小さな願い


 青空の下、翻るのは満艦飾の洗濯物たち。パン屋の前を横切った時、鼻を擽るのは芳ばしい香り。昼下がりの日差しを浴びて、青果店の陳列台は瑞々しい輝きを放つ。喧しいのは物売りの呼び込みで、落ち着かないのは出入りの激しいバールである。
 そんな通りをシーザーは駆けていく。雑然とした街並みを横目に、坂道のせいで上がる息すらも無視して。親戚の家を目指し、港から伸びる長い道を、ただひたすらに駆けていく。
 着いた先は高台の上。ここからは日差しに輝くナポリ湾や、教会のてっぺんに立つ十字架、ところ狭しと並ぶ建物をすっかり見渡すことができる。
 それらを抱くような形で建つ屋敷は、三、四世紀ほど前に建てられたものらしい。尤も、詳しいことはシーザーも知らない。シーザーにとって重要なのは、この家に自分と同い年の女の子がいるということだけ。病気がちな彼女を見舞うために、ここまで走ってきたのだった。

「……よし、」

 辺りを見回し、それから庭へと忍び込む。玄関は門番の目が光っているから色々と面倒なのだ。シーザーは自分の小さく身軽な体を生かして、緑の生い茂る庭園へと足を踏み入れた。
 辺りを張り巡らすのは背の高い木々。見頃を終えた藤棚はすっかり緑一色だ。鼻を蠢かすと、果樹の花や実の芳しい匂いを感じることができる。
 しかし、それはあくまで庭園の中にいるからこその代物。ベッドの中の彼女にまでは届いちゃいないだろう。……あぁ、かわいそうに!こういう時は慰めてあげなくちゃいけない。それが男の役目というものだ。
 シーザーは責任感に駆られ、建物に沿って立つ木々のひとつをよじ登った。
 シーザーにとって、こんなのは朝飯前。例え片手が少女への贈り物で塞がっていようと、難しいことは何一つない。だから早々に目当ての窓まで辿り着き、そのガラスを軽く小突いた。
 一回、二回、三回。リズミカルに打ち鳴らす。……と、勢いよく窓が開いて、代わりに見えたのは笑顔の眩しい少女。

「シーザー!」

「やぁ、バンビーナ、ご機嫌いかがかな」

 芝居がかった調子で言うと、彼女──名前は擽ったそうに笑う。

「ええ、たったいま。あなたのお陰で、すっかり良くなったわ」

 そうは言うが、まだ顔色がいいとは言いがたい。名前の青ざめてさえ見える肌には未だ疲労の影が残っている。目元などは特に顕著だ。それに少し、痩せたかもしれない。
 「元気になったならよかった」シーザーは答えながら、冷静に名前の様子を窺った。とはいえ勿論、彼女には悟られないように。重たげな瞼や頬に差す赤みを認め、シーザーは「けどベッドに戻った方がいいな」と優しく笑いかけた。

「無理して、また倒れでもしたらたいへんだ。君の親父さんにぶん殴られたって、文句は言えねぇ」

「まさか!お父様はあなたのこととっても気に入ってるわ。本当の家族みたいに……」

 そこまで言って、名前は口ごもる。
 はらりと額に落ちる影。前髪が紗幕となって、表情が窺えない。でも僅かに覗く耳の縁が赤らんでいるのだけは見えた。
 どうしてだろう。何を恥ずかしがる必要があるのか。わからないけれど、シーザーの中にはなんだかひどくやさしい気持ちが込み上げた。
 
「嬉しいこと言ってくれる名前には特別なプレゼントが必要だな」

 だから微笑んで、後ろ手に隠していた花を差し出す。ひまわりの一輪。ああは言ったが、本当は最初から名前に贈るつもりで用意していた。ただ少しだけ、はじらいと躊躇いがあっただけで。
 一輪の花では、飾った言葉に対し少し格好がつかない。でも名前の頬にはパッと彩りが咲いた。

「ありがとう、シーザー!」

「ああ、だから大人しくしてるんだぞ?」

「うん!」

 訪ねてきた自分のことは棚に上げ、兄貴ぶる。同い年だが、名前が疑問を抱くことはない。彼女には他に兄弟がいないから、もしかすると真実シーザーを兄と思っているのかもしれない。
 ……きょうだい。兄と、妹。
 特別意識したことはないが、シーザーの手は自然と名前の頭に伸びていた。自分よりも淡い、金の髪。頼りなげなそれを撫でていると、名前は素直にはにかんだ。その様子を見て、胸が擽ったいような、むず痒いような、不思議な感覚に見舞われる。
 そんなシーザーを窺い見て、名前は言う。

「もう、帰る?」

 訊ねるその瞳に宿るのは、諦めと期待。寂しさを訴える目だが、名前が『帰らないで』と願いを口にすることは決してない。体の弱い彼女は、病が伝染するものだととうに理解していた。だからこその諦念。そしてそんな目をした幼馴染みを放っておくことができないのも、シーザーにとっては当たり前のこと。

「いいや、眠るまでは隣にいるよ」

「……ほんとう?」

「ああ、約束だ」

 首肯すると、名前はほっと息を吐いた。やはり一人は寂しいのだろう。妹や弟のいるシーザーをよく羨ましいと言っていた。
 こういう時、『早く大人になれたら』、と思う。大人だったら、こんな寂しい思いなんてさせないのに。
 名前の部屋には、静寂だけが横たわっていた。シーザーの家にある賑やかさは欠片もない。両親が揃っていても、名前の傍らにはいつも静かな悲しみがある。
 安心したらしい名前はベッドに潜り込む。シーザーの父、マリオが作った、子供用のベッドに。

「おじさまの作るものって、なんだか温かくて落ち着くの」

 シーザーの目に気づいたのか、名前がちいさく笑う。「お日さまの匂いがする」シーザーと、ひまわりと、おんなじね──続く名前の言葉に、誇らしいような気持ちになる。

「おれ、親父みたいになれるかな」

 シーザーは枕元の花瓶に花を挿してやりながら、呟く。
 大ぶりの、ひまわりの黄色。眩しい、イタリアの太陽。父は、大きな声を立てて笑う人だった。見ているとこちらまで愉快になるような、そんな人。
 ……憧れとは、きっとこういうことを言うのだろう。

「シーザーも家具職人になるの?」

 名前のまあるい目がぱちりと瞬く。ガラス玉みたいに澄んだ眸。そこには少しの翳りもなく、シーザーは『そういう意味じゃない』という言葉を飲み込んで、笑った。
 「たぶん、そうなるだろうな」息子は家業を継ぐものだ。それが尊敬する父親であるなら、なおのこと。
 シーザーはベッドの縁に腰掛け、木枠を指でなぞった。父の作った、そして名前の安眠を守るもの。こういうものを、いつか自分も作れるようになるのだろうか?シーザーは、考える。

「いつか、おれが作ったものを名前に使ってほしいな」

「そしたら、部屋中がベッドみたいに居心地よくなるのね」

 名前は、ベッドの上で目を閉じる。マリオのベッドで、シーザーの夢を見る。彼女の頭の中で、未来はどんな色をしているのだろう?その答えは、名前が次に発した言葉に集約されていた。

「それってすっごく素敵だわ……」

 ほう、と息をつく。再び開かれた目は遠く馳せられ、微かに潤んでいる。浮き立つ声音。熱を持った吐息。口許は綻び、幸福の形を作っている。
 幸福。何とはなしに浮かんだ語を、噛み締める。深く考えたことはなかったけれど、その言葉が途端に現実味を伴った。幸福を形にするなら、きっとこういう絵になるのだろう。
 「ああ、」シーザーは答えて、名前の手を握る。柔らかく、簡単に溶けてしまいそうな──手。

「こうしてたら、いい夢見られるかも」

「……うん」

 そうは言ったけれど、シーザーにはこれが何より自分のためである自覚はあった。こうしてたら、今の心地いい空間を永遠にできるのではないか。そんな思いを込めて、名前の手を握った。
 名前はゆっくりと頷いた。すべてわかっている。そう言うかのように。
 部屋の中には心地のいい静寂があった。窓からは乾いた日差しが差し込み、揺れる白いカーテンは清潔の香りがたつ。梢は囁き合い、瞼は眠たげに閉ざされる。
 シーザーは窓の向こうに目をやった。広がる街並みを、教会の十字を、その頂点が天国を指し示しているのを見た。
 ひどく、満たされた気持ちだった。そうであるのが当然で、今こそが正しい形なのだと思った。ここには永遠があるのだと信じて疑わなかった。