歌よ、願うは
晩秋の風はカラカラと乾いた音を立てて落ち葉を巻き上げていく。憂愁。空気には霞がかかり、景色もどこか色褪せて見える。
しかし子供たちときたらそんなことはお構い無し。シーザーの妹たちは貰ったばかりの人形を片手に木陰のなか遊んでいる。輝く目、上がる歓声。楽しげな様子に、兄としては喜ばしく思う。
兄弟が多い分、不自由もまた同等にある。だから一人っ子の名前から人形を譲りたいという申し出があった時はありがたく受け入れた。
──けれど。
「よかったのか?本当に貰っちまって」
無理をしているんじゃないか。そう思って、様子を伺う。
今よりもっと体が弱かった頃、名前は外で遊ぶのを禁じられていた。今だって許されているのはここ──自宅の庭までだ。そんな彼女にとって、人形たちは家族のようなもの。いや、日に一時間しか一緒にいられない両親より、人形たちの方が良き隣人であったかもしれない。彼女が様々な物語を人形たちと共に紡いでいたのを、シーザーは知っている。
しかしそんな心配をよそに。落ち葉を掃く手を止め、同い年の少女は「うん」とあっさり頷き返した。
「いいの、私にはもう必要ないから」
名前は今年で八つになる。それがどういった意味を持つのか、シーザーにはわかっていた。──そう、幼年期の終わりだ。
六歳から七歳までは初等科に属するが、八歳からの二年間は上等科の扱いになる。義務として定められているのも前者の二年間だけ。そこから先は自由教育の時間──大人になる時が来たのだ、と子供たちは悟るようになる。
名前もきっとそのうちのひとりなのだろう。人形遊びの許される時間はおしまい。それを察したか、或いは──家人や使用人に何か言われたか。
「周りの言うことなんて気にするなよ。名前がどうしたいのかが一番大切なんだから」
「……ありがとう」
シーザーは優しいね、と名前ははにかむ。
その瞳の奥を、シーザーは慎重に窺った。自己主張することの少ない幼馴染みが虚勢を張っているんじゃないか。そう、危惧していた。
「でも本当に気にしてないの。だから心配しないで」
けれど不安を裏切り、むしろ名前は晴れ晴れとしてさえいるように思われた。
「今はお勉強するのが楽しいの。新しいことを覚えるのが、楽しくて仕方ない」
「ピアノやお裁縫、絵画のお勉強も楽しいけどね」と名前は言い添えるが、男のシーザーには同意を示すことができない。その手のことは女子の基本的な教養であっても、男子には適用されていないのだ。
軽く教わった経験はあるが、楽しいとは到底思えなかった、とシーザーはかつてを振り返る。特に裁縫ときたら!あんな細々したこと、よく平気な顔でやってのけるものだと感心せずにはいられない。名前なんて、今よりずっと幼いうちから複雑な刺繍を作り上げていた記憶がある。とはいえ理由は明白だ。……部屋の中でひとり時間を潰せるものなんて、読書か刺繍くらいしかなかった。
それを考えれば、『楽しい』という名前の気持ちもわからなくはない。だからシーザーは「頑張りすぎるなよ」と兄貴風を吹かせて、彼女の頭を撫でた。
同い年とはいえ、自分よりもか弱い少女は庇護対象でしかなかった。彼女が「ありがとう」と頬を染めるものだから、余計に。
「それにね、」
名前が口許に手を当て、爪先立つ。
「シーザーにだけ教えるね」
その声音の密やかなこと、シーザーは彼女の意図を察し、僅かに身を屈めてやる。この身長差もいずれは今よりもっと大きくなるはずだ。その日をシーザーが内心心待ちにしているのを、きっと名前は知らないだろう。
「お人形さんがいなくたってお話は作れるのよ。今も私の頭の中にはみんながいて、好きな時に好きなだけ、お話を聞かせてくれるの」
耳朶を打つ囁き。心を擽る、弾んだ声。
「だから大丈夫よ」そう言った、無邪気な笑みを認める。その途端に世界は収束し、多くのものが意識の外側へ散らばった。物悲しい秋の風や色褪せた空の色、枯れゆく葉の匂い。そうしたものが遠ざかり、ささやかな秘密だけが胸を満たしていった。
「すごいな、名前は。頭の中で物語が作れるなんて」
「そんな、大それたものじゃないわ。こんなの本当は誰にだってできるはずのことだもの。それにシーザーの方がずっとすごいわ」
「俺が?」
「だって算数の試験で一番を取ったんでしょう?あなたの可愛い妹さんたちが教えてくれたわ」
名前は眉を寄せた。「私、算数って好きじゃないわ」素直な反応に、シーザーは笑う。
「地理や植物学も嫌いだろ?」
「嫌いじゃないわ、仲良くなれないだけよ」
「そうか、そりゃあ大変だな」
男と女では身につけるべき教養は異なるとされている。だが簡単な計算が求められるのは男も女も同じだ。女性であれば、家計簿をつけられるだけの計算はできるようにならなくてはならない。地理や植物学も同様、基本的な教養とされている。
名前は得手不得手がはっきりしているんだな、と何事もそれなりにこなせてしまうシーザーは思う。そういうところが可愛らしい、とも。
「でも私、歴史は好きよ。最近はインテリア史も勉強してるの」
名前は少し得意気に言うと、箒の柄を地面に向けた。
「こういう……花の紋様が最近の流行りなんでしょう?」
名前が土の上に描いたのは曲線。一見すると複雑に絡み合う蔦のような図案。──これは、アール・ヌーボー様式だ。
緩やかな雰囲気の特徴的なそれを、名前は「穏やかな気持ちになれるから、私もとっても素敵だなって思うの」と評する。
……確かに、よく似合っている。シーザーは、笑みを深めた。
「それじゃあ玄関ホールの壁紙はこれにしよう。応接間は淡い緑がいいかな」
「それじゃあ正餐室は?」
「いい考えがある?」
「うん!あのね、フルーツと小鳥の模様がいいわ。あのイギリスの……モリスだったかしら。あの方の考えた図案、可愛らしくって、私、大好きなの」
壁紙を、カーテンを、絨毯を。決めてから、ようやくどんな家具を置くか相談していく。
名前は少し古典的な様式の方が好みらしく、近頃の装飾の少ない家具はお気に召さないようだった。
「でも明るい色づかいは好き」
肩を寄せ合って、夢を語り合う。
いつの間にか、落ち葉を掃く手は止まっていた。
でもそれを指摘することはなかった。名前も、シーザーも。近い将来に叶えられるはずの夢を語り合うのに夢中だった。──二人して、信じて疑わなかったのだ。