愛は、すべてのそむきの罪をおおう


 デビルハンターは入れ替わりの激しい職業だ。殉職という形もあれば、辞職の道を選ぶ人もいる。特に公安では名前と顔が一致しないまま去っていく者が多い。
 だから出会いは一期一会。きっかけは大切にしなければならない。そう考えている名前は、廊下の先に見知らぬ顔を見つけて、駆け寄った。

「やあ、こんにちは。偶然だね、アキくん」

「ああ、どうも」

 見知らぬ顔。煤けた金の髪に、まだ幼さの残る顔立ち。その少年は、名前の後輩であり人生の先輩である早川アキの隣を歩いていた。
 だからまず同僚のアキに声をかけた。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、……というわけではないが、物事には順序というものがある。人間は難しいもので、第一印象がその後に大きく影響を与えるのだ。
 本で学んだ言葉を頭に浮かべながら、名前は殊更意識した笑みを顔に刷いた。

「見ない子を連れてるね。新人くん?」

「ええ、ウチの部隊に入ったばかりのやつです。マキマさんの指示で」

「へぇえ?マキマさんの、……そっかぁ」

 マキマさん。その名前に、名前の笑顔は一瞬固まる。
 彼女は名前にとって命の恩人だ。右も左も分からず世界に放り出された時、手を差し伸べてくれた唯一のひと。彼女がいたからこそ今の名前があり、彼女と出会わない生があったなら死んだ方がマシとすら名前は思っていた。
 そんな人が見出だした少年。名前は改めて、目の前の彼をまじまじと見た。──ちょっと目つきは悪いけど、顔の造り自体は悪くない。
 まぁ及第点ってところかな。そんな失礼なことを考える名前を置き去りに、アキは少年を小突く。「ほら、デンジ、挨拶くらいしろ」そう急かされても、少年の反応は何故だか曖昧なもの。ぼんやりとした目で見つめられ、名前は小首を傾げる。

 ──やっぱりここは、先輩の方から歩み寄るべきかな。

「デンジくん、だっけ?はじめまして。私は名前、いちおう公安のデビルハンターをやってる。ようするにデンジくんとは仲間ってわけだね」

 よろしく、と手を差し出す。と、のろのろとした動きで応じるデンジの右手。「どーも……」そう言っている間も、視線は外れない。見つめられすぎて、穴が空きそう。
 しかし名前にとってはそれ以上に気になることがあった。

「キミ、変わった匂いを持ってるね。なんだろ、アキくんちの匂いに混じって、他の何か別の香りもする」

「うちの匂いってなんですか。なんでそんなの覚えてるんですか」

「まぁまぁ、いいじゃない」

 後ずさりするアキとは反対に、名前はデンジとの距離を詰める。「あっ」と声を上げるアキを無視して。
 一歩。踏み出すと、ぶつかる爪先。鼻先が掠め、見開かれた目が眼前に迫る。双眸は薄い茶色。案外きれいな目をしている、と名前は思う。
 そんな彼の首筋に顔を寄せ、すん、と鼻を鳴らす。早川家の匂い。アキが纏うのと同じ洗剤の匂いに混じって、鼻孔を刺激するのはある特徴的な香り。それを名前が見誤るはずもない。
 だって、ひどく嗅ぎ慣れた匂いだから。

「不思議だね。キミ、悪魔の匂いがする。悪魔と人の、混ざり合った匂い」

 顔を上げると、デンジは僅かに目を見張った。

「マキマさんと、同じだ」

「ん?」

「マキマさんにも、似たようなこと言われた……」

「どういうこと?」

 話が見えない。「ポチタが……あ、ポチタってのは飼ってた悪魔なんすけど、そのポチタが俺の心臓になって、」デンジはたどたどしく言葉を紡ぐけれど、どうやら意識が明瞭ではない風だ。

「こいつは人間だけど悪魔になれるらしいです」

 名前が目を向けると、代わってアキが答えをくれる。簡潔、かつどこか突き放したような言い方。けれど仕方のないことだ。悪魔と人間は相容れない。その事実を、名前はどこか遠くから俯瞰する。
 仕方のないことだ。世界は、そういう風にできているのだから。

「すごいね、本物をナマで見たのははじめてだよ、私」

「俺だってマキマさんに言われなきゃ信じられませんでした」

「だよねぇ、びっくり。よっぽどその悪魔と相性がよかったのかな」

 聞き流しかけたけど、デンジは重要なことを言っていた気がする。
 飼っていた悪魔。悪魔を飼う人間。そんなの、初耳だ。普通ならあり得ない。悪魔が人間に飼われるのをよしとするなんて。悪魔が人間を殺さないなんて。……悪魔がその生を擲って、人間の心臓になるなんて。

「仲が、よかったんだね」

「……まぁ、」

 デンジを見ると、彼は少し照れくさそうに頭を掻いていた。溢れ出るのは肯定の語。アキは眉間に皺を寄せていたが、名前の口許は綻んでしまう。
 ひとこと、ふたこと。デンジとの会話はそれだけだったのに、名前の胸には既に親愛の情が生まれていた。

「私ともそれくらい仲良くしてもらえると嬉しいな。改めてよろしくね、デンジくん」

「ハイ……」

「あはは、素直。かわいいね、キミ」

 どうやら彼は異性というものに免疫がないらしい。そう考えれば不可解な反応にも合点がいく。手を握るだけで戸惑い、抱き締めると腕の中で固まる。
 紅潮した頬、耳、熱を持つ肌。そうしたものを感じ取り、名前は声を立てて笑う。こうもわかりやすい好意を向けられて、嫌になるひとが果たしているだろうか?

 ──きっと、マキマさんだって。

 思考の片隅で、キャラメル色の髪が翻る。胸焦がすその姿。しごく当たり前に愛したそのひとのことを考え、名前の胸は踊る。

「デンジくんみたいなひと、好きだな」

 軽く唇を落とし、離れる。触れた頬。少しかさついた肌を押さえて、デンジは呆然と立ち尽くす。信じられないといった顔。やっぱりかわいい反応だ。名前は笑みを深める。囁いた言葉に、嘘はない。

「あんた、何して……」

「挨拶だよ、挨拶」

 「面白がってるだけでしょ」と、アキは呆れ顔。「あんたってひとはいつもそうだ」その後に続く言葉を名前は知っている。マキマさんを見習ったらどうだ、と彼は言いたいのだ。彼もまた、マキマに惹かれる者のひとりだから。

「確かに揶揄いは多分に含んでるけど、でもホントのことだよ。デンジくん、可愛い顔してるし」

「こういうのは生意気な顔って言うんですよ」

「大丈夫だよ、アキくん。キミが公安いちカッコいいのは変わらないから」

 事実、早川アキという青年は整った顔立ちをしている。繊細な鼻梁に形のいい唇。削り出したばかりの氷みたいな双眸すらも美しい。狐の悪魔が気に入るのも納得だ。
 名前もアキの容姿は特別好ましく思っていた。少年時代の彼に讃美歌を歌ってほしかった、と叶わぬ願いに溜め息をつくほど。
 しかしアキにその手の賛辞は効かない。「そうですか」と受け流されて、それでおしまい。
 ……ここで少しは照れを見せてくれたら可愛いのに。名前は口を尖らせるが、アキは涼しい顔を崩さない。

「じゃあ、俺たち見回りに行ってくるんで」

「はぁい。頑張ってね」

 アキに引き摺られるようにして連れていかれるデンジ。彼にも手を振って、「デンジくんも!」と声援を送る。

「気をつけるんだよ。帰ってきたらまた私とおしゃべりしようね!」

 少年の首がこくこくと動くのを確認したところで、二人の姿は見えなくなる。名前は手を下ろし、「ふむ」と腕を組む。

「なんだか忙しくなりそうだ」

 ひとりごち、歩みを進める。向かう先は上司のもと。──まずはマキマさんに確認を取ろう。そう考え、名前は彼女の部屋を目指した。