アバッキオの妹になる]T


 この街の朝は最悪だ。四車線もあるはずの通りなのに車は遅々として進まない。道路にはちょっとの隙間しかなく、四方八方からクラクションの音が溢れていた。
 だがこの渋滞は今に始まったことじゃない。毎朝の日常で、だというのにちっとも改善しようとしない住民にオレはうんざりしていた。

「まぁまぁ、落ち着いてくださいよギアッチョ先輩。こんなのいつものことじゃないですか」

「だから余計ムカつくんだろうがよォ〜」

 赤のロードスター。愛車の助手席に座る後輩が取りなすように言う。が、宥めすかされたところで苛立ちが晴れるわけもない。
 本当だったら朝の混雑が始まる前に帰路につくつもりだった。予定が狂ったのは『標的』が普段と違う行動を取ったためだ。そのせいでオレたちの仕事もずれ込み、気づけば夜が明けていた。

「オイオイオイなんだってこんなとこに車が停まってんだ?ここはてめーの家じゃあねぇぞ」

 路上に違法駐車した上バールに行っていたらしい男へ向けて、オレは思いきりクラクションを鳴らした。一度、二度、三度。叩くと、それに応える音が前方から響いてくる。揶揄うみたいな調子。リズムをつけて鳴らされるクラクションに、オレは「クソッ」と舌を打つ。

 どこの誰だか知らないが人をコケにしやがって!

「あっ、ちょっと動き始めたみたいですよ」

 首を伸ばして前の様子を窺っていた名前がのんびりと言う。
 「どうせすぐ止まるんだろ」吐き捨てた通り、車は数秒後に再びの立ち往生。いっそ乗り捨てて歩いた方がよほど早く目的地に辿り着けるんじゃないだろうか。けど愛車を放り出すわけにもいかず、オレは溜め息を吐く。

「すみません、予定通りだったらこんなことにはならなかったのに」

 後輩を責めてるつもりはない。ないのに、でも名前は申し訳なさそうに肩を縮こまらせた。
 下がる眉、伏せられた目。哀れを誘う表情だ。メローネがみたらなんと言うだろうか。メローネなら、プロシュートなら。奴らがいたら、たぶんきっと責められるのはオレだったろう。

「……別に、気にしちゃいねぇよ」

 オレは居心地悪く窓の向こうに目をやる。
 こんな混雑だというのに気にしている奴はあんまりいない。この街の住人はこれが当たり前だと思ってる。困惑も焦燥も、そういうのは旅行者だとか外部の人間だけだ。
 道の端で狼狽えている若者を見つけ、オレは哀れんだ。残念だが時間通りにバスが来ることはない。少なくとも、この街では。
 オレは隣に視線を戻した。名前は気づいていない。普段は喧しい口も今は閉ざされている。
 けどだからってオレが何か言わなきゃいけない義理もない。兄貴分を自称する誰かさんとは違うのだ。思い浮かべるのは意外と世話焼きな仲間の顔で、お陰でオレの口は勝手に開く。

「わかった、しょうがねぇから貸しにしといてやる」

 貸しだの借りだのは正直なところどうだっていい。だがこうでも言わないと名前が納得しないのは何となく理解していた。いつもは呑気なくせ、変なところでお堅い。クソ真面目ぶる様子だけは北部の人間に似ている。

「……了解しました!」

 オレの予想通り、『貸し』という言葉ひとつで名前は目を輝かせた。その手が作るのは敬礼の仕草で、いやに様になっている。

「ギアッチョ先輩に借りひとつ、と……」

「メモ取るようなことかぁ?」

「念には念を、です。忘れたら困りますからね!」

 打って変わって鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気。なんでこんなのが嬉しいんだかオレにはさっぱりだ。チームの奴らもだいたいがネジの一本や二本外れているが、こいつもその中のひとりだとオレは思う。メローネとは違う意味で生きていくのがめんどくさそうだ。
 そんなことを考えている内に几帳面な作業も終わる。ペンとメモ帳を仕舞い、しかしそこで何かを見つけたらしい。名前は「あれ?」と首を傾げ、目を細めた。

「どうしたんでしょう?あの方、随分と落ち着きがないようですが」

 名前の目はオレをすり抜け、その向こうへ。視線の先を追いかけ、オレは「ああ、」と得心がいく。なんだ、やっと気づいたのか。

「さあな。バスでも待ってるんだろ、それかこの道を渡りたいのか」

 名前が注目しているのは先程オレが哀れんだ人間だった。名前と同じか、それより歳上といった具合。正確なところはわからないし興味もない。でも東洋人が年齢不詳だってことはオレも知っている。
 その大人と子供の間くらいの旅行者はまだ困っているらしかった。そんなに不安ならその辺のおっさんにでも聞けばいいのに。そう他人事に思う。仮にオレがその場に居合わせたとしても面倒はごめんだし、そもそも声をかけられることもないだろう。
 でも名前は違う。バカみたいに真面目でお人好しのこいつは「ちょっと聞いてきますね」と言ってドアを開けた。

「オイ、オレが車を止めるのはこうして渋滞が起きてる間だけだってのは理解してるか?」

「ええ、わかってます。私が戻るまでに進んでしまったら置いていってくれて構いません」

 『お前の帰りは待たない』と暗に告げる。と、名前はあっさり頷いた。
 真剣な目だった。絶対に有言実行するって顔。たとえここから歩きで帰る羽目になったとしても後悔はないと。これは何を言っても聞かないなと悟って、オレは諦めた。

「一秒だって待たないからな」

 名前は「はい!」と元気よく答えて駆けていった。名前すら知らない赤の他人の元へ。駆け寄り、身ぶり手振りを交えて話しかけた。
 それをオレは運転席から眺めた。車は一向に進まない。でももうクラクションは鳴らさなかった。どうせこれまでだって亀の歩みだったのだ。今さら急に混雑が解消されるわけがない。
 そう思いながら、オレは前方と道端で話し込む名前を交互に見やった。
 名前は旅行者(仮)の話を熱心に聞き、かと思えば目の前のパン屋のオヤジに声をかけている。そいつもまた人の良さそうな顔をしていて、旅行者(仮)に気の毒そうな表情を向けていた。
 でもすぐに問題は解決したらしい。名前は旅行者(仮)に手を振って、また走り出した。名前にとっては幸いなことに、車は僅かにしか進んでいない。オレにとってはまったくの不幸である。

「終わったのか?」

「はい、なんとか。恐らくはもう大丈夫だと思います」

 助手席に乗り込む名前はつらつらと事情を語る。曰く、旅行者(仮)は留学生で、今日が初めての登校日だったとか。そしてオレの予想通り、予定時間を過ぎてもバスが来なくて困っていたらしい。

「でも同じ学校に通っている方が毎朝あちらのパン屋を利用されているという話を聞きまして。これはちょうどいいと、パン屋の主に紹介を頼んできました」

「ふーん」

 名前の説明をオレは聞き流す。だって旅行者だろうと留学生だろうとオレにはなんの関係もないことだ。

「んなこと自分で誰かに頼めばいいだろ」

「仕方ないじゃないですか、まだイタリア語は不慣れなようでしたから」

「けどおまえとは普通に喋ってた」

 そう言うと、名前は得意そうに鼻を鳴らした。

「私、日本語には多少覚えがあるので」

 そういえばそうだった。オレが上の階に引っ越してきたやつと揉めた時もこいつが口を挟んできたのだ。
 その時の相手が日本人で、名前がオレの代わりにやり取りをしたらしい。お陰だなんて認めたくないが、オレが昼寝から目覚めるとすべてが解決しており、オレは再び安眠を取り戻すことができた。
 それを思い出せばなおさら貸しだの借りだのはどうでもいいんじゃないかと思う。

「へー、そりゃあよかったな」

「わぁ、他人事ですねぇ」

 思うけど、だからって口に出すことはしない。オレはメローネやホルマジオとは違うのだ。ただその分少しくらいの我が儘には目を瞑ってやらないこともない。
 オレは頬杖をついて背凭れに寄りかかる。渋滞の終わりは相変わらず見えてこない。でもさっきまでよりは落ち着いて待つことができた。それが続くのは恐らく数分程度のことだろうが。