秘する白百合


 カリフォルニア州サンディエゴ。五階の続き部屋スイートから螺旋階段を使い、ロビーに出る。すると広がる大理石の床と繊細な彫り物のされた壁。さほど大きくはないホテルだったが、重厚な造りは名前に好印象を与えてくれていた。
 レースの開催日まではまだ日がある。どうせ長逗留するのなら気持ちよく過ごしていたい。何より当日を万全の調子で迎えてもらうために。
 そう名前は考えていたのだが、しかし当事者であるディエゴはホテルの様子にさしたる興味を示さない。つまらなそうな顔でロビーの中を見渡し、名前の手を引いた。
 環境の変化ですらディエゴには敵わないというわけか。緊張という言葉すら知らなそうな横顔に頼もしいやら肩透かしやら。微妙な心地のまま、名前は彼のエスコートに任せた。

「なんだ?言いたいことがあるなら言えよ」

「いえ、流石ねと思っただけよ」

 ディエゴは片眉を持ち上げる。粗野な物言いと、対照的に引き立てられるのは気品ある容貌。混じり気のない翡翠はブロンドの落とす影のせいでどこか物憂げだ。走らす視線を浴びただけの娘が頬を赤らめるのが遠くに見えた。
 ロビーにいる客の数は多くない。でもその少数の異性すら一瞬で虜にしてしまうのだから恐ろしい。しかもディエゴは特別なことを何一つとしてしていないのだ。
 彼なら一瞥だけで世界の半分を征服できるのではなかろうか。女性たちから送られる秋波を物ともせず受け流す婚約者に、名前は半ば本気でそう思う。彼が共犯者で良かった。

「それなら君だって同じだろう?期待を持たされた挙げ句、成り上がりもののジョッキーに君を奪われた信奉者たちには心底同情するぜ」

「嫌味な言い方をするのね」

「事実だろ」

 名前は言い返しかけ、やめた。
 ディエゴは案外根に持つ質だ。名前が自分の思惑から外れた行動を取った。夢を諦め、未来に妥協した。その過去を未だに掘り返す。もう半年ほど前のことだというのにも関わらず、だ。
 名前は内心でやれやれと首を振った。

「そうね、その通りよ。私が悪かったわ」

「ふん、最初からそうやって素直に頷いておけばよかったんだ」

 言い分を肯定すると、ディエゴは満足そうに笑った。
 やっぱりディエゴの考えることはよくわからない。この関係は打算でしかないのに、ディエゴは時々それ以外のものがあるようなことを匂わせる。

「だいたい君は八方美人が過ぎるんだ、この間だって──」

 ディエゴが持ち出したのは一月ひとつきほど前の話だった。またその件か、と名前がうんざりするほどにこの一ヶ月の間何度も持ち出された話。それはニューヨークからサンディエゴに向かう列車の中で起こった。
 名前は相槌を打ちながらその日のことを思い出した。
 六月のある日、昼下がりを過ぎた午後のことだ。ディエゴの姿が見えなかったから名前はメイドの一人だけを伴って食堂車へ向かった。そこに深い意味はない。ただ気分転換がしたかった。鉄道は世界を一変させる素晴らしい発明だと思うが、密閉された空間に気詰まりを覚えるのは本能的なことだ。
 だから彼──ジャイロとの出会いも偶然の産物に過ぎない。故に尊く、かけがえのないものだと名前は思う。
 本当に素敵な時間だった。紅茶の一杯ほど、ほんの一時であったけれど、彼との会話は今でも色鮮やかに思い出せるくらいだ。
 名前が思いつくままに喋ってもジャイロは決して嗤わなかった。侮蔑も侮りもなく、彼は名前を対等の存在として語った。むしろ自国に関心を持ってくれて嬉しいとさえ言ってくれた。そんなのは初めてだった。性別を理由にしない会話も、それを喜ばれることも。

 また彼と話せたらいいのだけど──

「それで?今日はどこまでエスコートすればいい?」

「え?ええ、そうね……」

 ディエゴは好きなだけ名前を非難し、それで気は済んだらしい。打って変わってご機嫌な調子で名前の顔を覗き込む。
 不意を突かれた名前は口ごもった。見慣れてるはずなのにそれでも時々うっかりすると目を奪われてしまう。
 「どうしようかしら」動揺を隠すため、視線を巡らす。ロンドンよりも乾いた空気。穏やかな気候。ホテルを出るとそれがなおのこと顕著に感じられた。

「そうだわ、海岸に出てみるのはどう?」

 頭上に広がる青空を目を眇めて見る。ロンドンでは一年を通じて曇り空の日が多かったが、アメリカに来て以来太陽を見ることが増えた。それは少し羨ましい。

「昨日は貸本屋を探したいとか言ってなかったか?」

「それも勿論予定してるけど、せっかくの晴天だもの。散歩するにはちょうどいいと思わない?」

「勝手だな」

 ディエゴは呆れた風で肩を竦めた。まるで名前が我が儘を言っているみたいだ。
 でも貸本屋の話をしたのはディエゴに対してじゃない。名前が『そろそろ持ってきた本も読み終えてしまいそう』と言ったのはレディースメイドに対してで、彼女が『では貸本屋を探しておきましょう』と答えてくれたから『お願いね』と頼んだわけだ。ディエゴは横で聞いてただけ。いや、彼は新聞を開いていたから聞いているとすら思っていなかった。まさかだ。
 耳聡い上に記憶力までいいなんて、と名前は驚いた。こんなどうでもいいことすら覚えているなら言動には一層注意を払わなくては。

「別にいいわよ、わたくしはどちらでも」

 ディエゴが嫌だと言うならメイドを連れていくだけだ。気心知れた仲だから、それはそれで悪くない。

「君の考えを否定してるわけじゃあない。いいぜ、素晴らしい提案だ」

「本当かしら」

 内心ではどう思ってるか知れたものじゃない。
 疑いに満ちた目を向けながら、しかし彼の導きに従って馬車へと乗り込もうとした時だった。

「待って。どうしたのかしら、あの馬車」

「なんの話だ?」

「だからあの、ほら、変なところで停まってる馬車があるじゃない」

 ふと目についたのは一台の二輪馬車だった。どこのものだろう?反射的に目を凝らし、紋章がないのに気づく。
 その馬車は道路の端に停まっていた。しかしそこが目的地というわけではないらしく、馬車は斜めを向き、道行く人が迷惑そうに目をやっている。軽い注目を浴びた御者が慌てた様子で席を降り、車輪の下を覗き込んでいた。

「溝にはまったのかしら、それとも車輪が取れたとか?」

「どちらにせよオレたちにはどうしようもないことだ」

 ディエゴは少しも関心を払わない。それより早く馬車に乗れ、と目線で名前を促した。
 名前は迷った。ディエゴの言うことは尤もだ。私が行ったところで何になると言うのだろう?それよりは慣れた御者に任せておいた方がいい。
 迷っている間にも馬車の扉が開き、乗客がひとり降りてくる。乗馬服を着たその人はご婦人方の視線にも狼狽えていなかった。
 そしてその乗客は注目を集めたまま地面に膝をつき、車輪の下に手をやろうとした。

「……ごめんなさい、少し待っていて」

「おいッ!」

 ディエゴの声が背中を追いかける。けれど名前は振り返らない。おろおろする御者と難しい顔をした人の元へと駆け寄った。

「わたくしも手伝うわ」

 近くで見ると自分とさして歳も変わらないことがわかった。でも落ち着き払った横顔は大人びている。どこか遠くを見るような眼差し。それが名前へと焦点を結ぶ。

「君は……」

 訝しむ目に名前は笑みを向ける。

「わたくしは名前、あちらのホテルに泊まっているの」

「オレは……オレはホット・パンツだ」

 ホット・パンツは戸惑った様子だった。でも膝を払って立ち上がり、名前が差し出した手に応えてくれた。握り締めることのない、軽く添えるだけの握手。それは礼儀作法に則ったものだった。
 教養ある人だ、と名前は笑みを深める。そんな人が御者と一緒になって車輪を持ち上げようとしているのだ。やはり声をかけたのは間違いじゃなかった。

「何やってるんだ、戻るぞ」

 二人の手を引き剥がしたのは追いかけてきたディエゴだった。
 彼は名前の肩を掴むと、距離を取らせた。
 随分と乱暴な手つきだ。名前は咄嗟に眉を寄せた。そして肩越しにディエゴを見上げ、「嫌よ」と言い切る。

「あなたは待っていてと言ったじゃない。見たくもないなら部屋に戻っていてくれてもいいのよ」

「そういう問題じゃない。わかってるだろ?」

 ディエゴは名前と向き合うと、言い聞かせるように言った。苛立ちの浮かぶ眸。燃える翠に呑まれかけ、名前は唇を引き結んだ。
 ディエゴの言いたいことはわかる。衆人環視の中、車輪を持ち上げようとする侯爵家の娘なんて嘲笑の的になって当然だ。どうかしている。教養ある娘のすることではない。それは侯爵家だけではなく、婚約者であるディエゴの評判までも落としかねないことだった。
 でも頷くわけにはいかなかった。

 だってきっとホット・パンツは──

「それならディエゴ、手伝ってくれる人を呼んできてくださる?」

「ハァ?なんでオレが」

「じゃああなたがここにいる?具合の悪い馬車と一緒に、注目を集めて?」

「……わかった」

 名前は一人では行動できないし、評判を気にするディエゴもまたそれを許さないだろう。
 だから道は一つだった。

「だが絶対に、絶対に何もするなよ!いいか、……おいお前ッ!彼女には何も手出しさせるんじゃあないぞッ!」

 前半は名前に、後半はホット・パンツに叫んで、ディエゴは踵を返す。この勢いなら数分で助けが来るだろう。

「……なんか悪かったな」

「いいのよ。私が勝手に言い出したことだし、彼を怒らせたのも私だもの」

 ぽつりと溢すホット・パンツに、「気にしないで」と名前は笑みかける。
 よく見るとホット・パンツも整った容貌をしている。荒っぽい言葉遣いとは反対の顔立ちだ。それに微かに花の香りがした。これは百合の匂いだろうか?考え、名前は自分の直感に自信を持った。





「本当に助かった。礼を言う」

 思った通り車輪が溝にはまっていた。ディエゴが呼んできてくれた使用人の男たちと御者の手によってそれは無事持ち上げられ、ホット・パンツは礼儀正しく挨拶をして馬車に乗り込んだ。この先にあるホテルに部屋を取っているらしい。

「まったく、言ったそばからこれだ!」

 去っていく馬車を見送り、姿が見えなくなった途端にディエゴは柳眉を釣り上げた。その形のいい唇から放たれる怒声に名前は目を瞑る。耳が裂けるかと思った。

「あんなどこの馬の骨とも知れない……下賎なヤツらの世話なんて……、いいかッ!金輪際なしだからなッ!!」

 ディエゴは怒り心頭といった様子だ。口を挟む余地を与えず、「だいたい……」と言葉を続ける。

「簡単に触れさせるなんていったい何を考えてるんだ?それともああいうのが好みか?いかにも優男って感じだったな。我が儘な君に付き合えるほど気の回る男には見えなかったが、まぁいいさ、あんなのがいいって言うんなら名前、君の美的感覚はもう手遅れってところだな」

 矢継ぎ早に重ねられる語。理解するより早く次の言葉が紡がれて名前は目を瞬かせる。
 ディエゴの言うことは正しい。だから反論せず聞いていたが、彼がホット・パンツとのやり取りに言及したところで名前は「ちょっと待って、ディエゴ。あなた何を言っているの?」と制止の声を上げた。

「ホット・パンツのことを言っているんならそれは間違いよ」

「何が間違いだって言うんだ?優男ってところか?それなら顔を洗ってきた方がいいぜ。少しは曇った目も晴れるだろうよ」

「いえ、だから──」

 名前は自分の直感を口にしようとして、ハッとした。

 ──そうだ、どうして今まで思い至らなかったのだろう?

 ホット・パンツは体の線が見えない服を着ていた。それだけじゃない。あからさまなまでに男らしい口調、見せた礼儀作法も男性の側のものだった。それは故意に行われたものだ。ホット・パンツは『男』としての行動を意識的に取っていた。だからディエゴも『彼女』を『男』として扱った。

 ということはつまり、『彼女』の本当の性別は隠しておかねばならないということで。

「なんだ?反論があるなら聞いてやるが」

 だからディエゴはこんなにも怒っているのか。
 自分の婚約者が他の男にいい顔をしていたなら当然だ。彼の反応は正しい。問題は名前が『彼』を『彼女』だと捉え、そう考えるのが一般的だと勘違いしていたところにある。故に食い違いが生じた。

「……いいえ。ないわ、反論なんて」

「……やけに素直じゃないか」

「私だって己の非くらい認められるわよ」

 今度こそ本当に申し訳なさを感じ、名前はディエゴに向き直る。

「ごめんなさい、迷惑をかけたわ」

 謝ると、珍しくディエゴが狼狽えた。

「そんなあっさり言われると気味が悪いな。何か企んでるんじゃあないか?」

「何かってなに?彼のことで?」

 「まさか」と名前は首を振る。
 まさか、そんなのあり得ない。でも理由まで言わなきゃディエゴは絶対信じてくれないだろう。
 だから名前は『それ』以外の真実を口にした。

「あんなに真面目な方じゃきっと付き合いきれないわ。……そう言ったのはあなたではなくて?」

 そう言うと、ディエゴは一瞬固まった。
 驚きを表す顔。無防備で、鋭いばかりの眼差しにも温かみが差す。そうしているといつもより幼く見え、彼とは二つしか違わないのだということを思い出させてくれた。
 しかしそれもほんの僅かな一時。瞬きのうちに過ぎ去り、ディエゴは普段の調子を取り戻す。

「そうだ、その通りだ」

 口許にはいつもの自信たっぷりな笑みが滲み、声にも余裕が生まれる。貴公子の帰還である。今まで名前の眼前に突きつけられていた人差し指もほどけ、甘やかに腰を抱き寄せていた。

「やはり君に付き合ってやれるのはオレくらいだな」

 鼻歌さえ奏でそうな声色だ。
 優位を取り戻しただけでこんなに気分が上向くとは。大人びているのか子供っぽいのかわからない。本当に、ディエゴはいったい何を考えているのだろう?
 そんな思考を隠し、名前はディエゴのエスコートを受けた。

 ──ともかく今はレースの成功だけを祈ろう。