2007.09


 好きな人がいた。2006年の春のことだった。初めて恋をした男の子は、太陽のように笑う人だった。
 ……彼が物言わぬ骸となって帰ってきた。2007年の、晩夏の頃だった。日溜まりの似合う少年は、冷たい部屋の中に横たわっていた。

「灰原くん、どうして、」

「なんてことはない2級呪霊の討伐任務のはずだったのに……!!クソッ……!!」

 呆然と立ち尽くす名前にとって、「アレは1級案件だった」と言う七海の声はどこか遠いものだった。でも耳を塞ぐことはできなかった。真実は常に目の前にあった。

 彼は──灰原雄は、亡くなったのだ。

 認めた途端、現実味のない喪失感が鋭い痛みとなって心臓を抉った。途方もない悲しみだった。とても耐えられないと思った。息継ぐだけで喉が焼かれた。いっそこのまま、呼吸を忘れてしまえたらどんなにいいかとさえ考えた。

「今はとにかく休め、七海。……名字も。部屋に戻ってなさい」

「……はい、夏油先輩。でも、もう少しだけ」

 けれどそんなことは許されなかった。逃げるにはこの場所はあまりに思い出がありすぎた。この世界を呪えるほど、嫌気も差していなかった。すべて、彼がいたからだ。深い悲しみも、心地のいい喜びも、教えてくれたのは灰原だった。

「……ごめんね」

 名前は最後に一瞬だけ、彼の手の甲に触れた。掠めるほどに撫で、その冷たさを胸に刻んだ。

 ──ごめんなさい、灰原くん。私はもう、泣いてはいられない。君を置いて進んでいく私を、どうか許してほしい。

 胸のうちで語りかけ、名前は目許を拭った。そうだ、泣いてばかりはいられない。私は次に進んでいく。次に、──未来へと。彼が肯定してくれた術式のろいを使って、生きていく。生きて、自分のできることをこなしていく。
 名前は顔を上げた。彼女の目に映っているのは静かに眠る灰原だけだった。
 だから気づかなかった。七海の失望にも夏油の絶望にも。自分たちを呑み込もうとする仄暗い奔流に名前が気づくことは、最後の最後までなかった。





 吹き溜まる暑さに、思わず名前は額に傘を作る。とはいえ翳しただけの手では日差しなどさして遮られもしない。単なる気休めだ。今年の夏は稀に見る猛暑が続いているというのは、連日連夜の報道でとうに理解している。

「五条先輩、」

 グラウンドの片隅に探し人を見つけ、声をかける。
 階段の中程に座るその人の、印象的な白銀の色。風に揺らめき、光を反射する様は、季節外れの雪を見るかのようだった。
 一見すると儚げな青年。しかし彼は「よぉ、名前じゃん」と気安いのだか軽薄なのだか曖昧な調子で片手を挙げる。

「めずらしーね、オマエが自分から俺に声かけるなんて」

「用件があったので」

「用がなきゃ話しかけねーのかよ」

 五条はくつくつと喉の奥で笑う。後輩から苦手意識を持たれていると言外に言われているというのに、彼は愉しげだ。
 そういうところが避けられる原因なんだろうな、と名前は思う。掴み所のない天才。凡人には彼こそがひとつの災厄に近しい。そう評していたのは、唯一の同級生となってしまった七海だった。
 けれどそれだけとも思わないから、名前は居住まいを正す。天才でありながら努力を絶やさぬこの人に、最大限の敬意を払って。

「今日はお願いがあって来ました。五条先輩、……どうか私の先生になってはくれませんか?」

「先生ェ?俺が?」

 膝を折り、頭を下げた名前に、五条は頓狂な声を上げる。そいつは想定外だ。そう言いたげで、きっとサングラスの下では目を瞬かせていることだろう。

「なんでまた。どーいう風の吹き回し?」

「……灰原くんが亡くなりました」

「ああ、知ってる」

 できうる限り淡々と。そう心がけたけれど、震えてはいなかっただろうか?
 そんな心配をする名前とは対照的に、五条はあっさりと頷いた。別段悲しんでいる様子は見られない。双眸と同じに冷えきった心、冷血漢。……何も知らなかったなら、そうやって糾弾することもあったかもしれない。
 切り替えが早いのだろう、と名前は思った。悼む心も悲しむ情も持ち合わせている、けれどそれ以外にもやらなければならないことがあるのだと彼は知っているのだ。
 思えば戦いの場であっても彼は判断力、決断力に優れた術師だった。それが平時においても発揮され、彼はすぐさま優先順位をつけた。いま一番にすべきことは、強くなること。強くなって、多くを救うことだ、と。
 ……奇しくもそれは名前にも共通する考えだった。名前にとっても今は自分を鍛えることが何より大切なことだった。
 名前は膝の上で拳を握った。

「ですが知っているのは私たちだけです。他の誰も……世間一般では、ただの事故死になる。……彼が守ろうとしたものを、世界は覚えていてくれない」

 優しい人だった。いつも誰かのために戦っている、そんな彼を、なのにこの世界は忘れてしまう。その薄情さに腹が立つ。意地を張りたく、なってしまう。

「だからせめて、私がその証を残したいと思いました。彼が認めてくれた私の呪いで誰かを助けて、無駄なことなどひとつもなかったのだと証明したい。彼の存在を未来にまで繋げたい。……私が勝手にそう思ったから、あなたに教えを請うことにしました」

 珍しく饒舌な名前に、調子っぱずれの口笛が吹かれる。犯人はもちろん五条だ。揶揄いの滲む目が、名前を見た。

「愛だねぇ。いや、呪いかな」

「どちらでも同じでしょう。古今東西、そんなものです」

「たしかに」

 五条は笑みを殺す。
 よく笑う男だ、と名前はつくづく思う。けれど灰原のそれとはまったく違う。違うけれど、不思議と嫌悪感はない。どちらかと言えば冬の方が名前の性には合っていた。たぶん目映いほどの夏よりも、ずっと。

「けどどうして俺?教えるのなら傑の方が得意じゃない?灰原もなついてたしね」

「……そういえば、そうですね」

 言われて初めて気づく。そういえば最初から選択肢はなかった。甚だ失礼な話だが、はなから念頭になかったのだ。
 自分の不完全な術式を最大限にまで振るえる相手。それは最強の五条悟をおいて他にいなかった。……そんな思いを込めて、五条の目を見つめ返した。

「でも私は五条先輩がいいです。先輩なら遠慮なしにやってくれそうですから」

「言うねー!ま、事実だけど」

 「よくわかってるじゃん」と五条は言うけれど、こんなこと彼を知る人なら誰だってわかることだろう、と名前はぼんやりと思う。それ以上のことは何も知らないし、知る必要のないものだ。名前にとっての五条悟は最強であって、彼の前ではすべてが平等に弱者だった。それはとても心地のいいことだった。だから、それ以上など必要ない。
 「俺ってさ、こう見えて忙しい身なわけ」軽やかな身のこなしで五条は立ち上がる。逆光になって、名前は目を細めた。
 ──なんと眩しいことだろう。星々の宿る髪に、薄氷の張る湖の瞳。傍若無人とも評される彼だが、名前には時々とても美しいもののように思えてならない。そういった時、名前はいつも昔見た宗教画のことを思い浮かべる。

「教えてやれる時間なんてそうそうないし、着いてこれるまで待っててやれるほど優しくない、やるからには手加減なしでいくけど?」

 弱者の気持ちなどわからない、万能のひと。始まりから最強で、しかしそんな彼から差し出された手は、救いの光にも似ていた。──それに抗える者が果たしていただろうか?
 名前は手を取り、彼に並び立った。「構いません」そう、力強く応じ、言葉を続ける。

「先程も言った通り、遠慮は無用。五条先輩が無駄な時間だと判断されたなら私はそれに従います」

「そしたら名前はどうすんの?一人寂しく自習でもする?」

「そうですね……、その時は五条先輩も仰ったように夏油先輩に当たってみることにします」

 尤も、了承など得られないだろうが。名前に灰原ほどの積極性はないし、彼のような真面目な人に迷惑をかけるのは心の痛むことだ。
 ……などと正直に話したら、『じゃあ俺には心痛まないんだ』と言われることは確実。なので名前は沈黙を選んだ。
 ──のだけれど、

「ふーん……」

 暫くの静寂ののち、五条の低い声が聞こえた。それはさながら厭なものでも見たような、不快感の籠った声。まさか心の声を読まれたか、と瞬間名前は焦る。
 確かにこんな考えは気持ちのいいものではないだろう。でも彼に読心術の能力まで備わったとは聞いていない。いや、できたとしても今さら驚きはないが……

「いいよ、やったげる」

 けれど五条悟という男はどこまでも名前の想像を超えていく。不気味な静けさを破り、彼がしたことといえば、後輩のひとりに過ぎない名前の頭に手を置くことだった。
 まったくもって理解不能。半オートの術式、《反射》が発動しなかったのは偶然でしかない。なのに恐れを知らない五条悟は、素手で名前の肌に触れる。その上それは名前が思わず硬直してしまうほど優しい手つきであったものだから、なんというか……恐ろしくさえある。対照的に、片方の口角だけを持ち上げた笑みがまた悪人らしくて、その考えに拍車をかける。
 とはいえ気紛れなこの男から承諾を得られたのは、名前にとって僥倖と言ってもいい。ここは喜ぶべき場面だろう。気を取り直し、名前は「本当ですか?」と念を押す。
 すると、五条はくしゃりと笑った。心底おかしい、とでも言いたげに。

「マジマジ。つーか頼んできたくせになんで疑ってくるの?」

「いえ、自分でも分不相応な頼みをしている自覚はあったので……」

「別に俺だって慈善事業するつもりじゃないよ、自分の益にもなるかなって思ったから協力するって言ってんの。名前の術式、結構興味あるし」

 なるほど、それは納得のいく答えだ。五条悟らしい、しかしあくまで常識的な回答。もっとぶっ飛んだ要求をされるんじゃないかと身構えていたが、杞憂に終わってよかった。そこでようやく名前の肩から力が抜けた。

「では、これからよろしくお願いします」

「うん、それじゃあさっそく──」

 きらり、サングラスが光って、名前はハッと息を呑む。
 繰り出される拳。身を捩った先で、狙いすまされた足が襲いかかる。それもなんとか受け流して、名前は慌てて距離を取った。──それまでは目の前に立っていた、最強の呪術師から。

「今からなんて聞いてないですけど」

「言ったら奇襲になんないじゃん」

 睨めつけるも、効果はない。五条はカラカラと笑い、「やっぱ体術は術師の基本でしょ」などと宣う。まぁ確かに、こういった方面は不得手であるが。
 だがしかし、と名前は思う。やはりこの男は救いの神などではない。そうであってたまるものか。
 まんまと乗せられている自覚はあったが、名前は拳を握った。先刻の幻想を振り切るためには必要なことだった。