ミスタの妹になる]T


 厳粛なクリスマスが過ぎ、騒々しい正月も終わった。窓の向こうはいつかと同じ曇り空。時折雪がちらつくほど外界は冷え切っている。
 ぼくがそれを実感したのは新聞の一面に踊るバーゲンサルドの文字で、けれどそれすらどうだってよかった。楽しそうで何よりだ、と他人事に思う。

「まぁだ落ち込んでんのかよォ〜……」

 溜め息を吐くと、隣でノートを広げていたナランチャに呆れられる。いつもと同じリストランテ。なのに彼の反応は以前とはまったくの逆。いつもなら彼のバカな解答にぼくの方が呆れていたのに、今のナランチャは年上ぶった顔で「大丈夫だって」と無責任にぼくを励ました。

「確かにオメーはちょっと怒りっぽいけどよォ〜……、悪いやつじゃないってのはみんなわかってるよ」

「それ、ビミョーにフォローになってねぇからな」

 突っ込みを入れたのはぼくの向かいに座るミスタだった。ブチャラティやアバッキオはいない。二人には仕事があった。でもこんなことならぼくが行けばよかった。二人には『たまには休め』と言われたけれど、でもここでじっとしてたって何にもならない。嫌な考えばかりが堂々巡りを繰り返す。
 ミスタは彼の妹と同じ色の目を細め、「けどナランチャの言うことは尤もだぜ」と笑った。

「名前も別にお前のことが嫌いになったわけじゃないって」

「……けど好きでもないんでしょ」

 それじゃあ何の意味もないのだ。

 ミスタと話していると自然彼女のことを思い出し、ぼくはまた肩を落とす。
 十二月の終わり、ぼくは恋を自覚した。名前に告白して、それで呆気なくフラれた。いや、フラれたというのもちょっと違う。彼女は苦悶の表情を浮かべ、ぼくに言った。

『そんなつもりじゃなかったのに──』

 その言葉は、ぼくに途方もない衝撃を与えた。ただ断られるよりもずっときつい。ぼくは彼女に悲しみと苦しみを与えてしまったのだ。
 お陰でその後のことは殆ど記憶にない。気づけばぼくは一人きり、どうやって自宅まで辿り着いたのかさえわからない。ぼんやりと覚えていることといえばぼくを呼び止める名前の声で、でもぼくは答えることなくその場を去った。
 以来、ぼくの元には電話の一本もない。ぼくの方から連絡を取ることも、また。
 そもそも何を話せばいいのかもわからない。今までぼくは彼女とどんな言葉を交わしてきたのだろう?そんなことさえ今はもう思い出せなかった。

「もっとちゃんと話し合えば上手くいくような気がするんだけどなァ」

「オレもナランチャに賛成。名前のやつ、言葉が足りないんだよ。オレからもあいつには言っておくからさ」

「……いいですよ、もう」

 ……ぼくはいったい何をやってるんだろう。

 空しくなって、ぼくは新聞を畳んだ。
 世の中は他人の恋愛話で溢れてる。みんな誰かを好きになって、愛してもらっている。ごく普通の、ありふれたことのように。そうなるのが当たり前みたいな顔をして、みんな生きている。
 それがぼくにはどうにもわからない。他人を好きになるのも難しいのに、いったいどうしたら同じだけの愛情を返してもらえるのだろう?そんなもの、目には見えないのに。どうしてみんな平然と愛し合いされているのだろう?

「そんでお前は考えすぎだ」

 ミスタはそう言って、ぼくの頭を撫でた。
 なに兄貴風吹かせてるんだか。そんなことしたってぼくとミスタはただの同僚だ。ぼくが望んだような家族にはなれない。
 そこまで考えて、こんなことならぼくが彼女の兄弟に産まれたかったと思い至る。ミスタほどいい兄にはなれないかもしれないけど、でも家族だったら名前をあんな風に苦しませずに済んだ。今よりずっと、永遠に近づけた。

 ──すべてが、仮定の話にすぎないけれど。

「……あぁ、もうっ!見てらんねぇよッ!!」

 突如として大きな音がした。ナランチャがテーブルを叩いた音だった。彼は立ち上がり、ぼくに人差し指を突きつけた。

「明日ッ!十時に広場に集合なッ!!」

「は、」

「しょうがねぇからオレが気晴らしに付き合ってやるって言ってんだよ!」

 ナランチャはニッと口角を上げた。
 底抜けに明るい笑顔だった。見ているとこっちまで気が抜ける。ぼくがもしナランチャだったなら名前ももっと笑顔を見せてくれたんじゃないだろうか。そう考え、また落ち込んだ。

「おい!返事は!?」

「あぁ、はい、わかりましたよ」

 たぶん断りきることはできない。……し、ナランチャがぼくを気にかけてくれているのはわかる。
 だからぼくは頷いた。でも同時に感じるのは彼への申し訳なさだった。ナランチャなりに考えてはくれたんだろうが、でもそう簡単に晴らせるほど垂れ込める雲は軽くなかった。

「それでよォ〜……、ミスタに頼みがあんだけど」

「わかってるわかってる。ちょい待ってろ」

 ナランチャがミスタに何事か耳打ちし、ミスタが携帯を手に席を外す。
 その光景をぼくはどこか遠くから眺めた。





 翌日は打って変わっての晴天だった。
 ぼくはいつも通り夜明けと共に目を覚まし、いつも通りエスプレッソメーカーを動かした。すべてが習慣から来るもので、ナランチャに取りつけられた約束を思い出したのは砂糖を溶かしている時だった。
 晴れてはいても冬なのに違いはない。ぼくはコートを着込んで家を出た。
 そういえばナランチャは何をするつもりなんだろう。思えば今日の予定を聞いていなかった。わかっているのは集合場所だけだ。歩きながら、少しの不安を抱く。彼の期待に応えられる自信がない。
 そんなことを悩んでいるうちに約束の広場に辿り着く。広場には疎らに人がいた。特にイベントはないようだ。ぼくはナランチャの姿を探すが見当たらない。時計を見れば指定の時間より十分ほど早かった。ナランチャのことだからたぶん遅刻してくるんだろう。
 ぼくは深々と息を吐いた。石造りの像に寄りかかり、空を仰ぐ。雲ひとつない一面の青。眺めていると、ぼくなんかはとてもちっぽけな存在にすぎないのだという気持ちになる。このまま宇宙の一片になれたらどんなに楽だろう?悩みなどなく、境界などなく。このまま空に溶けてしまえたら──

「フーゴ、」

 声がして、霧散していた意識が帰ってくる。
 ぼくは反射的に振り返った。それが誰の声なのか考えるより早く。いや、たぶん無意識のうちには理解していたのだろう。理解していたからこそ声の主を捉え、言葉を失った。

「よかった、また会えて」

 名前だった。走ってきたのだろうか、白い靄が立ち昇っている。肩で息をして、そうしながら名前はぎこちない笑みを浮かべた。
 元より表情に乏しい質だ。しかし今日の彼女は特別深い影を背負っているように見えた。出会った当初、あの始まりの日に戻ってしまったみたいだ。名前は悲しみや諦め、そうしたものを色濃く纏いながら、強ばった目でぼくを見ていた。

「どうして、きみが」

 ぼくは思わず一歩下がった。でもすぐに背中は石像へぶつかり、立ち尽くす。

 どうして、名前がここに。

 呟きながら、けれど同時にぼくは理解していた。唐突に取りつけられた約束。ナランチャがミスタへ耳打ちする様子。それらを思い出し、『そういうことだったのか』と理解した。
 名前は「ごめんね、騙して」と愁いを眉に乗せた。哀れを誘う表情だった。同情が胸を衝いた。

「でもこうしないと会えないと思ったの。だから兄さんに提案されて、それで私、謝るなら今しかないって。言葉が足りないって、ちゃんと説明しなきゃって、兄さんがそう言って、私もその通りだと思って、だから、」

 今までにないほど饒舌だ。そこまで言いかけて、名前は「ううん、そうじゃない」と首を振った。長い髪が胸を打ち、目許に翳りを落とした。その昏く沈んだ面差しの中で、ぼくを射抜く瞳だけが光を持っていた。

「そうじゃないの、私が本当に言いたいことは……」

 名前が距離を詰めることはなかった。それでもその声が風に打たれる玻璃の如く震えているのはわかった。胸の前で組まれた両手が白くなるほど握り締められているのも。彼女の瞳に溜まった水が、ともすると溢れ出してしまいそうなのも。
 そして彼女は乾いた唇を開いた。

「すき。私は、あなたのことがすき。……本当は、それだけ言いたかったの」

 ──ぼくは、都合のいい夢を見ているのだろうか。

 名前がぼくを好きだと言った。言ってから、彼女は微笑んだ。実に穏やかに、優しげに。はにかみすら覗かせて名前はぼくに微笑みかけた。
 青空の元に見るそれはあまりに眩しいものだった。眩しくて、ぼくには夢のようで、彼女が陽炎の彼方に見えた。
 「今さら、」ぼくは唇を震わした。「今さら、嘘だって言っても聞きませんからね」そんな情けない声にも名前は表情を変えない。遠慮がちに歩み寄り、「うん、」と小さく顎を引いた。

「嘘じゃないよ、ずっと言いたかったことだから」

「じゃあどうしてあんなこと言ったんですか」

「……これまでのことを嘘にしたくなかったから」

 名前は言葉を探して目を伏せる。

「これまで私が言ったこと、全部が下心からだと思われたくなかった。あなたが好きで、好かれたいから言ったんじゃないって。本当に、心から──あなたを尊敬してるのも真実だったから」

「そんなの、……ぼくなんか、たぶん最初から下心だった」

 始まりは勘違いだった。それから彼女がミスタの妹だと知って、そうでなければきっと気にかけることもなかったろう。最初にあったのは同情や哀れみだった。
 だからぼくの方こそ彼女に好かれる資格がない。そう言うが、名前は「それでも嬉しかった」と笑みを深める。

「でも……うん、そういうことだったんだね。やっぱり私が間違ってた。ごめんね、あなたを傷つけた」

「ほんとですよ、本当にぼくは傷ついたんですからね」

「うん、ごめん」

 情けない言葉ばかりが口を衝いて出る。気づけばぼくは泣いていて、名前はそんなぼくの頭を撫でてくれていた。その小さな体でぼくを支えながら、温もりを分け与えてくれていた。
 ぼくは涙で喉を詰まらせながら、彼女の名前を呼んだ。

「好きです。ぼくもあなたが──名前が好きなんです」

「うん、私も好き。フーゴが好き、大好き」

 静かに、けれど確かな熱を持って名前は囁く。
 抱き締めるその顔、表情は見えないけれど、でももう不安はなかった。声には途方もない喜びと溢れる思慕があった。彼女は惜しみなく愛情を露にしてくれた。
 だからぼくも彼女に応え、腰に回す手に力を込めた。もう二度と離れることのないよう、──この抱擁が永遠に続くように、と。