トゥルーロマンス


 私がこの世界に生み出された時、最初に知覚したのは、『人間を愛さなくてはならない』という強い使命感だった。人間を恋慕い、慈しまなければならない。そうでなければ私は存在意義を見失う。そう思った。
 でもこの私に何ができるだろう?私は信仰の悪魔。人は悪魔を恐れる。人は、私を必要とはしない。だけど私には人間という種が必要だった。
 だから私は私以外の悪魔を狩ることにした。そうすることでしか生きる理由を見つけられなかった。それ以外にどうすれば人間の役に立てるのか、わからなかった。

 ──そんな時だ、人間の少年に声をかけられたのは。

「強いね、アンタ」

 私より幾らか年下らしい少年は私を見て笑う。血生臭い現場には似つかわしくない、爽やかな表情で。笑いながら、「それ、いったいどんな悪魔の力なの?」と無邪気に聞いてくる。どうやら私が悪魔だとは気づいていないらしい。
 息絶えた悪魔を間に挟んで、私は少年に向き直る。人間とまともに会話を交わすのは初めてだ。血を浴びたこの姿を見て、逃げ出されなかったのも。
 初めてのことばかりで、私は返事に迷う。こういう時、なんと返せばいいのだろう?問いかけても、神さまは答えをくれない。
 ──私が、人間じゃないから。

「……信仰の悪魔」

「え?」

「これは、信仰の悪魔の力。……知りたかったんでしょう?」

 少なくとも、この答えは間違いじゃないはず。そう考えながら、私は少年の問いに正直に答えた。たぶん、これで満足だろう。きっと私への興味も失われる。
 予感に、私は安堵する。と同時に、何故だか寂しさを覚えた。私は人間じゃないのに、人間を模した部分もあるらしい。それも面倒なところだけ。
 でもその予感は裏切られた。「へえ?」と、少年は愉快げに目を細めたのだ。

「そりゃ使い勝手が良さそうだ」

「そう……なの?」

「自分でもわかってないの?」

「他の悪魔のこと、あまり知らないから」

 私にわかることは自分が信仰の悪魔であるということと、人間を愛さなくてはならないということだけ。他にどんな悪魔がいて、どんな力を持っていて、どんな生活を送っているかなんて、思えば私は少しも考えたことがなかった。
 そう言うと、少年は何故だか肩を震わした。……具合でも悪いのだろうか。内心で慌てたところで、顔を上げた少年の唇が笑みを含んでいるのに気づく。

「まぁオレもそんなに詳しいわけじゃないけど。でもアンタほどの箱入りは早々いないだろうな」

「箱入り……、ううん、むしろ家なしの方が正しいと思う」

 言葉の意味は理解している……つもりだ。箱入り娘というのが大切に育てられた子供ということもわかってる。わかっているからこそ、少年がどうしてその語を用いたのか理解に苦しむ。それとも令嬢というのは普通、血飛沫を浴びても平然としているものなのだろうか?
 何しろ私には知識がない。だから少年が私の答えにいっそう笑みを深めたのにも疑問符が浮かぶ。「アンタ、面白いな」……これは、喜ぶべき場面なのか。人間の情緒というのは案外難しい。何が琴線に触れるのか、見当もつかない。

「他にわからないことは?アンタ面白いし、オレに答えられることなら教えてあげるよ」

「わからないこと……」

 私は少年を見つめる。
 宵の刻。煙る春の夜闇に浮かび上がる、黒檀の眸。きれいだ、と私は思う。人間の目というのはかくも美しきものなのか。まじまじと見たことがなかったから、驚く。もしかしたら、だからこそ神さまは人間を恋慕うことになったのかもしれない。

「……どうしたら、」

「え?」

「どうしたら、人間と契約できる?」

 知れば知るほど、人という種を愛おしく思う。もっと知りたいと思う。そのために必要なのが『契約』と呼ばれるものだというのも、私にはわかってい いた。恐らくこれは悪魔の本能……のようなものなのだろう。
 私の問いに、少年は目を丸くする。「アンタ、悪魔だったのか」そう呟いたのに、彼は立ち去らなかった。観察者の目で私をためつすがめつ眺めて、言葉を続ける。

「ちなみに、だけど。契約の対価にアンタは何を望むつもり?」

 対価。……そうか、契約には対価がいるのか。私は人間と契約さえ結べればそれでいいのだけれど。
 あぁでも、もしもそれ以上を望むとするなら。

「人の、体がほしい。亡くなった後の契約者の体……その眠りを守らせてほしい。いずれ来る復活の日のために」

「それってようするに……遺体が欲しいってこと?」

 私は首肯する。肉体と魂はふたつでひとつ。片方でも欠けることは許されない。ならばせめて、私と契約を結んでくれた人間くらいは守りたかった。その安らかな眠りを、誰にも邪魔させたくなかった。
 少年は「それは契約時点で命を奪うつもり……ってわけじゃないよね?」と僅かに首を傾げた。……疑り深い人間だ。でも悪魔を相手にしているなら賢明な判断といえよう。私が彼の名前を知らないように、彼もまた私が何を考えているかなんて知る由もないのだから。

「そんなことはしない。誓ってもいい。私はただ、人間を守りたいだけ。この身に宿る、信仰のために」

「……なるほど、ね」

 少年は「アンタのこと、なんとなくわかってきたよ」と笑った。私にはまだ彼が何を考えているのかわからないのに。たぶんきっと、彼は賢い人間なのだろう。
 そんな彼になら私の願いを叶えてもらえるかもしれない。私は期待に喉を鳴らす。

「だから教えてほしい。人間に、私は何を差し出せばいい?」

 じっと見つめていると、不意に影が揺らいだ。月明かりが、少年の行く道を照らす。感情の見えない目が、私をとらえる。
 響く靴音。少年は血の川をなんなく越え、距離を詰める。人と悪魔。境界線を越え、少年は私の前に立つ。薄い唇が、言葉を紡ぐ。

「それならオレは、アンタが欲しい。……オレと、契約しようよ」

 少年の眼は夜の闇より深く、けれど不思議と輝いて見えた。さながら星の海。夜空を写し取っているかのようで、目を奪われる。

「……私で、いいの?キミにはもう、強そうな悪魔がついてるのに」

「うん、それでもアンタがいい」

 少年は吉田ヒロフミと名乗った。
 ……そうか、人間には名前があるのか。個としての定義。それは少し、羨ましいことだ。対する私は信仰の悪魔。名前は、ない。

「それならオレがつけてあげるよ」

 少年は──いや、吉田くんは、私の手を取る。血塗られた手を。人の身をかたどっただけの、悪魔の手を。厭うことなく触れるものだから、私は私がただの人間であったかのような錯覚をしてしまう。

「……名前。今日からアンタは名前だ」

 ──きっと、今宵の出逢いは奇跡だったのだろう。

 私は隣を歩く吉田くんを見て、思う。
 悪魔の身に齎された、思いがけない幸運。嵐を静めるよりも、病人を癒すのよりも、ずっと困難なもの。そんな願いが叶えられてしまったのだ。これを奇跡と呼ばずしてなんと表せばいいか、私は知らない。
 私と共に歩んでくれる人間。私を映す瞳。私に向けて囁かれる言葉。私の手を握る、温もり。
 そのすべてを、私は愛おしいと思った。