ブチャラティ√【ナランチャIFU】
本当は、ずっと前から気づいていた。
──ブチャラティの呼吸が、とうに止まっていることには。
夜が明けて、朝日が昇る。澄み渡る青空、満ちるのは晴れやかな朝の光。それはこのコロッセオとて例外ではない。混乱していた人々も起き上がり、やがてそれぞれの日常へと帰っていく。
「ブチャラティ……?」
けれど、ナランチャたちは立ち尽くしたままだった。コロッセオの中、倒れたままのブチャラティを、呆然と見下ろすしかなかった。
どうして、と最初に呟いたのは誰だったろう。口を覆ったのは。目を伏せたのは。涙したのは、果たして誰だったろう。
「どうして、ブチャラティが」
よろめいたトリッシュが膝をつく。唇を戦慄かせ、見開かれた目でブチャラティを見つめる。そんな彼女の肩を、名前はそっと抱き寄せた。
しかしその慰めは、何より名前自身のために行われたのかもしれない。さ迷う視線は、混乱を露にしている。どうして、なぜ。答えの出ない問いに、指先の震えは収まらない。
「どういうことだよ、なんでブチャラティは起き上がらねぇんだ」
一番に駆け寄ったミスタが、ブチャラティの手首を持ち上げる。だらり、と伸びる手は枯れ木のようだ。
ナランチャは、遠い日に見た母親の姿を思い出していた。皮膚の強ばりも、ゾッとする冷たさも、すぐに指先によみがえった。触れなくとも容易に感じられる、あの感触。臓腑に冷たいものが流れ込む。
「……ブチャラティは、もう。ずっと前から、彼は──」
ジョルノが瞳を揺らす。でも立ち止まることはない。一度は伏せ、しかし次に持ち上げられた時、その目には力強い光が瞬いていた。
ジョルノが語るのを、ナランチャはどこか遠くで聞いていた。サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。地下納骨堂。今や懐かしい名前を聞いても、『やはり』という感情が先に立つ。
やっぱりあの時もう、ブチャラティは──
本当は、とっくに気づいてた。サルディニア島で、コロッセオで。戦いの中で、呼吸の数がひとつ少ないことには、気づいていた。
でも言い出せなかった。何かの間違いだと思った。──いや、そう思いたかったんだ。
ナランチャは、この三日間の記憶を辿った。
もしも疑問を口にして、ブチャラティに肯定されてしまったらどうしようって思った。『その通りだよ』って言われて、オレはいったい何て答えればいい?
だから、オレの勘違いだってことにした。エアロスミスのことは、オレが一番よくわかっているはずなのに。オレの尊敬する人がどんな行動を取るかなんて、本当はわかっていたはずなのに。
「……そう、だったのね」
名前の声がぽつりと落ちる。これは、雨の匂いだ。翳りは夜のうちに去ったはずなのに、今にも降り出しそうな気配がある。
ナランチャは名前の様子を窺った。皆、己の中の悲しみと向き合っていた。けれどナランチャは、名前のあまりに静かな声が気にかかった。悲しみや悔しさや、そういうものよりも、強く。
「あなたって人は本当に……」
名前はブチャラティの手をそっと抱いた。青ざめた、左の手。それを持ち上げ、唇を寄せた。
ひどく恭しい仕草だった。教会で見るような、何らかの儀式のような。それでいて親しみ深い──温かな眼差しのまま、名前はブチャラティの冷えきった手に軽く口づけた。
ほんの一瞬のことだった。それこそ、瞬きの間にすべてが終わるほど。
しかしナランチャにはその瞬間が永遠のように思われた。永遠に、変わらないもの。それはいつかどこかで見た絵画や彫刻の類いであり、世界中の誰もが感覚的に理解しているものだった。
名前は微笑んでいた。応じてもらえずとも、ブチャラティへ向ける眸は変わらなかった。
いつだったかにナランチャが見た光景と寸分違わない。生者と死者。遠く隔たってしまったはずなのに、かつても今も二人は変わらない。太陽の黄金と、夜の闇。二人は、元より一対のようだった。
──そしてそれは、永遠のものとなったのだ。
この時、ナランチャは理解した。
名前の目に宿るのが愛情であることを。
──その目を自分に向けてほしいと思った理由を。
理解し、ナランチャはそれを胸の奥底に仕舞うことにした。
あれから、二週間が経った。
すべてが目まぐるしく過ぎていく日々。それこそ、自宅へ帰るのだって久しぶりだ。ジョルノがボスの座に就いてからのことを思い返しながら、ナランチャは夜道をゆく。
街灯も疎らな通りはとうに眠りのなか。感じられるのは自分の呼吸と、足音くらい。時おり吹く風にはまだ冷たいものが混じっている。
「…………」
ナランチャは小さく息をついた。これまでが忙しかった分、気を抜くと様々な思考に足を取られてしまいそうになる。
これまでのこと、これからのこと。凍りついたブチャラティの顔や、膚の感触が思い出され、鼻の奥がツンと痛む。
──名前は、今頃どうしてるかな。
ブチャラティのことを考えれば、自然連想されるのは名前の静謐なる横顔だった。
葬儀の前も後も、名前は泣かなかった。勿論それは他の仲間たちだって同じだった。同じだったけれど、でもナランチャにとって印象深かったのは、彼女の静かすぎる眼差しだった。
どうして泣かないんだろう、とナランチャは思った。泣いたって、誰も責めやしないのに。そんなことを思いながら、隣にいる名前を窺い見た。
名前はピンと背筋を伸ばして立っていた。どこか遠くを見つめる、意志の強い目。固く引き結ばれた唇が、逆に脆く、儚く映った。すぐに壊れるガラス細工は、触れることすら躊躇わせる。
だから、思うことしかできない。
いっそのこと──思いきり、泣いてみたらいいのに。
「……しまった」
そんなことばかり考えていたせいだ。気づけば足は全くのでたらめ、自宅ほどではないにしろ通い慣れたブチャラティの家を目指していた。どころか、もう目前。二軒先がブチャラティの住んでいた建物だという段になって、ナランチャは溜め息を吐く。無意識とはなんと恐ろしいものか、つくづく身に染みた。
足を止め、懐かしいその建物を見上げる。特別な特徴はない、街に溢れた建物のひとつ。だというのに、そこにはもうブチャラティはいないのだと──今ではもう、名前がひとり住んでいるだけなのだと思うと、切ないようなやるせないような、なんともいえない気持ちになる。
「名前……」
呟きは、風に紛れて消える──はずだった。
「ナランチャ?」
唐突な声に、弾かれたように首を巡らす。と、夜闇の中に浮かび上がる星の瞬き。驚きに目を瞬かせていた名前が、道の向こうから駆け寄ってきた。
「驚いた、ほんとにナランチャだったわ。てっきり見間違えたかと……」
ナランチャの目の前で立ち止まると、名前は胸に手をやりながら、まじまじとナランチャを見る。上下する薄い肩、頬を流れる金色。そして何より、冴え冴えとした、紫の瞳。変わらないその色に、ホッと息をつく。
「久しぶりね。それにしてもどうしたの?こんな夜遅くに……こっちに何か用事でもあった?」
「いや、ボーッとしてたらここまで……」
深く考えずに答えてから、ハッとする。
……なにをバカ正直に答えてるんだろう。ボーッとしてたら……なんて、間抜けにもほどがある。あまりに格好が悪い、とナランチャは内心で後悔した。
「ボーッと?」
でも名前は気遣わしげに眉を寄せた。
「それ、働きすぎってことじゃない?疲れてるのよ、きっと。ちゃんと休めてる?」
どうやら名前の中では既に過労として処理されてしまったらしい。「大丈夫?」と、顔を覗き込まれる。
……距離が、近い。
「へっ、平気だってば!そう言う名前こそこんな時間までどうしたんだよ。危ないじゃんか」
不自然に思われてはいないだろうか。跳ねる心臓を抑え、ナランチャは思う。咄嗟に一歩後退りしてしまったが、心配されるのが嫌だったわけでも、名前を傷つけたいわけでもない。
名前は、いったい何を思っているのだろう?見やると、その丸い目はやがて綻び、笑みの形を作った。
「ふふ……」
「なっ、なに笑ってんだよォ〜!もー……」
「だってそんなの今さらじゃない。まさか今頃心配されるなんて思わなくて……」
「それは、」
それは、ブチャラティがいたからだ。ブチャラティがいたから、オレが心配することなんてなかった。
──でも、今は違うじゃないか。
反論しかけ、やめる。「そうだね」ブチャラティのことには触れちゃいけない。そんな気がして、言えなかった。
「でも嬉しかった。ありがとね」
「う、うん……」
はにかみ笑う名前に、曖昧にしか返せない。なんだかうまく誤魔化された、ような……。
「まだ心配?」
笑いながら小首を傾げる名前に、頷き返す。
だって結局、答えてもらえてない。名前は今日、休みを貰っていたはずだ。そういうところ、ジョルノはしっかりしている。なのにこんな夜遅くまで出歩いているなんて……普段の名前ならあり得ない話だ。
「うーん、あなたに心配かけるのは本意じゃないんだけど」
「じゃあ教えてよ。ほら、オレにだって手伝えることあるかもしれないし」
「……優しいね、ナランチャは」
温かな目を向けられ、どきりとする。「そんなことないよ」と口早に否定するしかできない。優しい、なんて。そういうのは、ブチャラティにこそ似合う言葉だ。
「ちょっと相談に乗ってただけなの。ご主人が逮捕されてしまった人の……」
名前の打ち明け話は、気分がいいとは言い難いものだった。
失職し、麻薬の売買に手を染める。やがて家庭内でも暴力を振るうようになる。この街では珍しいことじゃない。けれど話を聞くだけで気が滅入るし、そういう男は放っておけないとナランチャは思う。
「それってもしかしてこの前の一斉捜査で……?」
「そう、ジョルノが警察に話を通してくれたおかげ。彼女ともその縁で知り合って、相談を受けたの。……下っ端の売人じゃあ刑務所から出てくるのも時間の問題でしょう?」
ここまで聞けば、ナランチャにも真相が見えてくる。
刑務所から出てきた男は、きっと妻や子供を探すだろう。見つかったら、また暴力の日々に逆戻りだ。避けるためには、身柄を保護してもらわなければならない。
「その手続きや保護された後のことを話してたらこんな時間になっちゃった」
「それだけよ」と名前は笑う。けれど、目許には僅かに疲労の色が滲んでいる。そんなものを見つけるにつけ、『何も名前がそこまですることないのに』とナランチャは思ってしまう。
「休みの日くらいちゃんと休まなきゃ」
「うん。……でも、」
言葉を止め、名前は目を馳せる。どこか遠くへ、視線を投げ、穏やかな微笑を唇に乗せる。
「ブチャラティなら、きっとそうしたろうから」
二人の間を、風が吹き抜ける。海の向こう、彼岸から吹き込む、湿り気を帯びた風。それが肌にまとわりついて、ナランチャは身動きが取れない。
また、雨が降るのだろうか。心のうちに、切なさが忍び寄る。
「……あのさっ!」
そう思った瞬間には既に身を乗り出していた。
「今から名前の家、行ってもいいかなっ!?」
「え?」
「もてなしとか、そういうのはいいから!なんていうか、久しぶりだし、もっと話したいし……」
名前の驚きに満ちた目に、焦りが募る。思わず言ってしまったけれど、よく考えたら今、名前は独り暮らしだ。そんなところに邪魔するなんて、どうかしてる。
「でもさ、オレ、オレは……」
頭ではわかってた。こんなの、名前に迷惑をかけてるだけだ。ひとりにはしておけない、そう勝手に思って、勝手に押しつけて、都合なんて考えてなくて。
──でも、今の名前を放っておくことはできなかった。
「──本当に、優しいんだから」
呟きに、顔を上げる。月明かりに縁取られた、柔らかな笑み。深い色の目を細め、名前は「もちろん、大歓迎よ」と答えた。
「最近はみんなとも話せてないしね。でもそしたら帰したくなくなるかも」
冗談めかして名前は言う。その手に促され、彼女の家へと向かいながら、ナランチャは思う。
──それで名前の心が癒せるなら、と。
例え冗談だとしても、引き留められたらきっと断れない。そんな予感を胸に、名前の後に続いた。