異国のいざない


 サンディエゴ西海岸。青い海と乾いた砂浜、そして強い日差し。空気は爽やかで、遥かな地平線は緩やかな弧を描いている。平時であったならきっと穏やかな時間が過ごせたことだろう。
 しかし残念ながら今、海岸にはレース参加者のための宿泊テントが設けられ、混沌がこの地を満たしていた。香辛料のきつい匂いがしたかと思えば、悪臭が風から滲むのを感じる。またどこかでは怒声が響き、反対では悲鳴が上がる。世界各地から人が集まっているのだ。人種も習慣も宗教も違う。反目するのは仕方のないことだが、対処に追われるスタッフには同情を禁じ得ない。
 と同時に、名前が思い出すのはつい先刻のこと。とある参加者についての問い合わせをしたところ、親切に対応してもらった。しかし申し訳ないことをした、と改めて反省する。忙しいだろうにとんだ邪魔をしてしまった。相手のことを考えられないのは私も同じだ、と溜め息を吐く。

「なんだかとても悪いことをしている気分だわ」

 呟くと、伴として連れてきていたメイドがすかさず「事実、悪いことでしょう」と返す。
 淡々とした語調。事実だけを紡ぐ口。彼女に責める意図はないのだろう。けれどだからこそ良心が咎める。名も知らぬスタッフに対して、──名ばかりの婚約者に対して。

「やっぱり嫌なものなのかしら。つまりその……愛情がなかったとしても」

「人によりますから。お互いに割り切っている場合もあれば、自分が蔑ろにされたと思って不快になる場合もあるでしょうし」

「それならきっと、後者でしょうね」

 言っていて、悲しくなる。
 自分の婚約者が愛とか恋とか語る心を持たない男だというのはとうに理解している──つもりだった。けれど改めて人から評されると胸にくるものがある。
 ……だからといって、彼が他の誰かの手を取るところなど、見たくもないのだけれど。

「でも本当に何でもないのよ?ただジャイロには親切にしてもらったから……気になって」

 ──ジャイロ・ツェペリ。彼のことを考えると、心に爽やかな風が吹く。遠い異国の人なのに、どこか懐かしくすら思うのはどうしてだろう?ずっと昔から彼のことは知っていた、そんな気さえする。
 それがまた罪悪感を駆り立てて、言葉を言い訳がましいものにした。言ってから自覚し、口を噤む。メイドの物言いたげな目が、痛い。
 けれど黒髪のメイドは相変わらず名前を責める語を持たない。それどころか、「そうですね」と肯定さえした。

「あの方が保安官を呼ぶほどの騒ぎを起こしたのは本当のことのようですから。お嬢様が気にかけるのはごく自然なことです」

 これには驚きだ。心がどうであれ、婚約者の目を欺いて、他の男を訪ねようとする。ディエゴとの関係が上辺だけのものとはいえ、背信行為には違いないと名前自身が思っていたのだが、このメイドの考えは違うらしい。
 だから名前は正直に「あなたがそんなことを言うなんて」と驚きを口にした。

「このビーチに来るのにも顔を顰めていたのに」

「それはお嬢様の来るべき場所ではないからです」

 メイドは日傘を操り、名前の目からフランス人の男女を隠した。彼女の語調に表れるのは紛れもない侮蔑の色。それを瞬時にかき消して、メイドは続ける。

「ですがミスター・ツェペリはお嬢様に敬意を払っていらっしゃいましたから。その点で言えば……ブランドー氏よりは、よほど」

「ふふっ、そうね。ディエゴには難しいでしょうね」

 歯に衣着せぬ言い方に、名前は思わず笑みこぼす。貴族の娘ごときに心底からの敬意を払うディエゴなんて想像もつかないし、なんだか滑稽にさえ思える。やっぱりディエゴは今のまま、尊大でふてぶてしい方がずっと『それらしい』。

「それじゃああなたは安心して待っていてね。約束通り、少しお話ししてくるだけだから」

 目当てのテントが見えてきた。スタッフに教えてもらった、ジャイロが使っているというテント。番号を確認して、メイドは頷く。テントの外で待っていてくれるのは、それだけジャイロが信頼されているということだろう。
 名前はテントの前に立ち、大きく息を吸い込む。微かに汗ばむ掌。心臓の音が、耳につく。それは緊張しているという何よりの証だ、と名前は己を俯瞰し、思う。
 ジャイロは、私のことを覚えているかしら?三ヶ月も前の、瞬きほどのひとときを。忘れられていたなら、私はいったいどんな顔をしたらいいのだろう──?

「あれ?あんた、名前か?」

 けれどそれは杞憂であると知る。テントの前、逡巡していた名前の背後から響く声。弾かれたように振り返る、その瞬間。名前は、広大な海や帆の息つく港を視た。ジャイロの元には輝く日差しがあり、和やかな親愛の情があった。

「覚えていてくださったのね」

 安堵から、声が潤む。ジャイロは、変わらない。記憶のまま、朗らかに笑う。「オレがそんな薄情な男に見えるか?」と。

「あんたこそどうした。お嬢さんにゃここはちょいと物騒だぜ」

「そのようですわね。でもわたくし、どうしても一目あなたにお会いしたかったのです」

「……へぇ?」

 ジャイロが前に立つ。それだけで大きな影が落ちる。それでもなお、彼の瞳だけは鮮やかさを失っていない。名前を射竦める目。彼の瞳の緑の色。何となく、名前は棕櫚の木を連想する。
 棕櫚の木、いのちの木、神の都──そこに苦痛やそれに類するものは見つけられない。だから名前は「よかった」と破顔した。

「お元気そうで安心しました」

「安心?どうしてまた」

「だってあなた、大立ち回りを演じてみせたのでしょう?ずいぶんと噂になっていましたわ。立会人も多くいらしたようですから」

「ああ、そのことか」

 このビーチでは日々多くの問題が起きているようだが、それでも昨日の決闘騒ぎはまた特別なものだった。『何が起きたか分からない』と誰もが口を揃えて言う。事実として残ったのは、男がひとり、決闘に敗れたということだけ。その相手となったのが『ジャイロ・ツェペリ』なる人物であると耳にした名前は、居ても立ってもいられず、こうして彼のテントを訪ねたというわけだ。
 しかしジャイロはといえば、そんなこと今の今まで忘れていた風。「大したことじゃあない」と肩を竦める。
 そんな彼の腰には、噂と違わぬ球状のものがふたつ。これが件の盗人を打ち負かしたという鉄球だろうか。視線を走らせ、名前は「覚えがあるのは乗馬の腕だけではないようね」と笑う。飄々としたジャイロに釣られ、言葉が砕けたことには気づかない。

「わたくしもぜひ見物させていただきたかったわ」

「おいおい、人を見世物みたいに言うなよ」

 からりと笑うジャイロは堂々としたものだ。慣れぬ異国の地、一度きりの大勝負が目前に控えているとは思えない。浮わついたところもなく、自然体だ。そんな彼が眩しくて、名前は目を細める。

「しかし、ま、あんたにそこまで気にかけてもらえるとは光栄だ。ありがとな」

「いえ、……あの、実は他にも用件が」

 一瞬視線を落とし、それからまたジャイロを見上げる。
 鼻孔を微かに擽る、異国の香り。両の目まで閉じたならきっと、理想の楽園を視ることすらできたろう。手が届かないからこそ、美しきもの。理解しながらも離れがたく思うのは、憧憬があまりに強いからだろう。ジャイロは名前の憧れた自由を象った存在だった。

「第一レースが終わったあと、ご予定はあるかしら?叶うならその時間をわたくしに預けていただきたいわ」

「なんだ、いやに気が早いな。まだレースは始まっちゃいないぜ?」

「ええ、でも……あなたが第一レースで脱落するとはとても思えなくて」

 その予感は今、話しているうちに確信へと変わっていた。ディエゴとは違う意味で、ジャイロは勝負に強い。だからきっと、彼との縁は終わらない。無論、そこには名前の願望も入っていたのだが。

「第二レースが始まるまで、我が家で歓待させていただきたいの。もちろん、あなたのご都合がよろしければ、の話ですけど」

 彼の厚意に報いるには、それ以外に思いつかなかった。「これがお礼になるかしら」そう、名前はジャイロを窺い見る。
 彼の目に少しでも困惑や躊躇いが感じ取れたら大人しく引き下がろう。結局のところ、これは私自身の望みでしかないのだから。そんなことを考えながら、胸元で両手を握った。
 ジャイロはどう思ったろう。僅かに見開かれた目から伝わるのは驚きだけ。やがてその双眸がゆるりと弧を描き、笑みを形作る。

「……そりゃありがたい話だ」

 滲むのは純粋な喜び──だろうか。そう思ってから、これが都合のいい想像でなければいいのだけど、と内心で苦笑する。一挙手一投足に一喜一憂する自分が、少しおかしくも思う。憧れが強いからこそ、彼の心のうちが気にかかった。

「それをお伝えしたかっただけですの。ごめんなさい、邪魔をしてしまって。これで失礼しますわね」

 またどこかでひと騒動起こったらしい。傍らをスタッフと保安官が駆けていく。それを引き金に、名前は咳払いをひとつ。気を取り直し、調子を改める。
 けれどジャイロは「そんなに畏まらないでくれ」と笑う。

「オレはあんたのよき友人、そうだろ?」

 そう名付けたのは名前の方だ。なのにジャイロは覚えていてくれた。それが嬉しくて、名前も「ええ!」と応じる。

「明日、ゴールで待っているわ」

「ああ。あんたはせいぜい、婚約者の心配でもしていることだな」

 ひらりと手を振って、ジャイロは名前を見送る。その気安さが新鮮で、なのに心地がいい。
 不思議な感覚だ。名前は唇が綻ぶのを感じて、──いつの間にか隣に立っていたメイドの視線に気づく。

 ──しまった。

 締まりのない顔をしていた自覚はあったから、名前は慌てて口を覆う。

「……見た?」

「……いいえ、何も」

 メイドは静かに否定したが、その前に一拍の間があったのは間違いない。見て見ぬふりをされたのだ。
 その気遣いが逆に羞恥を煽って、名前は殊更きつく唇を引き結んだ。