聞く価値もない。ホット・パンツ、まさかお前の頭脳がそこまで間抜けだとは知らなかった。がっかりだよ、もう少し賢いかと思ってたんだがな」
口早に言い募るのは、ホット・パンツに口を挟む余地を与えないためだ。しかし人は呼吸をするもので、ディエゴが息継ぎをする間にホット・パンツはすかさず口を開く。
「好きなら好きでそれを言葉にするのもひとつの勇気だ。お前に必要なのはつまりそういうことなんだよ」
相変わらずの落ち着きぶり。ディエゴが忙しなく足を組み換えている前で、彼女は悠然とした所作でサンドイッチを口に運ぶ。その様が憎らしくて、ディエゴは喉の奥で唸った。叶うなら今すぐその口を塞いでしまいたい。
「ごめんなさい、結局勘違いだったみたい」
しかしディエゴが行動に移すより早く、部屋に光が差し込む。
燃えるような黄金の髪に、澄んだ海の瞳。その姿は光を纏っているようで、見慣れたディエゴも咄嗟に目を細める。華やかなイブニングドレスでない時の彼女は少女のように可愛らしかった。──あくまで、客観的に見て、の話だが。
「誰も何も用事なんてないって言うし、なのにそのくせ『少し待ってから戻った方がいい』なんて助言をくれるのよ?ねぇホット・パンツ、あなたにこの意味わかる?」
「いや……」
名前は樫色のドレスの裾を捌いて長椅子に座る。迷うことなく、ディエゴの隣に。
ディエゴは名前を見た。彼女の首筋からは甘い匂いがした。花の持つ香気。彼女には白のクレマチスが一番相応しい。蒼い目に見つめられ、そう思う。
「ディエゴ、今度は何を企んでいるの?なんだかみんなして隠し事をしているみたいよ」
「まさか」
ディエゴは微笑む。ホット・パンツの意味ありげな視線は気にならなかった。必要のないものは視界の隅でぼやけていた。
「悪かった、どうやらオレが聞き違えたらしい」
「本当かしら。彼女に何か話したいことがあったのではなくて?」
「とんだ誤解だ。まさか名前、このオレが教会なんていう退屈なもので満足するとは思ってないだろうな」
「……それもそうね」
手を取り、こんこんと説く。
名前は手袋をしていなかった。剥き出しの膚、ディエゴよりもずっと小さな手。それ自体が輝くほどに白い。労働を知らない手が、なのに不思議と嫌いになれない。母親のとはまったく違うのに、思い出すのは温かな感触だった。
「……そんな顔しておいてよく言ったものね」
ホット・パンツの呟きを無視して、名前の指先に口づける。
他の誰が何を言ったって構いやしない。最後に名前が選ぶのはこのオレだ。頼るのも、信じるのも、口づけを許すのも、このオレ以外の他にいない。
それを実感し、ディエゴは得意顔をホット・パンツに向けた。完全なる勝利である。