ブチャラティ√【ナランチャIFV】


 なにか、甘酸っぱい匂いがする。
 目覚めと共に考えること。──これは、トマトだ。思考しながら、ナランチャは目を瞬かせる。意識の半分は未だ夢の中。夢うつつに、ベッドから立ち上がる。
 自分の部屋のそれではない、けれど見慣れた廊下を通り、居間へと続く扉を開ける。
 途端、胸に迫る、匂いと音。そして光。室内には、春の柔らかな日差しが溢れていた。その中を漂う、芳しい香り。トマト、それからタマネギ。油のジュージューという音がして、ナランチャの腹がひとりでに鳴った。

「あら、ナランチャ」

 おはよう、と振り返ったのは台所に立つ名前。まだ寝間着の上にガウンを羽織っただけの格好だ。軽く束ねただけのブロンドが光を弾いている。そしてナランチャに向けられているのは気の抜けた、穏やかな微笑だった。
 ナランチャは「おはよう」と答え、照れ笑った。ただしそれは子供のようにお腹を鳴らしてしまったことに限らない。今のこの生活が面映ゆく、なのに心地よく感じてしまったがためでもあった。

「ごめん、寝過ごした」

「ううん、時間なら大丈夫よ。むしろ私の方こそ起こしちゃってごめんなさい」

「いい匂いで目を覚ますことができたからむしろツイてるぐらいだよ」

「それならよかった」

 答えながら、名前は作業に戻る。ナランチャはその背中に歩み寄り、手元を覗き込んだ。
 鍋の中で煮え立つのは豆、そしてパスタだ。パスタと豆のトマト煮。この国の朝食らしからぬ献立だが、名前と過ごすようになって以来ナランチャにとっても日常の一端となりつつある。名前は、朝食というものを重要視している。

「コーヒー、淹れるよ」

 名前が「ありがとう」と答えるのを横目に、エスプレッソマシーンに手を伸ばす。何年も使い古された、金属製のマキネッタ。この家の元の主がそのまた父親から譲り受けたもの、らしい。それを名前は今も使っている。……この家と、同じように。
 ナランチャは豆を挽きながら名前を見た。「今日はいい天気になりそうね」名前は笑みを絶やさない。ローマで迎えたあの痛いほどに眩しい朝からずっと、彼女が泣くところを見たことがなかった。

「こういう日に遊びに出掛けられたらよかったけど。ほら、海とか」

「いいね、たまにはのんびり釣りしてみたり。……試してみる?」 

 半ば本気で言ってみるも、名前には冗談としか捉えてもらえない。サボりの提案は、「フーゴに怒られたくはないから」という理由で却下される。でも最初から名前は本気じゃなかった。最初から冗談で、そんな名前が少しだけ憎らしい。

「今日も沢山働けるよう、しっかり食べなきゃね」

 名前は「残念だけど」と笑って、料理を皿によそっていく。テーブルに向かうその背中に、ナランチャは相槌だけを打つ。……自分の半分でも、残念に思ってくれていたらいい。そんなことを、密かに思う。
 考えているうちに止まっていた手を再び動かして、ナランチャはコーヒー豆をマキネッタの中蓋部分に入れ、弱火で加熱していく。そうすると沸騰した水が蒸気圧によって上部へと押し上げられ、サーバーには圧縮されたコーヒーが溜まっていくのだ。
 こう考えると簡単なことのようだが、これが案外難しい。少なくともナランチャにとっては多くの失敗を伴う勉強だった。まず火力の点で調整を誤り、器具を傷つけること数度、火を止めるタイミングに迷うこともしばしばあった。

「けど、ブチャラティは根気強く教えてくれたんだよな……」

 呟きは、薄日の中に溶けていく。
 ──ブチャラティ。
 コーヒーを淹れる時、思い浮かぶのはいつも彼の背中だった。力強く、大きな背中。別れから数年が経ち、気づけばナランチャはかつての彼と同じ歳にまでなっていた。

「何か言った?」

「……ううん、なんにも」

 ──なのに、少しも近づけない。むしろ一層その偉大さが身にしみて、痛いくらいだ。
 首を傾げる名前に、ナランチャは曖昧に笑む。……その心のうちまでは考えたくない。名前にとってのブチャラティがどれほど大切な存在だったかはよくわかっているつもりだ。だから、ブチャラティの名前は出したくない。
 けれどそれは名前のためだけじゃない。これは何より、自分のため。悲しむ姿も、強がる姿も、見てしまったら、自分が堪えられそうになかった。





「それならさ、次の休みにどっか行こうよ。二人でさ」

 ふうっと湯気を吹き消して、ナランチャは向かいに座る名前に水を向ける。何とはなしに。自然さを装って。テーブルの先で、名前はフォークを下ろす。

「海に?」

 ぱちりと瞬く目の色は、不思議なほど澄んで見える。……手を伸ばすのも、躊躇われるほど。

「それもいいし、他にも……名前が行きたいとこなら。例えば……ほら、映画とか」

「映画……」

 朝食を置き去りに、名前は暫し目を馳せる。そしてすぐに笑顔を咲かせ、「それなら私、観たいと思ってたのがあるの」と言った。

「アメリカの……サスペンス映画なんだけど」

「じゃあそれで」

「でもあなた好みかはわからないわ。トリッシュにも怖そうだから嫌だって言われちゃったし」

 目的なんて何でもよかった。だからナランチャは間髪入れず首肯したけれど、対して名前の表情は難しげ。微かに眉を寄せ、思案顔だ。
 実際名前の言うことは正しい。ナランチャが自分から進んで映画を観ることなどないし、まして映画館で二時間ほども座り続けることを思うと今からお尻の辺りがむず痒くなる。
 が、だからといってここで同意を示したら果たしてどうなることか?そう、ナランチャは思いを巡らす。トリッシュに断られたというなら、次に誘うのは誰だろう。ミスタか、フーゴか。それともアバッキオか?その中の誰であれ、自分よりは余程名前と趣味が合うだろう。
 ──オレには詩の巧拙も、絵画の出来も、映画の楽しみ方すらわからない。
 それがたまらなく悔しくて、ナランチャは「バカにするなよな」と殊更大袈裟に笑う。

「オレだってもう立派なオトナだぜ?映画のひとつやふたつ、よゆーで楽しめるって!」

 力強く胸を叩く。が、それを見た名前が洩らすのは堪えきれないといった笑み。

「あら?ついこの間テレビの前で眠りこけてたのは誰だったかしら?」

「あれは……ッ!」

 揶揄いまじりに言われ、ナランチャは口ごもる。
 ……しまった、すっかり忘れてた。
 それはほんの二週間ばかし前のこと。名前が観てるからって、宇宙人が出てくるからって、それなら面白いんじゃないかと思って名前の隣に座ったのに、気づくとソファで眠っているのは自分ひとり。エンドロールの流れるテレビの前、目を擦るナランチャを見て、そういえば名前は不思議な微笑を浮かべていた。

「あれは……ちょっとオレには難しかったっていうか……。信仰がどうとか言われたって、よくわかんないよ」

 そんな風にしか考えられないから、いつまでたっても子供扱いのままなんだろう。映画の中の牧師のように投げやりな気持ちでナランチャは考える。きっと名前もそう思っているに違いない。ナランチャは対岸でコーヒーカップを傾ける名前を窺い見た。
 けれど名前は「そうね」と穏やかに笑うだけ。「本当のことなんか、誰にもわからないんだわ」その眼差しは、あの晩に見た不可解な表情に似ていた。

「それは神様の話?」

「もちろん、神様のことでもあるわ」

「『でも』?」

 訊ねても、名前にははぐらかされる。笑って、煙に巻いて、大人びた顔で遠くに目をやる。名前は、いつもそうだ。ひとりで納得して、本当のところなんて少しも教えてくれない。

「私にとっては、無意味なことなんてなかったの。かつても、今も。……そうであってほしいと、思ってる」

 名前はコーヒーを飲んで、静かに息をつく。

「ナランチャの淹れるコーヒーは美味しいわね」

 出し抜けにいったい何を言うのか。
 驚いて、でも嬉しくて、ナランチャは「ありがと」と頬を掻く。
 名前の言った意味はわからないけれど、ナランチャもそうであったらいいと思う。無意味なことなんてなかった。ブチャラティがいなくなって、その空白を埋めることもできなくて、ただ側にいることしかできなかったけど、でも名前がそこに意味を見出だしてくれればいい。
 そんなことを考えていた手が、名前の続く言葉に止まる。

「ブチャラティが淹れたものによく似ているわ」

 ──どうして今、その名前を出したのだろう。伏せられた目の示すものは?紡がれた言葉の意味するものは?そこにはどんな合図が、或いは予兆が含まれていたのだろう?
 ナランチャは「そうかな」と答える。答える自分を、どこか遠くで眺める。「そうだったら嬉しいよ」心底から思うのに、響きはどこか空々しい。握り締めたフォークがいやに冷たく、鋭利に感じられた。