眺めのいい部屋


 私の新しい主──もとい、吉田くんはまだ学生の身の上だというのに独り暮らしをしているらしい。「だからこの部屋は好きに使ってくれていいよ」なんて言うものだから、私は驚く。
 人間の子供というのは普通、庇護者の元で大人になっていくものだと思ってた。吉田くんがあまりにあっけらかんとしているものだから深くは聞けなかったけど、勝手な想像をしてしまい、私は少し悲しくなった。こうなったら、せめて身の安全くらいは私が守ってあげなければ。
 そう決意する私の横で、吉田くんは呑気に伸びをする。

「疲れちゃったし、シャワーでも浴びてこようかな」

 シャワー。なるほど、その単語は知っている。人間が一日の終わりに浴びる水のことだ。野宿生活をしていた私には縁のなかった代物。しかし日本人がお風呂好きというのは聞いたことがあったから、好奇心が擽られる。
 手間をかけてまで行うそれが、いったいどれほどの快楽を伴うのか。俄然、興味がわいた。

「あぁでも、名前のが先に入った方がいいかも。血まみれだし」

 吉田くんは気をきかせてくれたんだろう。けど、それじゃあ私が困るのだ。何せ、知識としては知っていても、経験がまったくない。どこをどうしたらお湯が沸いてくるのか、そんなことすら未知の世界。
 だから私は「いいよ、私はキミが入ったあとで。こんなの慣れてるから」と首を振った。彼の行動を観察して、それから実践してみようという魂胆である。
 そんなこととは露知らず。吉田くんは「そう?」と笑って、「じゃあお言葉に甘えて」と、バスルームへ向かった。その背中を見送ってから、私はそうっと足を踏み出す。
 脱衣場の扉は閉まっていた。でも彼がその向こうにいるのは確かだ。微かに衣擦れの音がする。こうなったら隙間から覗き見するしかない。私は申し訳なさを感じながらも、観察することをやめられないでいた。

「……なるほど」

 あらかじめ衣服は脱いでおくものらしい。知らないままだったらきっと私は衣類ごと体を洗っていただろう。やはりこうして覗き見たのは正解だった。でなければ無知を晒して、余計に迷惑をかけていたはず。
 しかし上手く事が進んだのはここまで。風呂場と脱衣所の間にはもう一枚の扉があって、しかも吉田くんはその向こうに消えてしまった。扉も脱衣所のそれとは違い、隙間なく閉ざされている。水音は聞こえてくるのに、中の様子はさっぱりだ。

「どうしよう……」

 素直に教えを請うべきだったか。後悔しても、後の祭り。吉田くんが出てきたら、次は私の番だ。
 そこで私ははたと気づく。どうせ教えてもらうなら、今でも後でも大差ないのでは、と。むしろ今なら吉田くんにシャワーを浴びててもらいながら、そのやり方を実践で教えてもらえるのでは?その方が二度手間にならないし……と考え、私は脱衣所に足を踏み入れた。
 私は身に纏っていた布切れを脱ぎ、床に置いた。吉田くんとは違って、私は替えの衣類というものを持っていない。しかし大した問題ではないだろう。返り血は既に乾いている。問題なく着れるはずだ。
 そうしたところで、私は鏡を覗き込んだ。一糸纏わぬ裸体。人間の女性を模して造られた身体。よくは知らないが、彼らと私とで大きな違いはないように思われる。だから彼に見られても支障はないだろう。
 ……よかった。私は胸を撫で下ろす。誰が造ったか知らないが、この肉体を与えてくださった神に感謝しなくては。これでもし私の身体が悪魔らしいものだったら、申し訳なさやら羞恥やらでこんなこと絶対にできなかっただろうから。

「吉田くん、」

 入ってもいいか、と訊ねた声に返事はない。水音は絶えず響いている。たぶん聞こえなかったのだろう。
 私は逡巡の後に扉に手をかけた。

「う、わ……っ、ちょっ、なにしてんの!?」

 すると吉田くんは頓狂な声を上げ、目を見開いた。
 最初は驚かせてしまったのかと思った。でもそれだけではないらしい。私の姿を認めた後も、彼は視線をさ迷わせる。どこを見ればいいかわからないみたいに、焦点が定まらない。

「なにって……シャワーの使い方、教えてもらおうと思って」

「それならわざわざ入ってこなくてもよくない!?」

「なぜ?実践してもらった方がわかりやすい。それに今教えてもらえれば、キミにとっても二度手間にならずに済む」

「そ、……うかもしれないけどさぁ」

 吉田くんは両の目を手で覆って、項垂れた。ひどく疲れた様子だ。悪いことをしてしまった。理由はわからないけれど、そんな気持ちになる。

「……ごめん。迷惑をかけた、みたい」

 情けなさに、私も俯く。ざあざあと降りしきる水音が耳についた。心にまで染み込む感覚。痛みに、内なる傷が引き攣れる。
 せっかく契約してもらえたのに。なのに私は、彼の役に立つどころか、むしろその逆のことしかなせていない。これでは契約を解除されても致し方なかろう。
 私は腹を括ろうと思った。思ったのに、吉田くんは「謝るなよ」と首を振った。

「アンタが悪魔だってのはわかってたはずなのに、人間の常識に当てはめようとした俺も悪い」

 吉田くんはシャワーを止めて、髪を掻き上げた。濡れて張りついた黒檀が、目に眩しい。彼はどこか困ったように笑って、「でも今後こういうのはナシだからね。じゃなきゃ俺の心臓が持たないよ」と続けた。

「それが人間の常識?」

「そう。普通、異性とは一緒にお風呂入らない。だから、今日は、とくべつ」

 人間も大変だ。私たち悪魔が契約というものに縛られるよう、人間もまた彼らの作った決まりに縛られている。そう考えれば、少し親近感がわく。
 吉田くんは「ちょっと待ってて」と言い置いて、風呂場を出る。そして次に戻ってきた時には腰にタオルを巻いていた。
 不思議な格好だ。タオルとは清めた体を拭くものではなかったのか、と私は疑問符を浮かべる。おまけにもう一枚、手にしていたそれを今度は私に押しつけてきた。

「ただし一緒に入るならこれを体に巻いて。あぁ、巻くのは胸から下にかけてを隠すように、だからね」

 私が「わかった」と頷くのを見届けてから、彼は顔を背けた。
 ……また、困らせてしまったろうか?不安に苛まれつつ、私はできる限り急いで布を巻きつける。

「できた、けど」

 今度こそ間違えはしない。たぶん、これで合っているはず。
 私は私の主を窺い見る。これ以上彼を困らせたくはない。……彼の、負担にはなりたくない。
 緊張に身を固くしながら吉田くんの返事を待つ。そろり、私を捉える目。「うん、合ってる」そう言った彼の目に柔らかな光を認めて、詰めていた息が思わず口端から溢れ出る。

「そんなに不安そうな顔しないでよ。悪いことしてる気分になるだろ」

「……?違う、悪いことしたのは私のほう。キミの手を煩わせてしまった」

「や、これはむしろ役得っていうか、ラッキーって言うべきところっていうか」

 吉田くんは口ごもる。でもすぐに気を取り直したように「なんでもない」と笑った。

「じゃあ使い方を説明するけど──」

 彼が本当は何を言おうとしていたのか。気にはなったけれど、続く言葉に私の意識は向けられた。はじめに請うたのは私だ。せっかく教えてくれているのだから、集中して聞かなければなるまい。もちろん、一字一句聞き逃さぬように。
 お湯の出し方、顔の洗い方、石鹸の種類……そうしたものを教えた後で、「それじゃあ今日は俺が洗ってあげるね」と彼は蛇口を捻った。

「わっ……!」

 途端、勢いよく降り注ぐお湯に、私は声を上げる。びっくりした。でも、その勢いがまた気持ちいい。私はすっかり安心して、吉田くんの手に身を委ねた。
 彼の手つきは巧みだった。しなやかな指が私の髪に触れ、穢れを洗い流していく。その心地よさ、安らぎを、なんと表現すべきだろうか。適切な言葉を私は知らない。知らないことが、口惜しい。

「つぎっ、次は、私がやりたい」

「え、髪洗うのを?そんな楽しいもんじゃないと思うけど」

 吉田くんはそう言うけど、楽しくないわけがないと私は思う。だって、こんなにも心が浮き立つのだ。ふわふわして、擽ったくて、なのに落ち着く。その手の中こそが私の居場所なのだとしっくりくる。この感覚を私も彼に与えたい。与えられるようになりたいと、願ってしまう。
 私は吉田くんをじっと見つめた。切望。懇願。その思いを込めて、見つめた。

「……あぁ、もう、わかったよ」

 根負けしたのか。やがて彼は『仕方ないなぁ』とでも言うかのように笑う。やっぱり彼はいい人だ。いい人じゃなきゃ、こんな風に私を受け入れてはくれない。
 私は己の幸福を実感しながら、喜び勇んで吉田くんの背に回る。
 私たちの身体にさしたる違いはないと思っていたけれど、こうしてまじまじ見つめてみると、私よりもずっと広い背中をしていることを思い知らされる。これが性差というものか。……なるほど、興味深い。

「ねぇ、」

「なに?」

「少し、触ってもいい?」

「……どこに?」

「どこって……、キミの身体に?」

 悩んだ末に本心を打ち明ける。と、「いや、さすがにダメでしょ」と断られてしまう。髪に触れるのはよくても他の部位となると話は別ということだ。
 人間は繊細なんだな、と納得する私の横で、吉田くんはなんとも言えない奇妙な顔で宙を仰いでいた。