春にして君を想うT


 ひと仕事終えたところで、いやにタイミングよく名前の携帯が震える。メッセージの送り主は五条悟だ。彼以外に、毎度毎度ここまで察しのいい真似のできる人間はいない。
 最初のうちは『千里眼まで持っているのか』と訝しんだものだが、10年も付き合いがあれば自然と慣れるもの。大方、どこそこの銘菓を買ってこいなどという内容だろう。『またか』とは思うが、迷惑に感じることもない。

「…………?」

 しかし五条からの指示はそれだけじゃなかった。土産の催促と、その追伸として添えられた一文。

『いいもの見せてあげるから高専までおいで』

 ……まったくもって、気味が悪い。無機質な文字の連なりからすら機嫌のよさが窺えて、名前はちいさく身震いした。
 語尾にハートマークをつけるなんて、いったいこの人はどういうつもりなのだろう?まさか自分を女学生と同レベルなどと勘違いしてはいまいか。ありえない、と言い切れないところが五条にはある。

「……仕方ない」

 彼の突飛な言動に振り回されること幾星霜。名前は月明かりの下で溜め息をつく。
 断る、という選択肢がないのが厄介だ。五条には勿論、名前自身にも。『勝手なことを』と思うのにも関わらず、足は自然と夜道を進む。彼に命じられた通り、行き先はかつての学舎まなびや……ではなく、手配してもらったホテルへ。地方都市から東京まで戻るには、始発の新幹線を待つしかない。
 ただでさえ忙しいのに、この上さらに睡眠時間が削られるとは。脳内の五条に文句をつけながら、しかし現実の名前はといえば、嘆息しつつも黙々と夜道を歩いていた。





「そしてこちらが宿儺の器となった虎杖悠仁くんです!」

「どもっす!虎杖悠仁です!」

 きれいなお辞儀をしてみせる少年と、その隣で飄々と笑う男を前にして、名前の思考は一瞬止まった。
 寝ぼけ眼を擦り、高専の門を潜ると、待ち構えていた五条にすぐさま捕らえられた。よほど『いいもの』とやらのお披露目が楽しみだったらしい。我慢のできない子供だ。
 ……などと、冷静に考えていられたのもそこまで。《宿儺の器》、そう聞かされ、思考は停止する。

「宿儺……両面宿儺?この子が?」

「そ、……あれ?聞いてない?」

「聞いてません」

 何せこのところずっと仕事続きだった。五条と会うのも二週間ぶりになるだろうか。名前の狭い交友関係では新鮮な噂も滅多にやってこない。
 そんなのあなただって重々承知だろうに。そんな思いの滲む顰めっ面を浮かべた名前に、五条は「そっか」と笑みを深める。性格の悪い男だ。

「じゃあ友達のいない名前には僕が優しく教えてあげよう」

 とはいえ今頼れる情報源は彼しかないから、人を揶揄うばかりの唇が紡ぐ言葉にも耳を傾けざるをえない。
 虎杖悠仁という少年、その境遇。いかにして両面宿儺の器となったのか。そして今後どうするつもりなのか。あらかたの説明を五条から受け、名前は「なるほど」と改めて少年の方を見た。
 日に焼けた肌、幼さの残る顔立ち。発育途中ながら筋肉はきれいについている。それなりに鍛えた体だ、というのが名前の感想だった。

「こらこら、健全な青少年を視姦しない」

 いや、真面目に観察していたつもりだが。
 視界を覆う五条の手を掴み、肩越しに睨めつける。「嫌な言い方をしないでください」それは名前としては正当な苦情。しかし五条は名前を背後から抱き締める格好のまま、揶揄いたっぷりに口角を持ち上がる。

「だあって、ほら、見てみなよ。悠仁、緊張しちゃってるじゃん」

 「かわいそー」と責められて、初めて少年の強ばった表情に気づく。

「ごめんなさい、挨拶が遅れました。私は名前、一応キミの先輩にあたります」

 慌てて、外行きの笑みを刷く。相も変わらず五条に肩を抱かれているものだから、些か格好がつかないが。
 それでも最低限場を和ませることには成功したらしい。虎杖は朗らかに笑って、握手に応えてくれた。
 懐かしい笑い方だ。「よろしく」と言いながら、名前の内心には郷愁の念が溢れていた。虎杖の顔に重なるのは慕わしい面影。初恋の彼も、気持ちのいい笑い方をするひとだった。

「それにしても去年に引き続きあなたは……。他に道はなかったのですか?こんな普通の少年を器にだなんて……」

「心外だなぁ〜、その言い方じゃ僕が悪者みたいじゃないか。今回ばかりはなんにも企んじゃいないよ。むしろ殺されそうになってた悠仁をこうして助けてやったわけで……。ね、悠仁?」

「え?えーっと、まぁ」

 恐らく五条の言うことすべてが真実というのでもないのだろう。否定できないが、肯定もしきれない。曖昧な調子で虎杖は頷き、「でも、」と真っ直ぐに名前を見た。

「宿儺の指を食ったのは、俺が自分で決めたことです」

「……そう」

 力強い目だった。ごく普通の、平凡な高校生に見えたのに、そう告げる顔だけはひどく大人びて見えた。
 言いたいことは幾つかあった。小言や説教じみたもの、若き呪術師へのアドバイスだとか、そういった幾つかの台詞が名前の口から出かかった。
 けれど言うべきことも言いたいこともその殆どが舌の上で溶けた。結局口にできたのは、「無茶だけはしてはいけませんよ」という無難極まりない言葉だけだった。
 それでも虎杖は「はい!」と元気よく返事をしてくれた。この青空の下が一番似合う笑顔で。
 ……そんな些細なことに、救われた気持ちになる。大人は勝手だ。そう思っていた自分も、いつの間にかその仲間になっている。

「ほらぁ、だから言ったでしょ。僕はなんも悪いことしちゃいないって」

「そのようですね、すみません。あまりに都合のいい展開に、つい五条先生を疑ってしまいました」

「ついって」

 にんまりと笑った五条に頬をつつかれながらも、名前は素直に謝っておくことにした。彼とも長い付き合いだ。適切な距離感というものもだいぶ分かってきた。
 ……つもりだったのだけれど、

「悪いと思うんならその『五条先生』っていうのやめない?」

「はぁ……?」

「いつもみたいに『悟くん』でいいよ」

「…………」

 ──何を言っているのだろう、この人は。

 名前は僅かに眉根を寄せた。

「そのような呼び方をした覚えはないのですが」

 だから意味ありげな眼差しを向けるのはやめてほしい。
 虎杖の放つ、好奇の目に気づかないふりをして、名前は五条の拘束から抜け出した。そうするとあっさり離れていくのだから、なんだか納得がいかない。微妙な気分だ、と名前は寝不足の頭で思う。結局のところ、こういう人間なのだ、五条悟という男は。

 ──時々、それが少し、腹立たしくなる。

 そんな名前の複雑な心境など露知らず。五条は「真面目かよ」と言って、今度は名前の額をつついた。

「ま、そういうわけだから、頭の片隅にでも入れておいてよ、悠仁のこと」

「あなたに頼まれずとも聞いた以上は手を貸しますよ」

 名前は虎杖に向き直り、今度こそ普通の──つまりは取り繕ったものじゃない、仄かな笑みを浮かべる。

「不慣れなことも多いでしょう。私では役に立てることもあまりありませんが、いつでも声をかけてくださいね」

 ありきたりな言葉しか出てこないのが情けない。けれど虎杖は何故か感動した様子で「まともだ……!」と口を押さえた。まぁ確かに彼よりかは常識人だと思ってはいるが。そんなことを考えながら、名前は横目で五条を見た。

「ん?なに?」

「いえ、なんでも」

「なんだよ、言えよ。僕たちの間に隠し事はなしでしょ」

「絡まないでください」

 せっかく振りほどいたのに、また背後を取られてしまう。鬱陶しい。めんどくさい。でもその温もりに釣られ、小さなあくびが溢れ出た。

「あれ?おねむ?」

「おね……、そうですね、今朝は早かったので」

 ひょいと覗き込んできた五条は名前の肯定に対し、「ふーん」と声を洩らす。ふーん、それなら、さ、

「うちで休んでけば?ここからなら名前んちより近いっしょ。僕も今日は早上がりする予定だし」

 名前は五条を見上げた。見上げたけれど、視線は交わらない。交わっているのかもしれないけれど、名前にはわからない。彼の表情は、見えないから。

「……家主のいない家で寛ぐのは少々抵抗があるのですが」

「今さらでしょ。ていうかたまには合鍵使ってよ、せっかくあげたんだからさ」

 名前の中には幾つかの感情が浮かんでいた。名前のない感情が。それからこの10年のことを考えた。
 これまでの10年で何かが変わったろうか?この先の10年で、何かが変わるだろうか?そんなとりとめのない思考をよそに、名前の体は「わかりました」と勝手に頷いていた。
 まったく、始末に負えない。自由気ままな彼も、それが心地いいと思う自分も。
 溜め息をつく名前の頭を、五条は「いいこ」と撫でる。メッセージを受け取った時にも感じたことだが、えらく機嫌がいい。鼻歌さえ聞こえてきそうなほどで、名前は『まぁいいか』と力を抜いた。彼の手のひらで踊らされるのは、10年前も今も変わらない。