承太郎と幼馴染み


 1988年。ジョリーンが東京ガールを歌っている頃。秋の始まりの季節。その日、名前はいつも通りの休日を過ごしていた。家族と共に教会へ、午後には画材を手に公園へ。ひとりベンチに座り、スケッチブックに鉛筆を走らせる。
 そうしながら、名前はいくつかのことに思いを巡らせていた。月曜日1限目からの数学がひどく憂鬱だということとか。先週、開店したばかりの洋食店で無銭飲食した客が暴力沙汰を起こしたという噂とか。近頃学校の周りをたむろしていた柄の悪い高校生たちを、木曜日から見かけなくなったのはどうしてかだとか。そういった、日常のとりとめのないことを考えていた。
 水を馴染ませた筆を動かすこと数刻。カラスの羽ばたきが聞こえ、名前は顔をあげた。気づけば日暮れ。夜の足音が聞こえる時間。お父様が心配してしまうわ――パパと呼ばれなくなって寂しげにすることが多くなった父を思い浮かべ、名前は席を立った。遠くの砂場にいる子どもたちも母親に手を引かれていく。黒々とした鳥の群れも一斉に羽ばたいていく。
 それを見送る名前の背後で、茂みが音を立てた。野良猫かしら、と振り向く彼女だが、背後にいたのはそんな可愛らしいものではなかった。名前よりもずうっと――30センチばかり大きな背丈と、それを更に大きく見せるような威圧感のある改造制服と、いつの間にか鋭い光を宿すようになったエメラルドグリーンの瞳を持った男は、厚みのある唇で名前の名を呼んだ。
 これが見知らぬ相手だったら名前は悲鳴を上げていたかもしれないし、硬直して震えていたかもしれない。けれどその男が空条承太郎という名であることを名前は知っていたし、彼は名前のはす向かいに住んでいたし、おまけに同い年の幼馴染みでもあったから、生粋の箱入り娘である名前にも怯えはなかった。
 むしろ名前は承太郎の常より少し低い声だとか、固い表情だとかが気になった。何かあったのだ。名前の第六感が囁く。承太郎にとって、何か、よくないことが。
 名前は荷物を纏めると、承太郎の袖を引いて彼をベンチに座らせた。名前よりもずうっと大きな彼は振りほどくこともせず素直に名前と隣り合って座った。その顔はやはりどこか疲れているようで、

「なにが、あったの」

 誰に聞き耳を立てられているわけでもないのに、名前は声を潜めて訊ねた。――あなた、顔色が悪いわ。わたしが数学の課題を忘れたってことに気づいた時よりたぶんずっとよくない。あなたみたいな勇猛な人が、ってそうとうよ。いったい何があったというの?ぐるんぐるんと回る名前の思考。少女らしく想像力豊かな彼女は沢山のことを考えた。承太郎が動揺すること、承太郎が大切にしているもの。例えばそう、家族、だとか。
 名前の脳裏に浮かぶのは承太郎とは正反対の雰囲気を纏った女性だった。ミセス空条。ホリィさんとも聖子さんとも呼ばれる、少女めいた空気を忘れないひと。承太郎の母親。そして、承太郎が世界で一番大切にしている人。

「まさかホリィさんになにか、」

 名前はほぼ確信を持って言った。想像力を膨らませた結果が真実であると疑わない声色。これもまた、年頃の少女らしい思い込みの強さだ。
 名前のそういった一般的には短所と呼ばれる部分を、幼馴染みである承太郎はよおく知っていた。だから彼は学帽を目深に被り直した。やれやれだぜ。これが承太郎の口癖になった原因の二番目はきっと名前だ。一番目はもちろん空条ホリィ。承太郎の頬にキスしようとしては逃げられるその人は、名前の心配を裏切って今日も元気なことこの上ない。
 その旨を伝えると、名前は大袈裟に安堵してみせた。あァ、良かった。名前は毎朝車の窓越しにいってらっしゃいの笑顔をくれるホリィが大好きだった。

「あら、でもそれじゃあどうしてあなたはそんなに――うぅん、何て言うのかしら。オカシな、つまりはらしくないってことなのだけど、そんな顔をしているの?」

 名前の話は長い。同じものを承太郎が言ったとするなら、3分の2はダストボックス行きになる。やれやれだぜ。しかし承太郎は気の長い男なのだ。名前のムダなおしゃべりでは彼の導火線に火がつくことはない。名前がムダに時間を浪費するなら、その分自分の使う時間を最小限にすればいい。これが承太郎の考えで、だから彼は名前の前ではいつも以上に言葉少なになるのである。

「悪霊に取り憑かれた」

 ……つまりはそう、こんな感じに。
 簡潔な、簡潔すぎる説明。疲れからか鈍い色を放つ彼の目を見つめ返して、名前は承太郎の言葉を噛み砕いた。その間一秒。

「取り憑かれたってことは今もいるのね?わたしには何も感じられないけど……でもそれって所謂霊感というものがわたしにないからってだけのことなのかしら。アァ、でも承太郎も幽霊なんて今まで見たことなかったわよね、うぅん……その悪霊がトクベツってことなのかしら」

「そうかもしれん。俺の意思で出せるが、上手く制御できねぇこともある」

 こんな風に、と承太郎はその『悪霊』とやらを名前の前にさらけ出した。それは承太郎の体から浮かび上がったかと思うと、見る見るうちに不確かだった像を結び、ひとつの個として降り立った。

「なんだかイメージと違うわ。悪霊と言うからもっとおどろおどろしい――例えば血を滴らせていたりだとか、体は腐りかけの肉を張り付けただけだとか、そういうものだとばっかり」

 名前は感嘆の溜め息を溢した。きれい、と思わず呟いてしまったのも無理はない。『悪霊』は見てわかるほど滑らかな質感を持っていたし、その透明感は名前の母が最近買った首飾りについているアメジストにも匹敵するものだった。
 宝石のごとき紫。男性のような造型の『悪霊』は、しかし人間の男のような生を感じさせなかった。均整のとれた体つきに、磨き抜かれた肌。『悪霊』というより彫刻といった方が正しいように名前には思われた。

「そういうのはゾンビってヤツだぜ」

「あァ、なるほど。彼らの境界はそこにあるのね。それならあなたに取り憑いたのがゾンビじゃあなかったことに感謝しなくちゃ。わたし、卒倒してしまうわ」

 名前はそっと『悪霊』の頬に手を伸ばす。が、彼女の手は宙を切るばかりであった。その手を代わりにとったのは承太郎だ。「不用意がすぎるぜ」呆れたと言わんばかりの表情。名前は口を尖らせた。

「今のは決して″不″用意なんかではなくってよ。ええ、わたしはちゃあんと計画性を持って……いえ、計画というほどでもないのだけれど。でも、ねぇ、知っているでしょう?」

 承太郎の拘束から抜け出して。名前は両手を胸の前でお椀の形に組んだ。水を掬い取る仕草――しかしその手の中には何もない。そう、何もないはずだった。普通ならば。
 けれど名前は普通ではなかった。幼馴染みの承太郎が所謂普通の高校生と言う枠組みから逸脱しているように、名前もまた普通とは言い難い才を持っていた。名前が胸元にかがけた手、何もないはずのその手中は、承太郎の目の前で見る見るうちに透明な液体で満たされていった。水と同じ透明度のそれは、しかし僅かに水らしからぬ輝きを放っているように見える。

「″これ″をね、その悪霊にかけたらどうなるのかしらとわたしは思ったの。除霊というのかしら、そういったことをした経験はないから、効くかどうかは分からないのだけれど。でも試してみる価値はあるのではない?」

「……そういうのは黙ってやるもんじゃねぇ」

 付け加えておくと、承太郎には名前の意図はお見通しだった。彼は頭がいいだけでなく直感力とでもいうべきものも優れていた。おまけに名前との付き合いは10年以上になる。嫌でも名前の言動は予測がついた。
 承太郎は溜め息をついて、悪霊を名前の前に立たせた。彼自身、悪霊が名前の力を浴びてどうなるのか興味はあった。ただ、彼女の行動が無用心すぎただけで。名前が悪霊に手を近づけていくのを黙って見送りながら、承太郎はいつでも彼女を庇えるよう身構えた。なにせ、悪霊は承太郎の制御下から離れることもあるものだから。

「……ウーン、どうやらわたしには悪魔祓いの才能はないみたい。そりゃあそうよね、エクソシストなんて教会に認められたごく一部の人しかなれないんだもの。わたしが簡単にできたらおかしいわよね」

 ……結果としては、名前の試みは失敗に終わった。失敗、というより何も起こらなかった、といった方が正しいか。悪霊は承太郎が呼び出した時のまま、大人しく浮遊していた。このままなんの害もなきゃいいが、と承太郎は思った。悪い予感ほど当たる。世の常の通り、このあと、つまり一年ほど先の未来でその予感が的中するのだが、そのことは承太郎も名前もまだ知らなかった。
 用件を済ませた承太郎(――つまり彼が名前の元を訪れたのはそういう訳であった)は、「送っていく」と言ったかと思うと、長い足を活かしてさっさと公園の出口へと歩いていく。その手にはいつの間にか名前の荷物が。承太郎は名前の返事も待たないし、名前の抗議も聞かない。
 「ねぇ承太郎、これ以上ボディーガードはいらないのよ。ほら見えるでしょう、お父様が雇った彼らはいつだってわたしを見ているの。ここは南米じゃあないのに。ねぇ承太郎、あなたにまで過保護にされたらわたし、その内筆すら持てなくなりそうよ」――もちろん承太郎の返答はない。
 名前の長々とした話を耳に入れつつも、承太郎は先ほどのことを思い返していた。名前の力(世間では超能力と呼ばれるのだろう)を浴びても、一切の変化のなかった悪霊のことを。
 名前の手には治癒の力が宿っていた。それが生まれながらのものかは当人も分からないが、気づいたときにはその力は名前の中にあったという。名前が触れれば擦過傷も打撲痕も跡形もなく消え去る。ただ絶対的な能力ではないらしく、一度は回復してもすぐに同じ病にかかってしまうこともあった。不完全な力だ、と不満だし不甲斐なくも思うと以前名前はこぼしていた。
 そして今回のケースでは。悪霊は一旦消えることもなく、ただそこにあり続けた。つまり病の類いではないということだ。では、この悪霊はなんなのか。

「そういえば、彼を悪霊と呼び続けるのもなんだかヘンね、だって悪霊なら悪い言葉を囁くハズだもの。ならきっと悪霊じゃあないんだわ。それなら名前をつけないと。名前って大切だものね。承太郎は何がいいと思う?わたしは……あのね、実はさっきから考えていたのだけど、『プリンス』っていうのはどうかしら。ほら、パープルといったらプリンスでしょう?ね、わたしにしてはいい名を思いついたんじゃないかしら。承太郎はどう思う?」

 思考を巡らす承太郎を尻目に、悪霊に名前をつけ始めた名前。彼女を見下ろし、承太郎は何度目かの溜め息をついた。――やれやれだぜ。