銃の悪魔編IFヒロフミ√�T


本誌のネタバレ注意です。
夢主が若干病んでます。





 ──私は、何をしているのだろう。

 横たわる身体を見下ろして、思う。

 ──私は何をしているのだろう。何を、したかったのだろう。

 問いかけても、答えはない。
 掌に残ったのは赤。生々しい、『死』の匂い。
 後にはただ、沈黙だけが降り積もる──



「──、名前、」

 突然に響いた声。耳朶を震わすそれに、私は弾かれたように顔を上げる。

「吉田、くん……?」

 結ばれたのは視線。艶やかな黒曜石がきらりと光る。
 そこで初めて、彼に抱き締められていることに気づいた。いつからか、なんてわからない。そもそも自分が道路に座り込んでいることすら、今の今まで頭から抜け落ちていた。──酷く痛む、頭のせいだろうか。

「どうして、キミがここに」

 言いながら、視線をさ迷わす。
 限られた視界。夜の帳の降りた世界はしかし、静寂とはほど遠い。撤去される瓦礫の軋み、怪我人の救助に走る足音、──悲嘆にくれる人の、声。息の詰まる喧騒が、辺りを満たしていた。

 ──何が、あったの。

 訊ねかけて、唇が戦慄く。ドクリと嫌な音を立てる心臓。何があったか──なんて、明白だ。聞かずともわかる。忘れたくても忘れられない。
 脳裏に、血だまりに倒れ伏す『彼』の姿がよみがえる。

「アキくん、」

 そうだ、ここには彼の家があった。住宅街の一角。今は嵐に踏み荒らされた後だけど、本当はここに彼の家があった。彼と、デンジくんと、パワーちゃんの家。そういえばふたりの姿が見えない。みんなはどこへ行ったのだろう?パワーちゃん、デンジくん、──アキくん、は、

「アキくんは、どこ」

 問うと、背中に回る腕がぴくりと跳ねる。掌を握り締める気配がする。
 私は彼を見上げる。ゆっくりと目を上げ、彼を見つめる。そして彼もまた私を見下ろす。強い意思のこもった目で、私を見つめ返す。決して、視線は外さない。
 深く長い沈黙があった。ざわめきはまだ傍らに存在していたが、私にとってはもはや異なる世界に過ぎず、多くのものが私の外側にあった。認識の、外側に。
 その果てに、彼は静かに口を開いた。

「……もう、どこにもいないよ」

 本当はわかってた。魔人とは、悪魔が人間の遺体を乗っ取ったもの。銃の魔人となるより先に、彼は死んでいた。死んでいたのだ、アキくんは。この惨状を引き起こしたのはアキくんじゃない。アキくんの魂は、最初からここには存在していなかった。
 わかってた。わかってたのに、私は諦めきれなかった。中身の悪魔さえ取り去れば、元のアキくんに戻るんじゃないかって思った。だって、ここにはまだアキくんの匂いが残ってる。匂いも、気配も、──記憶も。残っていたから、可能性を捨てきれなかった。

 ──その始末が、いま私の掌にある。

「……アキくん、」

 私は自分の体を見下ろした。
 匂い立つ名残。アキくんの流した、血のにおい。指先にはまだアキくんの身体を裂いた感触が残っている。柔らかな肉を抉る感覚、冷たくなる膚の強ばり、贖罪とばかりに流れる鮮血。すべてが色濃く、私の体に刻まれている。

 ──だから、アキくんはもうどこにもいない。

 実感に、私の目はひとりでに熱くなる。鼻の奥がつんとして、視界がぼやけていくのを止められない。
 その魂が天に奪われてしまったというなら、せめて肉体だけは守りたかった。アキくんの身体。魂を容れる器。その眠りだけは誰にも侵されたくなかった。
 なのにダメだった。どんなに切り離そうとしても、アキくんの身体は既に人間のそれとは異なっていた。銃の魔人の容れ物でしかなかった。肉を抉り、膚を裂き、血を流そうとも、アキくんの身体が元に戻ることはなかった。
 そして公安のデビルハンターだったアキくんは、銃の魔人として処理されてしまった。誰より悪魔を憎んだ人が、誰より喪う痛みを知る人が、悪魔の汚名を着せられたまま、死んでいった。

「あ、あぁ……」

 堪えきれず、嗚咽が漏れ出す。アキくん、アキくん、「ごめんね、」結局私は、アキくんの願いを叶えてあげられなかった。

「名前、」

 泣くことしかできない無力な私を、吉田くんはただ黙って受け止めてくれた。
 抱き締め、宥めるように背中を撫でる手。……その優しさが、今は痛い。

「家に、帰ろう」

 私は頷いた。本当は立ち去りがたかったけれど、いくら待ってもアキくんは帰ってこない。私は吉田くんに促されるがまま立ち上がり、彼の導きに従った。今はもう、何も考えたくなかった。



 どこをどう帰ったのか。不確かな足取りで、気づけば私は見慣れたドアの前に立っていた。私の家、私の部屋。吉田くんは鍵を開ける。そういえば、合鍵を渡していたんだっけ。そんな記憶も、どこか遠い。

「ほら、入って」

「うん、」

 私はのろのろと靴を脱ぐ。そうすると、いつの間にか羽織っていたジャケットがずるりと垂れ下がった。
 これは……そうだ、吉田くんの上着だ。思い出した。たしか、タクシーに乗る直前で着せられたんだった。いくら夜とはいえ、さすがに赤いシャツのままでは人目が気になる。たぶん、そういう気遣いだ。
 「ありがとう」私は言って、吉田くんに上着を返した。返り血もだいぶ乾いてきている。アキくんの生きた証が、薄れていく。そんな当たり前の現実が私の心に影を落とした。

「先にシャワー浴びてきなよ。ひどいかっこだよ」

「そうだね」

 そうだろうね。肯定はしたけれど、足取りは重い。背中を押されて、不承不承脱衣所に向かう。
 軽やかな音がして、ドアが閉まる。白い壁、白い照明、白い家具。その中に立ち尽くす、血染めの私。おかしな光景だ。血なんて見慣れているはずなのに、見つめていると目眩がしそう。

「ボタン外すよ」

 屈まれると、いつもは見えない後頭部が目に入る。吉田くんの頭、つむじ。右巻きなんだ、というどうでもいい気づきに気を取られているうち、私はシャツを脱がされていた。
 まるで子供だ。何もできない子供。そうであったら、どんなによかったか。吉田くんの手に身を任せ、私は目を閉じる。ひどく心地のいい感覚。安寧を齎してくれる肌に、途方もない安堵を覚える。

「シャワーかけるよ、暴れないでね」

「そんなことしないよ」

「わかんないじゃん、名前って猫みたいだし」

 反論しようとしたところで、頭からシャワーをかけられる。完全に口封じだ。睨めつけようとしてもシャワーが邪魔して大人しくしているより他になくなる。
 私は俯いて流れていく水を見送った。排水口に呑み込まれていく赤色。アキくんの血はこんなにも赤かった。こんなにもたくさんの血を彼は流した。贖罪の血。贖罪の赤色。血が消えない。どんなに洗っても、拭っても、私たちは罪から逃れられない。
 「まだ、しみが」しみがついている。消えろ、このしみ、消えろ。一つ二つ、鐘の音、やるのは今だ。──地獄は薄暗い。「それにしてもあんなにたくさんの血があったとは」まだ血の匂いがする。アラビア中の香料を集めても、この小さな手をきれいにできないわ──

「──アンタが殺したわけじゃないだろ」

 雨が止む。でも晴れ間は来ない。永久に、あの日常は失われた。
 吉田くんは優しい。優しいから、慰めてくれる。名前のせいじゃない、あれは仕方のないことだったんだ。そう言ってくれる。
 ──でもね、吉田くん。罪は、償わなくちゃいけないんだよ。

「キミが、私の神さまだったらよかったのに」

 湯船の中で、吉田くんの胸に頭を預ける。目を閉じると、本当に胎児にでもなった気分。絶対的な安心感。約束された愛情。私に母親はいないけど、それはきっと神さまのようなものなんだろう。人間が羨ましい。
 微かに笑う気配があって、吉田くんは言う。「神さまは難しいけど、そばにいてあげるよ」けどそう言ったアキくんは死んだ。ひとりにはしないって言ってくれたのに、嘘つき。

「じゃあ契約できる?私と、契約してくれる?」

 私は吉田くんを見上げる。仄白い照明に照らされた、黒檀の瞳を覗き込む。
 彼は目を細める。弓なりに歪めて、口端を持ち上げる。「いいよ、契約しても」その表情は、私よりも猫に近いと思う。

「私は何を差し出せばいい?」

「それは自分で考えないと」

 餌をちらつかせ、吉田くんは煙に巻く。膚に張りつく私の髪を撫でつけ、首筋に唇を落とす。そういえば、この行為は罪にあたるのだろうか。
 ……今さらだ。今さら、罪のひとつやふたつ増えたって構わない。それよりもこの心地のいい体温を失う方がずっとつらい。

「見つけたら、教えて。その時は契約してあげる」

 私は「うん」と頷いて、彼の唇を受け入れる。あたたかで柔らかくて、どこか頼りない感触。心細くて、離れていくそれを私は追いかけた。

「俺が欲しいのはひとつだけだよ、名前。だから……早く見つけてね」

 口づけの合間に、吉田くんは囁く。切実な、痺れるほどに熱い眼差しで。囁かれた言葉に、目眩がする。
 今の私にできること。何をすべきかわからなくなっていたから、吉田くんの願いは私にとって救いにも等しかった。今はもう、目の前の彼のことしか考えたくない。吉田くん、彼だけが、私の神さまだ。







──────────────
『しみがついている〜』は『マクベス』より引用。