原作沿い数年後設定。ジョルノが病んでます。
ナポリ、カポディキーノ空港。チェックインカウンターが見えてきたところで、名前は時計を確認する。
「意外と早く着いちゃったわね」
余裕を持って家を出てきたから、出発まではまだ十二分に時間がある。しかし今できることといったら、空港の中を散策するくらいなものだ。
さて、どうしようか。そんな気持ちを込めて、名前は隣に立つ青年に目を移す。燃え立つ
見つめ、束の間、名前は夢を見る。陽当たりのいい窓辺。庭に咲き乱れる花と緑。遅い朝を迎えた日に味わう幸福な感覚を。
神の証とでもいうべき彼は、「そうですね」と微笑む。形の良い唇を、惜しげもなく綻ばせて。
これほどに美しい青年が、まさかギャング組織のボスだなんて。つくづく『事実は小説より奇なり』ということを思い知らされる。彼に似合うのは血の赤さよりも教会の純潔なる白だ。そんなことを繰り返し、飽きることなく思考する。
「どうしましょう?コーヒーでも飲みますか?」
ジョルノが視線で示したのはラウンジである。そこでは名前と同じく飛行機の出発を待つ人々が集まっていた。
「別にジョルノまで付き合うことないのよ?仕事だってあるんだし、見送りなんて……」
「気を遣わないでください。ぼく自身があなたの見送りをしたいだけですから」
「でも……」
ジョルノの目にあるのは親愛の情だ。だから申し訳ないと思いつつも否定しきれない。それに名前自身、後ろ髪を引かれる気持ちもある。この街や暮らす人々に対しての感情はとうの昔に愛着へと至っていたのだ。
イタリアから日本へ。組織も立て直しが進み、SPW財団での仕事も一段落した今、名前は帰国の途につくことになった。自分にしかできない仕事はもうここにはない、そう思ったのが決断のきっかけだ。だから寂しく思う気持ちはあれど、前に進まなくてはならない。
──そう、思うのに。
「……それとも、ぼくと二人きりじゃいやですか」
「っ、ううん!そんなこと!」
「よかった」
そんな風に笑うなんて、反則だ。
名前が慌てて否定する。と、ジョルノはほっと目許を和ませた。
綻ぶ唇はあえか。ささやかで、だからこそ胸が詰まる。まるでとんでもない過ちを犯しているみたいだ。覚えのない罪悪感に襲われ、名前は内心で首を傾げる。
どうしてこんな風に思うのかしら?彼が笑えているのなら、それは幸いであるはずなのに──
「じゃあ何も問題はないですね。さ、行きましょうか」
思考は、しかし他でもないジョルノ自身の手によって阻まれる。
笑みを作り物めいたものに変え、ジョルノは名前の手を引く。
大きくて、力強い、てのひら。それは容易くこの手首を被ってしまうのだ、と名前は実感する。出会った頃とは違う。ジョルノはもう、立派なおとなだ。
「……あなたって時々ちょっと強引よね」
「すみません」
「心のこもってない謝罪だなぁ」
「反省しますよ、君が直せと言うなら」
ちらりと流された視線に、名前は狼狽える。「そこまでは望んでないけど」否定の語は、平静を装えているだろうか。わからない。どうして、こんなに胸がざわめくのかも。
金の紗幕、縁取る睫毛の向こう。緑色のはずの瞳が、鈍い赤色を放つのをみた。
「ならいいです。ぼくにとってあなたの望みがすべてですから」
ジョルノが言うと、冗談も冗談に聞こえない。けれど語調が軽やかなものに変わって、名前は強ばりを解く。
今さら、ジョルノ相手に何を身構える必要があるというのだろう?なんともおかしな話だ。気を取り直し、ジョルノの隣に並ぶ。
些細なことが気にかかるのは、別れの時が近づいているからだ。私が離れがたく思うのと同じだけ、寂しさを感じていてほしい。そんな、身勝手な欲のせいだろう。恐らくは、きっと。
「どうせならもっと優しくしてほしいかな」
「?それは、どういう……」
怪訝に寄せられた眉。しかしそれすらもたちまちのうちに溶けていく。名前が手首に回されたジョルノの手をやんわりと解き、今度は自分の方から握った瞬間。驚きに、次いでは蕩けるほどの微笑によって、白皙の美貌に火が灯る。
「……勘違い、してもいいんですか?」
「勘違い?」
はにかむジョルノを見上げ、名前は彼の言った言葉を繰り返す。
最初は、何を言っているのかわからなかった。でもすぐにその言葉が指し示すものを理解し、名前は空いている手で口許を隠した。
「ふふっ……ジョルノなら大歓迎よ」
言うと、ジョルノは笑みの形を少し困ったものに変える。
「……知りませんよ、後悔したって」
「あなた相手に後悔する人なんていないと思うけど」
それが不思議で、でもジョルノには笑っていてほしかったから、名前は冗談めかした本心を口にした。
だって、ジョルノはとても素敵な人だ。優しくて、聡明で、誰かを大切にできるひと。そんな彼に勘違いされたとして、困ることがあるだろうか。彼に愛される人は、きっと幸せものだ。それはもう、羨ましいくらいに。
名前は想像の中のジョルノとその隣に立つ誰かを祝福した。そういう日が来たら、絶対に日本からでも駆けつける。ひっそりとそんな決意までした。
「……そう、ですか」
なのに、ジョルノの顔色は晴れない。苦笑じみたものを浮かべ、前を向く。
「ジョルノ?」
「いえ、なんでも」
そう言ったジョルノの声には頑ななものがあった。たぶん、これ以上詮索したって彼が答えてくれることはないだろう。名前は諦めて、ジョルノの手に身を任せた。
ラウンジに入り、カフェを注文する。ジョルノからカップを受け取り、そしてテーブル席へ。どろりとしたコーヒーを飲むと、寂しさがまた胸をつく。……この苦みは、この国でしか味わえないものだ。
「どうしました?」
「……あはは、やっぱり離れがたいなぁと思って」
対面に座るジョルノに訊ねられ、名前は苦笑する。なんだか立場が逆転してしまった。さっきまではジョルノの方がそういった表情をしていたというのに。
「ならやめればいい。帰国するなんて言わないで、この街に、ずっと」
提案が魅力的だからこそ名前は眉尻を下げる。
「簡単に言うなぁ〜……」
そうできたら、どんなによかったろう。
名前は目を落とす。白いカップの中でさざめくコーヒー。まるで胸のうちを表しているかのようだ。もしかすると面にだって滲んでいるかもしれない。そう考えれば、ますます顔を上げられなくなる。
「……すみません、我が儘言いました」
そんな名前の耳に、沈んだ声が落ちる。
今目を合わせたら、惜しむ気持ちを悟られてしまう。そう思ったから、視線を落としたそのはずなのに、声を聞いただけで名前は弾かれたように顔を上げた。
「わかってます、仕方のないことだっていうのは」
名前の前に座っているのは少年だった。寂しげな微笑を浮かべた少年。悲しみを懸命に堪える姿は、いたいけな子供そのものだ。努めて冷静さを装っているところがなおのこといじらしい。
「もうっ!そんな悲しそうな顔しないでよ」
だから名前は大袈裟なほどの笑顔と殊更明るい声を心がける。所在なさげに置かれたジョルノの手を掬い取り、それを両の手で包み込んだ。懇願の形に。
「笑って見送ってちょうだい。私、あなたの笑った顔、結構好きなのよ?」
にっこり。そんな擬音がつきそうなほどの笑顔はそう長くはもたない。沈黙が続くほど、膚は引きつれ、鈍く痛む。
「……『結構』ですか?『かなり』じゃなく?」
「もー……自分で言わないの」
けれど幸いなことに、ジョルノはとても察しがいい。名前の意図を理解し、優しい彼はすぐに乗ってきてくれた。
普段通りの軽口にホッとして、名前もまた窘める調子を作る。
……よかった。本当に、心からそう思う。だって、ジョルノが私なんかのことで心を煩わせるなんて、あってはならないことだ。私は、ジョルノの幸福を願っている。だから、嬉しいなんて思ってない。彼が寂しがってくれてよかった、なんて。──そんなの、気の迷いに決まってる。
いや、気の迷いにしておかなきゃいけない感情だ。名前は己に言い聞かせ、平時の笑みを象った。
「それにこれっきりってわけじゃないし。私だってみんなに会いたいもの、休暇には寄るようにするつもりよ」
移り住むようになって数年が経ち、愛着の湧いたナポリの街を離れるのは、近年あの『DIO』の残党が再び動きを見せるようになったためだ。配下であった者たちはやはりスタンド使いが殆どで、しかもあの『DIO』にはジョルノ以外にも息子がいるという話もある。となると対処できるのは同じスタンド使いに限られてくるというわけで、それが即ちジョルノの言う『仕方のないこと』に繋がっていた。
しかしだからといってこの街のすべてを思い出にできるほど、名前は強くない。仲間たちにも会いたいし、かつての戦いで命を落とした人々の弔いだって欠かせない習慣だ。つまりこの台詞は名前なりの宣言でもあった。
「あなたって本当に……」
「なに?」
「いえ、みんなのことが好きなんだなぁと思って」
「あら?ずいぶん他人事のように言ってるけど、あなただってその一人なんだからね」
その言い方だと、まるで自分が含まれていないみたいではないか。
名前はむっと眉を寄せ、ジョルノの前に人差し指を立てる。
「ジョルノのことだって大好きよ。それも『かなり』ね。……お言葉を返すようだけど」
彼自身が口にした台詞を用いて、名前は口角を上げる。してやったり、と。
けれどジョルノは「え、」と言うだけで、固まってしまった。だから名前まで戸惑って、「え?」と首を傾げる。変なことを言ったつもりはないのだけれど……。
「なぁに?そんな驚くこと?」
「……当たり前じゃないですか」
一拍おいて、ジョルノは絞り出すような声を洩らす。その表情に、名前は思わず息を呑んだ。
「ぼくも好きです。……あなたが、好きです」
……どうして、そんな苦しそうな顔をするの?
顰められた眉。ぎこちのない微笑。切なげに揺れる瞳に、胸が締めつけられる。喉が渇いて、鼓動が速くて、息ができない。
どうして、なぜ?疑問が頭を駆け巡るのに、いざ考えようとすると頭が上手く働かない。指先に灯った熱が腕を駆け上り、脳まで麻痺させてしまったらしい。
名前は咄嗟に目を逸らす。いけないと思いつつも、そうしなければ窒息してしまうと思った。喘ぐように数度息を吸い、それからようやっと浮かべられたのは、どう考えても平静とはほど遠い笑み。
「う、うん……私も、」
「……好きです」
やっとのことで名前は言葉を返したのに、それすらもジョルノは『好き』の一言で封じてしまう。その目があまりに真剣で、ひた向きで、熱を帯びていたから、名前は視線をさ迷わせるしかない。
「あ、あはは……さすがに照れるね、……っ、」
身動ぎをして、そこで体がいやに重いことに気づく。腕も足も、瞼も、重くて仕方がない。いやそれ以前に力が入らないのだ。
おかしい、と思ったのが契機だったのか。酔いでも回ったみたいに世界が遠退き、視界が狭まる。なのに感覚だけが宙を漂い、名前は意味もなく目を瞬かせた。
「やだ、どうしちゃったのかしら……」
「大丈夫ですよ」
「ジョルノ……?」
足許に、暗闇がひたひたと迫り来る。目を開けていられない。指先から体全体へと巡った熱が、呟きを溶かす。
名前はうっすらとした視界の中で、ジョルノを見た。もはや自分が立っているのか座っているのかさえ曖昧だ。なのに、ジョルノの目が変わらず温かなままなのは名前にもわかった。
「大丈夫です、安心して眠ってください。絶対にあなたを傷つけることだけはしませんから」
「うん……」
だから名前は息をついた。
「そうね、そうよね……、ジョルノがいれば、安心よね……」
それがどうしてだかはわからないけれど。
でも名前は本当に安心して、暗闇に抗うのをやめた。体が崩れ落ちるのがわかったけれど、深い眠りに身を任せた。
「……ごめんなさい。でももう遅いんですよ、……何もかも」
そんな名前の体を素早く抱き留めて、ジョルノは呟く。
眠りに落ちた顔。穏やかな寝息すらたてる名前の頬に触れかけ、寸前で手を止める。その手を拳に変え、握り締めるジョルノの顔には、痛みを堪えるかのような表情を浮かんでいた。