高専七海とお茶をする
古本からは様々な匂いがする。絵の具に似たカビの臭気、コーヒーの渋み、或いは刈ったばかりの草。どれも不思議と心を落ち着かせる匂いだ、と名前は思う。
パリッと乾いた新品の匂いもいいけど、古本屋の匂いも好ましい。幼い頃、逃げ隠れるようにして潜んでいた書庫を思い出す。
しかし、感傷に浸っている暇はない。今は仕事中、《呪われた本》を探さなくてはならない。それが今回の任務だ。けれど幾ら目を凝らしても、呪いの気配すら掴めなかった。
この店は《はずれ》だったのだろうか。古書街に現れては買った者に危害を加える。いまのところこの呪いについてはそれしかまだわかっていない。
この任務は骨が折れそうだ。名前は嘆息し、腕時計を見る。お昼はとうに過ぎ、空きっ腹も気にならなくなってきた。とはいえそろそろ何か食べておいた方がいいだろう。名前は辺りを見回した。
「七海くん、」
「……っ」
足音を忍ばせ、そっと制服の裾を引く。と、大袈裟なくらいの反応を示された。静謐を壊さぬようにと音を殺したのだが、そのせいで随分と驚かせてしまったらしい。
名前は「ごめん」と謝ってから、時計を指差した。
「そろそろ休憩にしない?」
「……そうですね」
一考ののちに七海は頷く。彼もまた過ぎ去った時間に気づいていなかったようで、「もうそんな時間か」とひとりごちる。一般的な昼食の時間からは既に三時間ほど経過していた。
「この辺にいいお店あるかな。七海くんは知ってる?」
「ああ、それなら……」
七海が教えてくれたのは、ここから徒歩圏内にあるブックカフェだった。
「こんなお店もあるんだね」
早速入店した名前は物珍しさに視線をさ迷わせる。幾つもの書棚の並ぶ、明るい店内。お昼時を過ぎたためか、人影は疎らである。だが悪くない雰囲気だ。ひとりで読書に耽るもの、或いは何人かで固まって書物を中心にした会話をするもの。皆思い思いの時を過ごしているのがわかる。
「はじめてですか?」
「うん、こういったところがあるのも今知ったばっかり」
「それなら紹介できてよかった」
無知を笑うでもなく、七海は穏やかに口許を緩めた。
一般家庭出身の彼や灰原は、根っからの呪術師である名前が知らなかった多くのことを教えてくれる。いつも、いつも。厭うことなく導いてくれる彼らのことが名前はとても好きだった。
名前は「ありがとう」とはにかみ、コーヒーに口をつけた。
七海の真似をして飲み始めたものだが、このコーヒーなる代物も存外クセになる味をしている。家に留まったままなら知らなかった味。七海が教えてくれたもの。己が作り替えられていく感覚が心地よかった。
「七海くんはこういうとこよく来るの?」
「まぁ、休みの日には時々」
「やっぱり。よく似合うなって思ってた。今も、古書店にいる時も」
「……ここはお礼を言うべき場面でしょうか」
「私としては褒めてるつもりなんだけど」
名前はサンドイッチを頬張る。パン生地が柔らかくて、ペロリと平らげてしまえそう。デザートも頼めばよかったかな、と少し後悔する。また来る機会があるといいんだけど。
「よく知らなかったけど、私、好きだなって思ったよ。古書店の雰囲気。静かで、落ち着いてて、すごく居心地がよかった」
「……その辺はわかります。あの独特の匂いがまた心を穏やかにしてくれるんですよね」
「そう!私も、そう思ってた」
奇しくも同じことを考えていたらしい。思わぬ共通点に、名前は破顔する。七海と同じ気持ちだとわかったのが嬉しかった。
古本特有の褪せた匂いを思い出しながら、名前は「住み着いてしまいたくなる」と冗談めかして続ける。
「呪術師やめて古本屋で働こうかな」
「でもああいった湿気た場所には呪霊も集まりやすいですよ」
「そっか、どこまで行っても私たちは呪いから逃れられないんだね」
「……人間社会で生きていく以上、見える者に安住の地はないですよ」
……なんだか、湿っぽい空気になってしまった。
名前は内心『しまったな』と思いつつ、コーヒーを飲んだ。どうも話題選びで下手を打つことが多い。
やはり高専に入るまで親族以外と関わりがなかったのが原因になっているのだろう。人付き合いが不得手な質であることを、この頃の名前はうっすらと自覚するようになっていた。
「……それなら早期リタイアして、引退後に新しくお店開けばいいんじゃないかな。呪霊が出ないよう、護符もいっぱい用意して」
苦し紛れに紡いだのはそんな夢物語。七海はともかく、名前にそんな道は用意されていない。呪術師の家に生まれたのだから当然だ。今さら、悲しんだりなどしない。
けれど七海が「いいですね」と控えめに笑うものだから、少しだけ胸が痛んだ。夢は夢でしかないのに。なのにあり得ない未来を惜しいと思ってしまった。
そんな気持ちを隠して、名前は笑う。
「それじゃあ約束ね。私と七海くんは運命共同体だよ」
「……灰原は呼ばなくていいんですか」
「灰原くん?どうして?」
「いえ、……なんとなく」
突然出てきた同級生の名前に目を瞬かせる。と、七海は曖昧に笑った。本当に理由などなかったのかもしれない。たった三人の同期だ。そう考えれば七海の問いは特別不思議なものではなかった。
名前は顎に手をやり、考える。灰原雄。彼の眩しいほどの笑顔を思い出しながら、夢想する。
「まぁ灰原くんも似合わなくはないけど、というか接客業なら似合わないものはない気がするけど」
「……たしかに」
「でしょう?でも灰原くんのあの積極性なら教師とかそういうのの方が向いてる気がする」
彼は名前にはないものを持つ人だ。未だに彼がどうして呪術師の道を選んだのかよくわからない。彼と同じ仕事をしているというのが不思議でならない。
名前は恋慕う気持ちと同じだけ、彼に対しては憧憬の念も抱いていた。手の届かない美しきもの。店内に差し込む白々とした光に、知らず笑みが溢れる。
彼はこの日差し、目映い青空に似ている。
「だから古本屋やるなら七海くんとがいい」
眩しさのためか、七海は目を細める。榛色の瞳は日差しに溶けて、どこか甘やか。「そうですか」と応じる声すらも。
甘美なものに感じられて、名前はコーヒーを飲み干した。