あなたの神、主を愛せよ
光を背に立つマキマを見た時、名前の脳裏に浮かんだのは『後光の中の聖女さま』という語だった。人の言葉の伝えうる、優婉可憐のことごとく──そんな詩の一節が過り、なんだか拝みたい気持ちになる。
「名前ちゃんどうしたの?ぼんやりして、」
不思議そうに小首を傾げるその仕草。単純なものにすら美しい楽の音が似つかわしい。暗きに坐する民は大いなる光を見、死の蔭に坐する者に光のぼれり!名前は相好を崩す。
「マキマさんは今日もきれいだなぁと思いまして」
「名前ちゃんもかわいいよ」
ありがとう、と答えるマキマに照れはない。しかしそれも当然のこと。賛辞の言葉は名前にとって挨拶に等しい。だからマキマも気に止めず、さらりと受け流す。
彼女が照れるとしたらどんな顔をするのだろう?はにかむのか、顔を隠すのか、平静を装うのか。どんな反応でも可愛らしい、と名前は思う。いつか、そんなマキマさんを見ることができたらいいのに。
願いをよそに、マキマは薄らとした笑みを刷く。
「デンジ君とはどう?仲良くできそう?」
「あれ、そのこと言いましたっけ?」
「ううん、他の人から聞いただけ」
名前の提出した書類を隅に追いやり、マキマは頬杖をつく。
他の人、とはアキくんのことだろうか。名前は考える。でもこんな些末なこと、わざわざ彼が報告するとは思えない。だからといって、他の誰が?あの日、マキマはいなかった。部屋を訪ねたが、留守だった。室内はまったくの無音、窓の向こうに羽を休める小鳥がいるだけだった。
「で、どう?」黄金の瞳は魔的だ。一切の思考を封じる魔性の眼。マキマに対する疑問の言葉はたちまち煙のごとく消え失せる。
「そうですね。素直そうで可愛らしいなぁ、と思いました」
「ふぅん?お眼鏡に適ったってワケだ」
「よかった」とマキマは言う。「仲良くしてあげてね」その言葉は母親というよりは飼い犬に対するそれに近い。愛着、ではあるのだろうが、どこか距離がある。名前はデンジの熱の籠った目を思い出す。
デンジくんはたぶんマキマさんのことが好きなんだろう。でもそれなら──マキマさんは?二人の間にはまだ大きな隔たりがあるように思われた。
──尤も、彼女が誰かに心を許すところなど、想像すらつかないのだけれど。
「マキマさんはどうなんです?デンジくんのこと、どう感じました?」
「うーん、そうだなぁ」
何気なさの中に期待を込めて。訊ねるが、マキマの答えは果たして。
紅差す唇が、ゆっくりと動き出す。
「面白そうだなぁ、って思ったかな」
「面白そう……」
「うん。健気で、犬みたい」
「いぬ、ですか……」
飼い犬のよう、と思ったのはあながち間違いではなかったらしい。
名前はがくりと肩を落とした。どうしてこんな勘ばかりが当たるのだろう。
今度こそはと思ったのに、やっぱりマキマさんは手強い。マキマさんにはごく普通の恋愛をして、しごく平凡な結末を迎えてほしいのに。
「どうして名前ちゃんが落ち込むの?」
マキマは目を細める。薄い唇が形作るのは仄かな笑み。愉快なものを見る目で見つめられても、名前が気分を害することはない。どんな表情でもマキマさんはきれいだ。そんなことを、飽きもせず考える。
でももっと人間らしい顔が見たい。主が愛したという、平凡な人間の顔を。
「人の子らの霊は上に上り、と言うではないですか。……私はあなたに、主が恋い慕うひとであってほしい」
これが名前の偽らざる心だ。本当に、心の底からそう願っている。だから名前は胸に手をやり、蠱惑の眼差しを真っ直ぐ見返した。
マキマは「ふむ」と顎に手をやる仕草。かつて神は『私はあなたと契約を結ぼう』と述べられたという。
しかし彼女の唇はといえば悲しいほどつれないもの。「なるほどね」努力するよ、とは言ってくれる。でも絶対に約束はくれない。
そんな彼女にすら、焦がれてやまないのだから──名前はやれやれと笑った。
「まぁ今はそれで十分ですよ。私もまだ、デンジくんに賭けようって決めたわけじゃないので」
デンジくん。出会ったばかりの少年の、純朴そうな顔を思い浮かべる。
素直なだけではダメだ。健気なだけじゃ飼い犬どまり。それで満足するようならこの女神のようなひとを人間に変えることはできない。そしてそれが叶うとすれば──常人ではないことだけは確かだ。
だから名前はデンジに目をつけた。命の恩人。たったひとりの、唯一のひと。胸を焦がすそのひとを、ただの人間にするために、名前は彼の恋心を利用することにしたのだ。
「名前ちゃんも趣味が悪いねぇ」
昼食のラーメンを啜りながら、姫野は笑う。「なんだってそんなに心酔してるんだか」何故、と問われても生憎答えは持ち合わせていない。名前自身でもわからないのだ。どうしてこんなに惹かれるのかなんて。
「『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認めた』……つまりはそういうことなんじゃないかな」
神の言葉、その行いを、心から信じる。それが神と人との正しい関係だ。マキマへの想いも同じ。出会った瞬間から、囚われていた。
「難しいことはわかんないけどさぁ」そう言う姫野は少し呆れ顔だ。「それって刷り込みじゃないの?」まぁ、そうとも言う。今の名前に姫野の言葉を否定する材料はない。と同時に、それでもいいじゃないかと思う自分もいるのだ。
「手の施しようがないね」
姫野は溜め息をつく。その目はどこか憂いがち。「どうしてマキマさんなのかね」しかしその嘆きは今隣に座る名前に向けてのものではない。バティである早川アキに対しての想いのためである。
「命の恩人ってのは強いからねぇ」
「でもさぁ……はぁ、」
姫野は嘆息と共に意味もなくスープをかき混ぜる。ぐるぐる、ぐるぐる。袋小路。早川アキは、割合頑固な人間だ。彼は復讐のために己の人生を捧げている。それをよしとしている。そんな彼の決意を変えさせるのは並大抵の努力では叶わない、と名前は思う。
その点で考えれば、姫野ちゃんも結構健気だ。
「なぁに?慰めてくれるの?」
頭を撫でる。艶やかな黒髪。前みたいに、もっと伸ばしてみたらいいのに。名前は髪の長い女性が好きだ。でも今のままの姫野のことも気に入っている。
「そりゃあね、大切な仲間ですから」
「私がマキマさんのこと嫌いでも?」
「でも私は姫野ちゃんのこと好きだし」
ぱちぱちと瞬く目。失われた半身は、彼女の強さの証だ。自分の体の一部を差し出してでも守りたいもの。守ることのできる人間を、愛おしいと思う。そう思わせてくれる、姫野のことが好きだ。幸せになってほしいと願っている。
「こぉら、姫野『センパイ』でしょーが」
「いたいいたい」
笑う姫野に頬をつねられる。彼女はデビルハンターとしても人間としても名前より年上だ。けれど本気で言っているわけじゃない。その辺りの常識についてはアキの方がよほどうるさかった。
「姫野センパイの乱暴者ぉ」
「これは教育的指導。可愛がりってヤツですよ」
「前時代的ィ〜」
肩に腕を回され、首を絞める真似をされる。だから名前も笑いながら、苦しむ演技をしてみせた。
下らない、なんの実にもならないやり取りだ。でもこれが人間としての普通の営みというものだろう。真似事にすぎないとしても、こうした時間は尊く、愛おしい。
そしてそんな時間を与えてくれる姫野のことも、また。